凶行
この回には、暴力的な表現があります。
苦手な方はお気を付け下さい。
「セルフィーネッ!!」
カウティスは手を伸ばしたまま、階下に向かって叫んだ。
二階部分が落ちたのと、隣室との間の壁が崩れたことで、ガラガラと鼓膜を揺さぶる大きな音がした。
それと共に粉塵が舞い上がり、祭壇の間は一時的に視界が効かなくなった。
カウティスは咳き込みながら、袖で鼻と口を覆う。
一体何が起こったのか。
今のは明らかに魔術によるものだ。
しかもこんなに威力のある魔術を、何者が。
カウティスは、階下を覗き込む。
下の様子は全く分からなかった。
落ちたセルフィーネは、無事なのだろうか。
気は急くが、何も見えないのでは、飛び降りたくても飛び降りることが出来ない。
あまりのもどかしさに、一度唸って拳を壁に叩き付けた。
とにかく下りなければ。
踵を返すと、いつの間にかラードが後ろに来ていた。
「カウティス様、ザクバラの近衛隊です!」
ケープの裾で鼻から下を覆って、開け放ったままの扉を示す。
「近衛隊!?」
近衛隊がいるということは、領街に来ていると言っていたザクバラ国王も、ここにいるのだろうか。
まさか、この事態を起こしたのが、国王だとでもいうのか。
目の前の惨状に、絶句する。
ここは神殿だというのに、何という事だろうか。
カウティスとラードは扉を潜り、隣室の階段上に出る。
こちらも、祭壇の間ほどではないが、壁の穴から噴き上がった粉塵で、あまり視界は良くなかった。
二人は階段を駆け下りる。
今、目の前にセルフィーネがいたのに。
もう手が届きそうだったのに。
歯噛みする思いで下りると、黒い騎士服のザクバラ国近衛隊が数人いた。
聖騎士カッツとタブソンが、イスタークと女司祭を守るように付いた側に、二人の近衛騎士が気まずそうな表情で立っている。
そして、床に膝をついて手を上げたリィドウォルの側に、警戒した様子で三人。
その内一人は、抜き身の片刃剣をリィドウォルに向けていた。
カウティスとラードが階段を駆け下りて来たのを見て、リィドウォルの側にいた二人が、一瞬怪訝そうな顔をして剣を握った。
ザクバラ騎士のマントを纏っているカウティス達が、この場の敵か味方か分からなかったのだろう。
「よせ。その者達も視察団だ」
リィドウォルの一言で、近衛騎士は明らかにホッとしたようだった。
しかし、抜剣していた隊長の記章を着けた騎士は、刃の先をリィドウォルの胸に突き付ける。
「発言の許可はしていない」
リィドウォルは無表情に近衛隊長を見上げる。
「…………このような暴挙をなぜ許した。神殿に武力で乗り込むなど、歴史に陛下の汚名を残すような……っ」
リィドウォルの胸に、剣先が僅かに沈む。
「陛下だけでなく、我々全てを捨てた者が、知ったような口を利くな!」
「……どうなってる?」
最後の一段を慎重に下りながら、この状況に眉を寄せて、カウティスがラードに小声で聞く。
「リィドウォル卿を捕らえに来たようですが……」
確かに、リィドウォルの側には殺気立った様子の近衛騎士がいるが、イスターク達の側に立つ近衛騎士は、彼等に危害を加えようとする様子はない。
寧ろ、顔色が悪いようだ。
まるで、こんなはずではなかったというような雰囲気だ。
この世界において、兄妹神信仰は絶対だ。
その兄妹神を祀るオルセールス神聖王国に弓引く行為は、禁忌なのだ。
彼等は、神殿での今の状況に慄いているように見える。
神殿に武器を持って侵入し、聖職者の前で神殿を破損したのだ。
イスターク達の側に立つ騎士達の様子を見ても、彼等にとって、この事態は想定外なのだ。
この場を離れて、何とか祭壇の間へ向かいたいカウティスは、騎士達の隙をつく方法を求めて周囲を見回す。
一瞬、半眼になったイスタークと目が合った。
「この惨憺たる有様は、一体どういうことかね」
カッツを押し退けるようにして、イスタークが一歩前に出た。
その声にも表情にも、冷ややかな怒りが有り有りと現れている。
「ここが何処なのか、知らない訳では無いだろう。ザクバラ国の騎士は、まさか神々の御手から離れたのではないだろうね?」
神々から見放されたような表現に、明らかに近衛騎士達に動揺が走った。
その動揺を見逃さず、カッツが厳しい声で追い打つ。
「この方は、オルセールス神聖王国の次期聖王候補である、イスターク司教猊下だ」
近衛騎士が目を見開いて、怒りも露わなイスタークを見た。
「貴国の民からの嘆願を受けて、自ら視察に赴かれたというのに、神を冒涜する行為を目の当たりにされることになるとは。ザクバラ国の騎士道は地に落ちたか!」
カッツ達の側にいた近衛騎士は、慄くようにして、数歩下がった。
近衛隊は聖職者に手を出せないようだ。
カウティスは、この場がイスターク達に意識を向けている間に、大きく空いた壁の穴を抜けようと足を踏み出した。
「ザクバラ国の騎士道は、信仰よりも国主たる王への忠信と敬意が重んじられるのだよ、司教」
穴の向こうから、やや掠れた低い声が響いた。
コツリと固い物をつく音と、石塊の上を歩く足音が近付くと、ムッとするような澱んだ気配が辺りに広がった。
粉塵以上に、吸い込んではいけない毒のように感じて、カウティスは無意識に袖で口元を覆う。
ラードも顔を歪めたが、聖職者達は更に強く反応していた。
壁の穴のところに積もっていた瓦礫が、隣室側に蹴られて転がされる。
「我が国に在るからには、神殿もまた同様に、国王の治下だ」
収まってきた粉塵の中から姿を表したのは、ザクバラ国王だった。
既に80歳近いはずの王は、黒い詰襟を隙なく着こなし、背筋は伸びて、まるで中年の様相だった。
後ろに纏められた灰墨色の髪と、左の頬を中心に赤く引き攣れたような跡があることだけが、何処か不自然に老年を感じさせる。
国王に心酔しているかのように、少しも動揺のない様子で付き従う、近衛騎士が後方に数人控えていた。
イスタークは焦茶色の瞳に確たる信仰を込めて、ザクバラ国王に向かって踏み出した。
側の近衛騎士は、自然と下がる。
「ザクバラ国王よ、我々が生きているこの世界は、全て神々の治下だ。そんな妄言は通用しない」
「そうかな?」
王は少しも怯むことなく、黒光りする杖を素早く振った。
止める間もなく稲妻が走り、咄嗟に前に立ったカッツもろとも、イスタークを後方へ吹き飛ばした。
「猊下っ!」
ダブソンが駆け寄ろうとするところへ、更にもう一撃稲妻が走り、ダブソンと女司祭を薙ぎ倒した。
「本当に神々の治下だというのなら、信仰厚いそなた達を、すぐにでも神が救って下さるだろう!」
高らかに笑って、王は両手を振り上げる。
粉塵の埃臭さの中に、焼け焦げたような匂いが混じる。
壁際で呻きながら、頭を押さえたイスタークの手に、血が伝う。
白い聖職者のローブは、前身が焼け焦げていた。
「……陛下……、何ということを……」
近衛騎士隊長を含め、こちら側にいた騎士達が、目の前の惨状を目にして、血の気を失って呟いた。
神殿だけでなく、ザクバラ国の民の為に入国した聖職者に攻撃を加えた。
国の頂を担う者が、正気の沙汰ではない。
リィドウォルもまた、離反したとはいえ、あれ程敬愛していた叔父の壊れていく姿に、胸を抉られた心地だった。
「…………叔父上」
剣を向けて走り寄る気配に気付き、王が黒光りする杖を振り上げる。
剣と杖が交わり、ギギッと金属の擦れる耳障りな音が響いた。
すかさず近衛騎士が間に入って来て、剣を持ったカウティスが飛び退って距離を開ける。
低い姿勢で、カウティスはザクバラ国王を睨め上げた。
イスターク達聖職者に危害を加えたのだ。
聖騎士のカウティスには、剣を向ける正当な理由がある。
「……何者だ?」
王が黒眼を細めて、カウティスを窺う。
その身の内に詛の僅かな燻りを感じて、更に強く目を細める。
そして、突然破顔した。
「そうか! お前がカウティスか!」
黒髪碧眼で、水の精霊が強く執着を見せているという、ネイクーン王国の王弟。
先程の詛の暴走で、激しく憎悪の気を撒き散らしていたのは、ザクバラ王族の血を引くこの者だと思った。
調べでは、ネイクーン王国とフルデルデ王国から、水の精霊を取り戻すべく、使者が派遣されたはず。
カウティスはそれよりも早く、聖職者に混ざって入国していたのか。
「ははははは……、水の精霊を取り戻しに来たか? しかし、もう遅い。あれの意識など既にないわ」
ザクバラ国王が喜々として後ろを指差した。
粉塵で汚れきった毛布を引き摺った近衛騎士が、投げ捨てるようにそれを落とした。
カウティスが大きく息を呑む。
近付いた王が、杖の先で毛布の端を捲る。
ハラリと開いた毛布の中から、赤黒い泥の塊のようなセルフィーネが見えた。
辛うじて残っていた白い指が二本、微かに動く。
「これはただの魔力の塊よ!」
王はセルフィーネの白い指を、振り上げた杖で叩いた。
「やめろーっ!」
ずっと遠巻きだった精霊達が、一斉に狂ったように動き出した。
カウティスは、咄嗟に駆け出した。
抜き身の片刃剣を持って前を塞ぐ近衛騎士も、再び杖を振り上げた王も、全てを無視して、セルフィーネを目指して最短を全力で駆けた。
セルフィーネの白い指が、全て爛れに埋もれた。
「セルフィーネ!!」
長剣を手放し、瓦礫の石塊の中に滑り込むようにして、カウティスは目一杯腕を伸ばす。
そして、ようやくその腕の中に、泥のようなセルフィーネを抱き締めた。
薄い割れ目から、ヒューヒューと音がする。
弱く輝いていた紫水晶の瞳から光が消え、赤い靄が滲む。
弱く地鳴りのような音が、何処からか響く。
「セルフィーネ、駄目だ!」
カウティスは彼女の背中と思われる部分に、必死に右掌を滑べらせた。
「戻れ! セルフィーネ!」
突如、吸い付くように右掌が内に引かれた。
泥のようなセルフィーネの身体に、カウティスの右掌がぴったりと合わさり、完璧な聖紋が輝いた。




