信頼と愛情と
カウティスが、怒りの感情も露わに長剣を持つ右手を振り上げた。
ダブソンの後ろから乗り出すようにして、イスタークが叫び、女司祭は両手で顔を覆う。
手摺をキツく掴んで動けないリィドウォルから剣先を離して、カッツが踏み出す。
ラードが再びカウティスの右腕に向かって手を伸ばした。
しかし、誰もが辺りに渦巻いた黒い気配に圧力を掛けられ、身体を貼り付けられたように、それ以上動くことが出来なかった。
暴力というこれ以上ない甘美な誘惑に流され、今にも足下のイルウェン目掛けて、抜き身の剣を振り下ろそうとしていたカウティスが、ビクリと身体を強張らせた。
カウティスの頬を、スイと細い細い魔力が撫でたのだ。
精霊達の光は、一つ残らずこの辺りから散っているのに、何もない所から蜘蛛の糸が伸びるように、細く頼りなく揺蕩う魔力が、カウティスにそっと触れる。
は、と僅かに息を吐いたカウティスの唇から、震える声が漏れた。
「………………セルフィーネ」
その魔力は、今まで幾度となく触れ合ってきた、セルフィーネのものだ。
リィドウォルは共に引き摺られそうになるのを、必死に耐えて手摺を掴んでいた。
歯を食いしばり、糸のような魔力を見つめる。
細く細く揺蕩う魔力は、隣室の祭壇の間にいるセルフィーネのものだ。
しかし、その魔力はあまりにも頼りなく、全てを洗い流す清らかさも、ましてや白く輝く神聖力も見て取れない。
「……無理だ、セルフィーネ。もうカウティスは戻れない」
完全に飲まれているカウティスを引き戻すには、今のセルフィーネの魔力では全く足りない。
その弱い魔力は、強張ったカウティスの頬を、ただ愛おしむようにして、再びゆっくりと撫でた。
触れているのか、触れていないのか分からないような、神聖力も、美しい輝きもない、今にも消えてしまいそうな魔力だった。
しかしそれは、カウティスへの情に満ちている。
ただ、『好きだ』と、『誰よりも大切だ』と、その想いだけに溢れていた。
その途端、カウティスの脳裏に、眩しく火花のように散って、過去が甦った。
絹糸のように流れる、青味がかった紫の髪。
吸い付くような滑らかな白い肌。
ぴったりと胸に沿う、微かな重み。
触れたところから薄桃色に色付く、柔らかな頬。
細く白い指先が、カウティスの頬を愛おしむように撫でて、この上なく幸せそうに細められる紫水晶の瞳。
「あっ、が……、ううっ……!」
カウティスは、振り下ろす寸前で止まっている右手の長剣を睨んだ。
ギラリと冷えた光を放つ刃が、目の前の獲物を、さあ斬れと誘う。
衝動を開放して、何もかもを破壊し尽くせと、身体の奥底から湧き出る黒いものが喚き続けている。
セルフィーネの細い魔力が、カウティスの頬から剣の柄を握る右手へ流れる。
長剣を握る、カウティスの右手が震える。
茶の混じる黒髪の下で、こめかみに筋が浮く。
カウティスは自問した。
この手にある剣は、本当に今この者を斬る為に握られているのだったか?
日の出の鐘が鳴るまで、毎日剣を振り続けていたのは、一体何の為だった?
セルフィーネの魔力が、耐えきれないというように切れ切れに散った。
カウティスは大きく息を呑む。
セルフィーネを守らなければ。
守ると誓った。
必ず守ると。
この剣で……。
『私を守るのは剣ではない。そなたの曇りなく澄んだ瞳と、真っ直ぐな心だ。それが何よりも私の力になる』
記憶の中のセルフィーネが、カウティスに向かってふわりと微笑む。
信頼と愛情に満ちた微笑み。
『カウティスだけが与えてくれる、私の守りだ』
「ああああぁぁーっ!!」
カウティスが叫んで右手を振り下ろした。
「カウティス様!」
突如、貼り付けられていた圧力から解放されて、ラードが駆け寄った。
カウティスが振り下ろしたのは、抜き身の刃ではなく、右手で掴んだ柄の方側だった。
後頭を柄で殴られ、イルウェンは気を失ったようだ。
カウティスは数歩よろけて、汚れた床に膝を付いた。
長剣を手放し、服の上から両手で胸の辺りを掻きむしるように掴む。
「俺はっ……絶対に……!」
絶対に、セルフィーネを二度と悲しませたりしないと、約束した。
幸せだと、微笑む姿をずっと守っていく。
ずっと、絶対に。
セルフィーネは、俺を信じて待っている。
「……っ、セルフィーネのところに……行くんだっっ!」
人間の心を壊す、こんな下らない“詛”などに、負けてたまるものか!
ダラダラと汗を流し、空気を求めるように喘ぎ続けていたが、カウティスから漂う暗い気配は急速に小さくなっていった。
ゼェゼェと喉の奥を鳴らして、不意にカウティスが脱力した。
ラードが背中を支えると、顔を上げたカウティスと視線が合う。
その瞳は、澄んだ青空の色だった。
「カウティス様……」
「…………すまない。心配をかけた」
そう言って、汗まみれの顔で僅かに笑んだ。
皆がひとまず安堵の息を吐いた中で、リィドウォルは一人、階段下で呆然とカウティスを見つめた。
確かに飲み込まれたのに、まさか、自力で戻ってくるとは。
セルフィーネの魔力によって清められたのでも、聖職者の神聖力で抑えられたのでもない。
自らの精神力で、詛を抑えつけた。
こんな事が起こり得るなどと、今まで夢にも思わなかった。
立とうとするのを無理矢理に押さえ付けられて、イスタークに何やら小言を言われながら、神聖魔法を掛けられていたカウティスが顔を上げる。
リィドウォルと目が合った。
「……セルフィーネは?」
掠れた声で尋ねるカウティスは、疲れが滲んでいるのに、さっきまでと違い、真っ直ぐな瞳をリィドウォルに向ける。
その瞳は、リィドウォルに対しての不快感は残すものの、暗い気配は感じない。
正に今飲み込まれたところだというのに、人格に僅かの影響も残していないかのように、驚く程に澄んでいた。
何の威圧もないのに、リィドウォルはその視線に気圧される。
「…………上だ」
キツく握り過ぎて固まったような両手を、手摺から無理矢理剥がす。
カウティスから視線を逸して、脇へ避けた。
カウティスは、もうリィドウォルに何の興味も持っていないかのように、横を素通りして階段を駆け上がる。
何の装飾もない木製の扉を押し開き、祭壇の間の二階部分へ足を踏み入れた。
カウティスは鋭く息を呑んだ。
「セルフィーネ!」
二階部分の最奥、祭壇の上に近い部分に、セルフィーネはいた。
赤黒い泥のような塊が、斜め上の採光窓から入る青白い月光に照らされている。
頭と思われる部分からは、酷く濁った青色の髪のような物が重く垂れ下がり、床に広がっていた。
カウティスの呼び掛けに、泥の中に浮かんでいるように見える白いものが、微かに動いた。
白く細い、セルフィーネの指だった。
五本の指が、カウティスを求めるように伸ばされる。
「セルフィーネ!!」
カウティスは駆け出した。
「……あ、……あ……」
細い割れ目のような部分から、微かな声が漏れる。
泥の中に埋もれるように光る、宝石のような紫の瞳から、雫が零れ落ちた。
カウティスが腕を伸ばした時、ズン、と建物が重く振動した。
バランスを崩して、強かに壁に身体を打ち付ける。
狭い二階部分の、カウティスとセルフィーネの間に、下から大きく亀裂が入った。
カウティスの目の前で、亀裂が壁を走り、二階部分の最奥が陥没した。
「セルフィーネッ!!」
カウティスが精一杯腕を伸ばした先で、陥没した二階部分の床ごと、泥の塊のようなセルフィーネは一階へ落ちた。




