戻らない水の精霊 (後編)
この回には、暴力的な表現があります。
苦手な方はお気を付け下さい。
水の季節後期月、一週三日、午前。
「これはどういうことだ……」
留置場の魔術陣を前にして、リィドウォルと魔術師長が慄いた。
魔術陣の上には、昨日見たままの横座りの姿勢で、水の精霊が座っていた。
下の魔術陣は鈍く光を放っていて、正常に動いている。
それなのに、水の精霊の姿は昨日よりも崩れていた。
赤黒い爛れが広がっているのだ。
左肩から右脇へ引き攣れていた傷は、胸や腹まで広がり、リィドウォルが突いた左膝の爛れは、白いドレスの太腿まで覆っていた。
「魔力は回復しているはずなのに、魔力の塊の精霊が、何故こんな……」
リィドウォルが額を押さえると、後ろに控えた護衛騎士のイルウェンが、不気味だと思っていることを隠し切れない声で言う。
「国境地帯で見た、あれです。リィドウォル様、やっぱり、水の精霊は化け物です……」
リィドウォルは強く眉を寄せる。
以前、ベリウム川の中洲でカウティスが浄化した水の精霊は、確かに目の前の女の身体に付いた、赤黒い爛れが全身を覆ったような姿だった。
それならば、この水の精霊は、今ここで狂いかけているというのか。
「何故だ。魔力は確かに回復しているのに」
空の魔力は、網目を詰め、とうとう一枚の布のようになった。
層の魔力に戻ったのだ。
リィドウォルは魔術陣のすぐ側に膝をつき、ぼんやりと空を見詰つめている、水の精霊の視線を遮る。
「水の精霊よ、こちらを見ろ」
リィドウォルの呼び掛けに、水の精霊は全く反応しなかった。
リィドウォルの方を向いているのに、視線は全く合わない。
「こちらを見ろ。……セルフィーネ」
名を呼ばれて、セルフィーネは初めてピクリと動いた。
ぼんやりとした視線のまま、数度瞬きする。
リィドウォルは水の精霊に反応があったことに、僅かに安堵して続ける。
「しっかりしろ。お前の魔力はこんなものではないはずだ。我が国を清め、ネイクーン王国へ、カウティスの元へ帰るのだろうが」
「ネイ……クーン……、カウティス……」
消え入るような小さな声が、セルフィーネの口から溢れた。
「そうだ。約束したろう。お前が我が国を清めれば、お前をネイクーンへ返す」
突如、セルフィーネの瞳がスイと動き、リィドウォルの暗い瞳を見据えた。
「……お主の言葉は嘘ばかりだ」
リィドウォルはカッとなり、思わず右手を振り上げた。
その甲が、セルフィーネの右頬を下から叩く。
彼女はよろけたように左へ上半身を倒し、魔術陣の上に両手をついた。
リィドウォルの手には強い抵抗はなく、彼女の頬を突き抜けるように振り抜いてしまった。
ただ、触れてはいけない物に触れてしまったような、訳の分からない怖れのようなものが湧いて、右手に震えが走った。
思わず左手で右手を押さえ、目の前の水の精霊を見た。
彼女が顔を上げると、右頬から高い鼻先に向けて、一筋の引き攣れができていた。
引き攣れから赤黒い泥が、じわりと滲み出る。
触れられない筈なのに、何故、と己の右手を見れば、中指に発動体の金の指輪がはめてあることに気付いた。
これが傷をつけたのだ。
セルフィーネはそのまま、またぼんやりと動かなくなってしまった。
「セルフィーネ。セルフィーネ!」
尚も呼び掛けるリィドウォルの肩を、魔術師長が後ろから掴んだ。
「もうよせ。これでは駄目だ、リィドウォル。このやり方は間違っていたんだ」
「間違っていただと? 何が違う? 魔力は回復した。後はこの精霊が正気に戻れば、何としてでも言うことを聞かせられる」
「どうやって正気に戻す? 狂いかけているんだぞ!」
魔術師長が声を荒らげた。
精霊が狂えば人間には手が出せない。
長い時間をかけて、自然と元に戻るのを待つだけだ。
「水の精霊には人格がある。それは俺達が思っていた以上に汚れに弱くて、水の精霊の魔力全てに直結するものだったんだ。人格と魔力の質を分けて考える人間とは別なんだよ!」
リィドウォルは強く眉根を寄せる。
「まだ……、まだ手はある! 水の精霊の最大の弱点はカウティスだ! カウティスを捕らえて目の前に吊るしてでも……っ」
ガッ、と魔術師長がリィドウォルを殴った。
驚いたイルウェンが片刃剣を抜いて、手を突いたリィドウォルの前に滑り込む。
しかし、魔術師長は抜き身の刃を見ても怯まずにリィドウォルに怒鳴った。
「お前は何を言っているか分かっているのか!? 水の精霊の次は王弟を捕らえる!? ネイクーンとまた争いになるぞ! 民を守る為の休戦協定だったろう!」
「それがどうしたっ! ザクバラ国を救う為だ! 今、詛を解かなければ何の意味も……っ」
リィドウォルは、荒い息を吐く。
今、自分は何と言ったのか。
目的の為には、民を犠牲にしても良いと、そう言ったのか。
そもそも、何故詛を解きたかったのか。
ザクバラ国を負の連鎖から解き放つ為ではなかったのか。
詛に絡まった王を助けたかったのではなかったか。
自分を見つめる周りの兵や魔術士達の目が、辛く苦しく歪んでいる。
この目は、変わり始めた王を憂いた、あの頃の側近達と同じではないか。
呆然とリィドウォルは己の両手を見た。
自分の魔力は、本来よく見えないものだが、その両手に黒いモヤのようなものが見えた気がして、震えが走った。
魔術師長がその手首を強く握る。
「頼む……リィドウォル。呑まれてくれるな」
リィドウォルは震えながら側の魔術陣を見た。
魔術陣の上の水の精霊の頬に、赤黒い泥が流れ落ちた。
ネイクーン王国の魔術士館をラードが訪れたのは、一週三日の昼の鐘が過ぎてからだった。
マルクを捜して奥へ入ると、彼は他の魔術士達と話をしているところだった。
ザクバラ国に派遣されていた魔術士の内、国境に近い場所に駐在していた者達が帰って来たので、様子を尋ねていたようだ。
「セルフィーネ様のおかげで魔獣が減る程だったのに、今また急激に気の澱みが増しているらしいのです」
マルクが声を落とす。
「ザクバラの民達は、もう政権に任せておくだけではいけないと、オルセールス神聖王国に助けを求めているようです」
「神聖王国に?」
ラードの問い返しに、マルクは頷いた。
「気の澱みは、国中に呪詛がかかっているのではないかと言っているとか」
王族に事故死や不審死が多いことを、“ザクバラ国の詛”と揶揄していた民達が、とうとう、国中に呪詛がかけられているのではないかと疑い始めたのだ。
民達は、一体誰に呪詛を掛けられていると思っているのかは、この際置いておいたとして、それ程酷い“澱み”になっているからこそ、やはりザクバラ国はセルフィーネを帰さないのだと、ラードとマルクは確信した。
「ところで、カウティス王子のご様子は?」
マルクが心配そうに言ったので、ラードは肩を竦めた。
「陛下に大人しく待てと言われて、随分気落ちしているな。また一人で黙々と剣を振ってるよ。多分、後で肩や腕が熱を持つはずだから、魔術符を用意してもらえないかと思って来たんだ」
「分かりました。すぐに用意しますね」
ラードは小さく溜息をつく。
「何も出来ずに待つだけっていうのが、一番辛いもんだ……」
フルデルデ王国のオルセールス神殿では、聖女アナリナが女神官に向かって憤っていた。
「どうして!? 呪詛を解くのなら、聖女の私が行くのが一番良いでしょう!」
「しかし、本国は聖女様のザクバラ国行きは認めないということですので……」
アナリナの剣幕に押されながらも、女神官は本国からの指示を伝えた。
アナリナは両手を身体の横で握り締めて、唇を噛む。
アナリナが、ザクバラ国が協約を緩めた事を知ったのは、フルデルデ王国の巡教を終えて、水の季節前期月の五週四日に、城下の神殿に帰って来てからだった。
巡教を無事終えたことを報告する為に、フルデルデ宮殿を訪れた際、女王から教えてもらった。
セルフィーネが実際に、ザクバラ国からネイクーン王国へ戻って来たらしいと聞いて、どれだけ喜んだことか。
それなのに、たった数日後にはセルフィーネが一所から動かなくなり、見る見る間に空の魔力が色褪せてしまった。
やはりザクバラ国を信用するものじゃない。
母国にそんな怒りを抱いている内に、月が替わったというのに、セルフィーネはネイクーン王国へ戻らないという。
しかも、セルフィーネが留まっている筈なのに、ザクバラ国は呪われているので助けて欲しいと、ザクバラの民から神殿に訴えが絶えなくなっているというのだ。
オルセールス神聖王国も、さすがに放っておくことは出来ず、調査の為、ザクバラ国へ新たに聖職者を派遣することになったらしい。
それならばと、アナリナはその役に立候補した。
ザクバラ国へ行けるのなら、セルフィーネの様子も確認できると思ったのだが、本国はあっさり却下したのだった。
国を覆うほどの呪いなど、聖女にだって解けはしない。
そんな無駄なことをさせて、聖女の名に傷を付けたくないというのが、本国の考えなのは透けて見えた。
「じゃあ一体、誰がザクバラ国へ行くっていうの!? 例え調査だけだとしても、神官や司祭じゃあ荷が重いわよ!」
腹立たしさが収まらなくて、憤然と言ったアナリナに、女神官は身を小さくして答える。
「それが……、ネイクーン王国とザクバラ国との国境地帯に駐在しておられる、イスターク司教猊下が行って下さるということです」
「イスターク司教が?」
アナリナは目を瞬いた。




