消滅と再生
深い深い緋色の中で、火の精霊は、ゆらりゆらりと揺蕩う水色の魔力を見ていた。
それは、紫水晶のような、人間の拳ほどの魔石からゆっくりと立ち上っている。
ここは、ネイクーン王国の北部。
火の精霊の聖地である、フォグマ山だ。
遥か昔、竜人族が水の精霊をネイクーン王国に落とした時、この水晶のような魔石を水の精霊の心臓部として、フォグマ山に埋め込み、火の精霊の影響を抑えた。
そこから流れ出るのがベリウム川だ。
今、その魔石から水色の魔力が離れ、一つの水の精霊になった。
水の精霊が再生したのだ。
« 目覚めたか »
火の精霊が言った。
水の精霊は、ふわりふわりと魔石の近くを飛んだ後、小さく首を傾げた。
« 私は 何故ここに? »
ここが火の精霊の場所であることは、一目瞭然だった。
本来、水の精霊が再生する場所は、水の中であるはずだ。
« お前の核がここにあるからだ »
水の精霊は尚も首を傾げる。
なぜ精霊の私が、核を持っているのだろう。
しかも、それが何故、火の精霊の聖地にあるのか。
« 覚えていることは? »
« 何も…… »
唐突に火の精霊にそう聞かれて、水の精霊はぼんやりと緋色の世界を見回す。
火の精霊は、何故そんなことを尋ねるのだろう。
再生されたということは、使用されて消滅したということだ。
まっさらに戻った精霊に、覚えていることなど、あろうはずがない。
それなのに、何故か胸がざわつく。
気が急いて、早くここを出て行かないといけないような気がした。
早く、戻らなければ。
でも、何処へ?
« もう 行く »
火の精霊は何も答えない。
それで、水の精霊はそのまま緋色の世界を飛び出した。
フォグマ山の外へ出ると、視界いっぱいに青空が広がる。
その青空の色に包まれて、突如、怒涛のように多くの記憶が甦った。
« あ、あ……、ああっ! »
セルフィーネは胸が張り裂けそうな想いに、声を上げる。
« カウティス! »
セルフィーネはネイクーン王国の空を駆け、カウティスを探す。
その小さな魔力では、視界を広く伸ばすことは出来ない。
そして、同じ魔力を纏っていないカウティスを、すぐに見つけることも出来なかった。
セルフィーネの契約魔法はもうない。
記憶を取り戻しても、今のセルフィーネは世界を支える水の精霊の一部に過ぎない。
王城の側まで駆けた時、セルフィーネは世界を支える精霊として、世界に使用される。
そして、カウティスを見つける前に再び消滅した。
世界の理の中に存在する精霊は、消滅と再生を繰り返す魔力の塊なのだから。
フォグマ山を飛び出して、一日も経たず魔石に戻って来たセルフィーネは、再び再生を待って、僅かに水色の魔力を揺らし始めた。
« 今回は早かった »
火の精霊が呟いた。
セルフィーネがザクバラ国で月光神を降ろし、消滅してから、既に半年が過ぎた。
この間に、セルフィーネが再生したのは十回以上を数える。
まっさらになって再生しているはずなのに、その度に彼女はカウティスを思い出し、彼に添う為に飛びだして行く。
時には、カウティスの側まで辿り着くこともあった。
しかし、ただの精霊の光として近付いても、おそらく周りの誰もがセルフィーネだとは気付いていないのだろう。
そして、精霊は使用されるもの。
長くても十日程で、使用されてセルフィーネ消滅した。
消滅する度にここに戻り、まっさらになって再生するのを繰り返していた。
« 何故 核を壊さない? »
火の精霊が、熱く灼ける緋色の空間に向かって尋ねた。
そこには、一匹の白い翼竜がいた。
筋肉質な肉体には硬質な鱗が並ぶが、喉元にひび割れた部分がある。
竜人ハドシュの変態した姿だ。
人間には決して入ることの出来ない、火の精霊の灼熱の空間も、竜人であれば入り込める。
〘 さあ、何故だろうか…… 〙
ハドシュはセルフィーネの核を壊さず、そのままにしてあった。
これを壊さない限り、セルフィーネは消滅する度に、ここで再生することになる。
« 壊して 自由にしてやれば良い »
火の精霊は言った。
以前は確かに、水の精霊を、物言わぬ精霊に戻すべきだと思っていた。
竜人族が導く世界には、精霊の進化は必要ない。
現に、月光神はザクバラ国を浄化する為に、水の精霊を使ったのだから。
しかしハドシュは答えず、紫水晶の周りで細く揺れる魔力を見つめ続けていた。
土の季節、前期月も終わりに近付く頃。
ネイクーン王国の西部国境地帯には、ベリウム川沿いに長く長く堤防が続く。
着工から六年程経った現在、上流の北部へも伸び、下流は聖堂を過ぎる辺りまで完成していた。
対岸のザクバラ国側は、ネイクーン側の三分の一に満たない長さではあるが、最近作業効率が上がっているようなので、このまま順調に伸びていくだろう。
そして堤防の向こうには、対に並んだ塔が特徴の、背の高い建物が見える。
白を基調に、濃紺の飾り屋根や建具が使われ、各所に銀細工が施された優美な造りの建物は、完成したばかりのベリウム聖堂だ。
明後日には、ネイクーン国王や高位貴族達、設計から建築に関わった者達の他に、オルセールス神聖王国の司教クラスの聖職者も訪れ、落成式が行われる予定だ。
緑生い茂る美しい川沿いで、小鳥が楽し気に歌う声が響く。
陽光を弾く水面は穏やかで、サラサラと流れる水音はとても涼やかだ。
「ん~~、気持ちいいっ」
水色の祭服から、白い二の腕まで露わにして、大きく伸びをしたのは聖女アナリナだ。
明後日の落成式に参列する為に、オルセールス神聖王国から到着したばかりだった。
水気を含む清浄な空気で深呼吸して、アナリナは満足気に微笑む。
キツめに編んで垂らしてあった、腰まで伸びた青銀の髪を揺らして、よしと気合を入れるように祭服の裾を持ち上げる。
「せっ、聖女様!?」
後ろでギョッとしたのは聖騎士カッツだ。
護衛対象の聖女から目を離してはならないが、膝上まで素足を晒した姿を凝視する訳にもいかず、顔を背けた。
お付きの女神官が慌ててアナリナを止める。
澄んだベリウム川の水に入る気満々だったアナリナは、盛大に唇を尖らせた。
聖女としては好まれない表情だ。
「相変わらずですねぇ、アナリナ」
笑い含みの声がした。
白灰色の堤防を下りて、川辺のアナリナの方に向かって歩いてきたのは、イスターク司教だ。
以前よりもやや恰幅が良くなった彼は、アナリナの格好を見て、焦茶色の濃い眉を呆れたように下げている。
アナリナはイスタークの方を振り返って、パッと顔を輝かせた。
祭服の裾を跳ね上げて走り寄ると、イスタークを通り越して、斜め後ろに付いていた聖騎士に抱きつこうと両腕を広げた。
抱きつかれる寸前に、長身の聖騎士は、腕を突っ張ってアナリナの両肩を掴んで止める。
以前、アナリナに抱きつこうとして避けられた経験があるイスタークは、恨めしそうに彼女を見る。
そんなイスタークの視線を無視して、アナリナは不満気に騎士をひと睨みしてから言った。
「ちょっとした挨拶じゃないの。カウティスの意地悪!」
青味がかった短い黒髪と、白い聖騎士のマントが微風に揺れる。
アナリナを止めた両手をそっと離して、27歳になったカウティスは、少し困ったように頬を掻いて笑った。
ザクバラ国の奇跡の一夜から、五年と季節二つ分が経った。
タージュリヤ王太子の反乱に端を発した政変は、翌日にはほぼ全域で沈静化された。
国王が神の怒りを買って倒れたと、風の速さで広まったのが決め手だった。
あの夜の奇跡で、ザクバラ国の澱んだ気は全て消え去った。
頻発する魔獣被害や、原因不明の体調不良などもなくなり、民から寄せられていた神殿への呪詛に関する嘆願も収まった。
しかし、政変と水害、魔獣による被害等、ザクバラ国に残されたダメージは甚大だった。
生き残ったリィドウォルとタージュリヤは、フルブレスカ魔法皇国に助力を求めた。
皇帝は求めに応じ、タージュリヤ王太子の後ろ盾となって多くの復興援助をしたが、それと共にザクバラ国の貴族院は、皇国から送り込まれた貴族が半数を占めるようになる。
三国共有の水の精霊を消滅させたザクバラ国は、ネイクーン王国とフルデルデ王国から責任を問われるも、そこに神の意志が介入していることから大きくは拗れなかった。
皇国の仲裁もあり、ネイクーン王国とは速やかに終戦条約が結ばれた。
ザクバラ国は、西部国境地帯を含む旧ザクバラ国土を、永久に所有権の主張を放棄することとなった。
終戦条約締結を待って、奇跡の一夜から二年経つ頃には、リィドウォルは宰相を辞する。
新宰相には皇国の高位貴族が就いた。
実質、フルブレスカ魔法皇国がザクバラ国を押さえた形で落ち着いたが、予定より三年程遅れて婚姻を成したタージュリヤ女王とセイジェ王配によって、徐々に新しいザクバラ国に変わっていくだろう。
表舞台から退いたリィドウォルが、現在どのように過ごしているのかは、他国の者には分からない。
風の噂では、古い契約魔術についての研究に携わっているというが、それが事実なのかは定かではない。
「ご飯、毎日ちゃんと食べてる?」
聖堂に向けて歩きながら、アナリナがカウティスの顔を覗き込んで言った。
「はい。ご心配には及びません」
カウティスが薄く笑むと、アナリナはものすごく不満気に、カウティスの腕を肘で突付いた。
「敬語はなしって、約束したでしょ?」
「それは……、以前とは立場が違いますので」
敬語を使わないと約束したのは、アナリナがネイクーン王国へ滞在中、南部へ巡教した時だ。
今のカウティスは聖騎士で、聖女に対等な口調で話すなど有り得ない。
あの日の後、人々の救出と視察団の役目を終えたカウティスは、イスタークとの約束通り、オルセールス神聖王国で研修に入り、その後正式に聖騎士となった。
そして、そのまま二年強を神聖王国で過ごした。
三国から離れることが出来て、セルフィーネを失ったあの頃のカウティスには、丁度良かったのかもしれない。
立場云々と言われても、アナリナは納得出来ない様子だ。
「そんなの関係ないわ。私達は友人でしょう?」
そう言ったアナリナの顔を見て、イスタークが仕方ないというように、カウティスに軽く頷いて見せた。
「……ああ。ありがとう、アナリナ。だが本当にきちんと食事も摂っているし、休んでいるから心配ない」
カウティスは言葉を切って、小さく笑う。
「年寄りになっても待っていると約束したから、不摂生は出来ないのだ」
アナリナは、青銀の眉を下げる。
「……ずっと、セルフィーネを待つのね」
「ああ」
答えるカウティスには、迷いがない。
「それに、時々、セルフィーネが側にいると感じるのだ」
カウティスの言葉に、アナリナは驚いて目を瞬いた。
「どういうこと? セルフィーネは戻ったの? え、でも、カウティスは……」
困惑してアナリナはカウティスの右手を見た。
カウティスはあの夜に神聖力を失くした。
今のカウティスは、准聖騎士だ。
そもそも、元々あの神聖力は、セルフィーネのものだったのだろう。
魔術素質のないカウティスには、今は精霊の光すら見えないはずだった。
「精霊は見えない。……でも、時々感じるのだ。側にいて、見守ってくれていると。……おかしいと思うか?」
カウティスの瞳は優し気な色をしていて、無理にそう思い込もうとしているようには見えない。
「ううん、信じるわ。だって、あなた達の関係は、いつだって特別なんだもの」
アナリナは、最後に見たセルフィーネの姿を思い出す。
カウティスのマントを胸の前で掻き合せ、嬉しそうに微笑んでいた、彼女の姿を。
フォグマ山の深い深い緋色の中に、ハドシュは翼竜の姿で飛び込んだ。
大きな爪の付いた足で、岩のような塊を掴み、翼を畳む。
水の精霊の核に近付こうと、足を踏み出した時、ここでは聞くことのないはずの声が響いた。
「やっと会えたねぇ。待ちくたびれたよ」
ハドシュが声のした上の方へ、真紅の瞳を向ける。
枝のように見える影の上に、一羽の鳥が止まっていた。
この空間に、普通の鳥が入れるはずはない。
その尾の長い臙脂色の鳥は、いつか見たことのある使い魔だ。
「あの時のエルフか……。何の用だ」
ハドシュが反応すると、鳥はぷるると羽を膨らませてから首を下げて、黒曜の円な瞳でハドシュを見つめて言った。
「そろそろツケを払って貰いたくてね」




