交錯 (6)
あれは、セルフィーネが以前の半実体を手に入れて間もない頃だった。
カウティスは、西部国境地帯の、拠点から少し離れた疎らな木立の中で、剣を振っていた。
落ち着かない時ほど、鍛練に没頭したくなる。
半実体を手入れたセルフィーネは、カウティスにはとても眩しい。
今までと同じだと思うのに、側に寄って、その肌に手を伸ばせば、胸が騒がしくて仕方ない。
きっとまだ、彼女自身が手探りの部分もあるはずなのに、魔力干渉したいと口に出してしまいそうで、カウティスは心の中で何度も自分を叱っている。
無心に剣を振っていたカウティスは、掴んでいる剣の柄が滑ることに気付いて、剣を下ろした。
左手を開いてみると、指の付け根のマメが破れていて、それで滑ったようだ。
以前右手を負傷した時に、仕方なく左手を使い始めてから、両手で剣を使えればいざというとき役に立つと思い、左手でも鍛練することを習慣化してきた。
しかし、子供の頃から使ってきた利き手と違い、使い始めて数ヶ月の左手は、まだ皮膚が弱いらしい。
度々マメが出来て、破れてしまうのだ。
もうやめるか、それともまだ右手でやるかと考えていると、明るい声が聞こえた。
「わあ、本当にラードのいう通り、剣を振ってましたね」
声の主はハルミアンだ。
ラードと共に、拠点側から木立を抜けて来た。
「多分ここだと思っていましたけど……、また、破れましたか?」
汗を拭く布と水筒を持って来たラードが、カウティスが左掌を気にしていたのを見て言った。
「ああ。まだ左は弱いな」
「一度にやり過ぎなんですよ、王子は」
呆れ気味に言って、許可を得てからラードはカウティスの手首を持って、掌の具合を見る。
「……戻って手当てしましょう」
予想より酷い状態の掌を見て、ラードが灰色の眉を寄せる。
横からヒョイと覗いたハルミアンは、痛そう、と言いながら盛大に顔を顰めた。
「魔法で治しましょうか?」
ハルミアンの言葉に、二人は驚いた顔で聞き返す。
「魔法で治療出来るものなのか?」
エルフが神聖力を持たないのは、誰もが知るところだ。
ハルミアンは軽く頷いて掌を指す。
「まあ、神聖魔法みたいな治療は出来ないので効率悪いんですけど、皮膚の再生くらいなら出来ますよ」
「……違いはよく分からんが、出来るんだな。王子、どうします? 治してもらいますか?」
二人に視線を向けられると、カウティスは難しい顔をして尋ねた。
「その魔法にも、精霊が使われるのだろう?」
「まあ、魔法なので……」
ハルミアンが指で頬を掻くと、カウティスは首を横に振った。
「それなら、やめておく」
世界の為に、当たり前に消費される魔力。
精霊がそういうものだと、カウティスも頭では理解している。
それでも、セルフィーネを身近に感じていると、精霊を消費するという魔法を使いたいとは思えない。
頑なカウティスに、ハルミアンは軽く肩を竦めた。
「使っても、再生するのに」
「精霊って、再生するものなのか?」
ラードが驚いて聞き返すと、ハルミアンは当然でしょ、と頷く。
「消費だけされてたら、世界が崩壊しちゃうじゃない」
「言われてみれば、確かにそうだな……」
精霊は世界を支えるものだ。
消滅と再生を繰り返して、神々の創った世界を保っている大切な存在なのだ。
しかし魔術素質のない者にとっては、漠然としすぎて、掴めない遠い話にも思われる。
「……再生とは、どういうものだ? 全く同じものとして生まれるのか?」
「え? 消滅した精霊は、同じ種の精霊として再生するはずですよ」
軽く答えるハルミアンに対し、カウティスは真剣な表情だ。
「同じ“種”であって、同じ“個”ではないのか?」
カウティスの疑問に、ハルミアンは少し困ったような表情で、周囲を見回した。
「精霊に“個”はありません。この世界では、精霊はそういうものなんですよ、カウティス王子。ネイクーン王国の水の精霊が特別なんです。混同しない方がいいと思いますよ?」
ハルミアンの言葉は、カウティスには納得出来ない。
精霊が狂った時、セルフィーネは確かに同胞の痛みや悲しみを感じて苦しんでいた。
それは、人間やエルフが知らないだけで、精霊にも“個”の感情があるということではないのだろうか。
「混同しているわけではない。だが、全く別のものとも思えない」
カウティスがそう言った途端、ふふ、と柔らかな声がした。
朝露のような蒼い香りを感じて、カウティスは振り返る。
ちょうど光の粒が撚り合わさって、セルフィーネが姿を現すところだった。
「セルフィーネ」
カウティスが微笑んで名を呼べば、薄紫色の滲む、絹糸のような細い髪をサラサラと揺らして、セルフィーネが微笑みを返す。
それだけで、カウティスの心臓は騒がしくなった。
「精霊達が喜んでいる。皆、カウティスが好きなようだ」
「え〜、そうなの?」
ハルミアンは再び周囲を見回したが、精霊の感情というものはよく分からないようで、首を捻っている。
魔力の見えないカウティスは、ハルミアンにつられて見回してみたが、いつも通りの風景が映るだけで、もちろん全く分からなかった。
「ありがとう、カウティス。私も、嬉しい」
不意にそう言われて、カウティスはセルフィーネの方を向いた。
すぐ側に立ち、カウティスを見上げたセルフィーネは、本当に嬉しそうに紫水晶の瞳を細めている。
「精霊は皆、再生すれば全てを忘れる。どれ程手酷く消費されて消滅しても、まっさらに戻って再生する。でも、きっと、皆またカウティスを好きになるだろうな」
セルフィーネが嬉しそうにしていると、カウティスも嬉しくなって、その柔らかに色付く頬に、そっと右手を伸ばした。
しかし、その指が柔らかく色付く頬に触れる前に、セルフィーネの姿はグズグズと崩れ始め、至る所から爛れが湧き出る。
「セルフィーネ!」
カウティスの目の前で、美しい白い肌は、みるみる間に赤黒い泥のような塊に飲み込まれていく。
半顔と右手首より先以外は、全て泥化したセルフィーネが、ヒビ割れた薄い唇を僅かに動かして微笑んだ。
「私も。……もし、消滅しても、必ず戻って、カウティスを好きになる」
カウティスは手を伸ばすのに、すぐ側にいた筈のセルフィーネに届かない。
「セルフィーネ!! 待ってくれ!」
「この気持ちだけは、絶対に失くならない」
残った白い半顔が、ゴボという濁った音と共に、泥に埋もれた。
「セルフィーネ!」
カウティスは叫んで、寝台の上で飛び起きた。
伸ばした手の先に、仄かな白い光がふわりと飛ぶ。
自分の荒い呼吸と、耳元で動いているかのように大きな心臓の音が聞こえて、身体が震える。
「……ここは……」
息を整えながら周囲を見回して、混乱した頭で考える。
見慣れない広間は、貴族の邸のようだが、何故自分はこんな所にいるのか。
今さっき、西部の木立で……。
そこまで考えた時、手の先を飛んでいた白い光がカウティスの目の前を通り過ぎた。
ほんの僅かに、涼やかな気配が額を撫で、カウティスを落ち着かせる。
「そうだ、魔獣討伐の後に……」
イスタークに窘められて、神聖魔法を施されたのだと思い出し、カウティスは額を押さえて大きく息を吐いた。
「……何やってる。弱気になっている場合ではないだろう」
自分で自分を叱って、カウティスは顔を上げる。
白い光は、まだ側にあった。
はっきりと分からないが、今の涼やかな気配は、水の精霊なのではないだろうか。
『皆、カウティスが好きなようだ』
さっき夢で聞いた、セルフィーネの声が甦って、胸を締め付ける。
「……そなた、私を心配してくれたのか? ありがとう」
試しに言ってみると、特に光の動きは変わらなかったが、カウティスの下を離れて見えなくなってしまった。
深呼吸を一つして、寝台から下りようとした時、ちょうど日の出の鐘が鳴り始めた。
相当寝ていた事が分かって、カウティスは顔を顰めて立ち上がる。
とにかく、顔を洗ってスッキリしよう。
目覚めは良くなかったが、しっかり眠ったことで、身体は随分と軽く感じ、前向きな気持ちが少しずつ戻って来た。
迷惑を掛けたことを謝罪して、これからのことを考えなければ。
セルフィーネは、きっと近くにいるはずなのだ。
その前に、セルフィーネの無事だけは確認したくて、カウティスは窓に近寄る。
月が太陽に替わり、美しくセルフィーネの魔力が揺蕩っている空に、陽光が広がっていく。
カウティスは安堵して、視線を下げた。
そして、前庭の大型テントの側で、衛兵と立ち話をしている男を見て、大きく目を見張る。
魔術士のローブを着た、全身黒尽くめの男は、緩く癖のある髪を無造作に括り、険しい横顔を晒していた。
カウティスは窓枠をキツく握り締める。
見間違えようはずがない。
竜人に無惨に傷付けられ、契約更新を強制されたセルフィーネを、熱の籠もった瞳をギラつかせ、食い入るように見ていた男。
「リィドウォルッ!」
名を口にした途端、カウティスの内から、黒く粘るものが膨れ上がった。
久し振りに、カウティス中心とした回でした。
……主人公なのに(笑)




