豪雨
水の季節前期月、六週三日。
四日前の深夜から北西部で降り始めた雨は、一時豪雨になり、雨脚を弱めたり強めたりしながら、今も降り続いていた。
ネイクーン王城の王の執務室では、北部の官吏達から上がってきた報告を見て、エルノート王が頷いた。
「早目に対策を取っていたのが、上手く回ったようだな」
「はい。新しく敷いた魔術陣も、問題なく稼働しているようです」
魔術師長ミルガンが、魔術士館からの報告を上げる。
「セルフィーネの助力がなくなった分の穴埋めは、取り敢えず出来ていると見て良さそうか……」
水の季節は、セルフィーネが常にベリウム川の状況に気を配ってきた。
セルフィーネが十三年半眠っていた間に、大きな氾濫が起こったのは、彼女の力に頼り切っていたからに他ならない。
そこから徐々に、人間達の力だけでベリウム川を制御する工夫を重ねてきた。
今回、これだけの大雨が降っても、被害が殆ど出ていない状況なのは、その努力が実ってきた証拠だ。
「カウティスはどうしている? もう西部に戻ったか?」
エルノートが報告書から顔を上げる。
「まだ北部においでのようです」
横に控えたセシウムの言葉に、エルノートが苦笑する。
「相変わらず最前列にいるのか。官吏が到着したのだから、任せれば良いものを」
「気を紛らわせる意味もあるのかもしれません。水の精霊様は、あれから戻って来られていないようですから」
ミルガンが疎らな口髭をしごいた。
先日、ザクバラ国から届いた親書には、国内の水源に問題がなければ、水の精霊の意思により、三国間の移動を認める旨が記されていた。
事実、セルフィーネがザクバラ国に入ってから、三日間はネイクーンへ戻って来た。
しかし、水の精霊は三国の協約で定められた、月の五、六週をザクバラ国内に留まる事が原則であることに変わりはない。
セルフィーネが四日目以降、戻って来ていないからといって、協約に反した訳ではなかった。
セルフィーネに、何かあったのではないか。
誰もがそんな考えを持った。
ネイクーンへ帰っても良いと言われているのに、何もなしに彼女が帰ってこないとは考えられないからだ。
しかし、魔術士達が見る限り、空に広がる水の精霊の魔力は回復傾向のままだ。
ザクバラ国に派遣されている魔術士からも、水の精霊が、ザクバラ国の中央に留まっている事は報告されていた。
ならば、何故帰ってこないのか。
考えられるのは、ザクバラ国が意見を翻したのではないかという事。
又は、ザクバラ国内で不慮の事故が起こった可能性だ。
もしもザクバラ国内で、水源に問題が発生したり、水害などの思い掛けない災難が起こっていれば、セルフィーネが善意を以て留まることが容易に想像出来た。
どちらにしろ、三国共有が始まってまだ三ヶ月弱では、まだ何もかもが手探りだった。
今は、月が変わって、セルフィーネがネイクーンに戻って来るのを待つより他はない。
エルノートは窓の方を見た。
窓にバタバタと打ち付ける雨粒の音が、耳障りに響いた。
ネイクーン王国の北部は、南北に分断する形で、東から西へベリウム川が流れている。
今、カウティス達は北部のちょうど中心部、支流が本流に合流する辺りで、雨に打たれていた。
川を挟んで両側の川辺りには、大型の魔術陣が敷かれ、脈を打つように陣の文様が薄く光を放っている。
ここで水量を増した川は、勢いを強くして下流へ流れて行く。
この一帯は既に、先々代の御世に大規模な堤防建造が成されていて、直接的な被害は少ない。
しかし、濁流となって流れ込む西部で氾濫が起きるため、ここの一帯の勢いを抑制することが、西部の被害を減らす手段の一つと考えられ、今回初めての試みで大型の魔術陣が敷かれた。
カウティス達は、高い堤防の上に作られている管理屋にずぶぬれで戻った。
今は雨脚が弱まったが、四半刻前までは、雨具を着ていても中の服まで濡れてしまうような土砂降りだった。
雨具を脱いで身体を拭きながら、管理責任者と、この地に駐在している魔術士に加え、王城から派遣されてきた官吏と話をする。
「概ね、予想の範囲で水勢を制御出来ているようです」
責任者がそう言いながら地図を指す。
「量水標は前年と同位ですが、水勢が抑えられているので危険は少ないかと思われます」
カウティスは頷く。
「このまま雨の勢いも弱くなると良いのだが」
「空も少し明るくなってきましたし、上空の水の精霊の動きが弱まっているようなので、峠は越したのではないでしょうか」
「…………そうか。引き続き確認していこう」
魔術士の言葉に、カウティスは一瞬言葉に詰まった。
魔術士が言った“水の精霊”は、世界中に広がっている、天候を司る水の精霊の事で、セルフィーネではない。
分かってはいても、今の状況で『水の精霊の動きが弱まっている』と聞けば、居ても立っても居られない気持ちになった。
湯気の立つカップを目の前に出されて、カウティスは我に返る。
ラードがグイとカップを近寄せるので、両手で受け取った。
指先がジンジンとして、身体がすっかり冷え切っていた事を自覚する。
「少し身体を温めて下さい。まだ休むつもりがないのなら、体調を崩さないよう気を付けて頂かないと」
温かい飲み物の後は毛布も渡して、ラードは自分も温かいカップを握る。
「分かっている。こんな所で倒れたら、物凄い迷惑でしかないからな」
カウティスは言われた通り毛布に包まった。
「西部の方はどうだ?」
「今のところ、建造中の堤防が決壊するような心配はないようです。やはり、北部を抑えるのは大きいですね」
マルクが頷きながら言った。
西部の魔術士達と、随時通信で状況を確認し合うのはマルクに任せてある。
「カウティス殿下、現場は我々に任せて、殿下は後方で指示と確認に徹して頂いても……」
おずおずと官吏が言ったが、カウティスは薄く笑って首を振った。
「初めての試みも多いので、この目で確認しておきたいのだ。西部の復興支援にも活かせることが多くある」
「しかし……」
大雨の中、ずぶ濡れで動く王弟の姿に、官吏は恐縮しっぱなしだ。
ラードが官吏の肩を叩く。
「カウティス殿下はいつもこうですから。陛下もよくご存じです」
そう言われてしまえば、それ以上何も言えず、官吏は管理責任者と顔を見合わせた。
毛布に包まって、カウティスは温かいカップに口をつける。
身体が早く温まるように酒が垂らされているらしく、お茶の香りに混じって、鼻の奥にツンとアルコール臭がした。
「……甘いのが飲みたいな」
ポツリと零したカウティスに、ラードがからかうように言う。
「これが落ち着いたら、お望み通り激甘なやつを入れて差し上げますよ」
はは、と笑うカウティスを見て、マルクはそっと眉を下げた。
きっと、セルフィーネのことが心配で堪らないであろうに、表に出さずに公務に集中している姿に、頭が下がる思いだった。
深夜、日付が変わる頃になって、雨はようやく小雨に変わった。
管理屋を出たカウティスは、そっと空を見上げた。
空に月はなかったが、中天近くに薄っすらと月影が見える。
この分ならば、明日には止むかもしれない。
止んだからといって、すぐにも川の水量や水勢が下がるわけではないので、まだ暫くは注意深く見守る必要があるだろう。
だが取り敢えずは、後期月に入る時には、ここを離れることが出来そうだ。
セルフィーネは、ザクバラ国に滞在する予定の十日間が終われば、きっと帰って来る。
今はそれを信じるしかなかった。
月が替わる時には、空を駆けて帰って来る彼女を、この腕で迎える。
それを信じて、今は目の前の事に集中する。
「セルフィーネ……」
思わず口から名を零したカウティスの足下で、水溜りの水面がピシャと跳ねた。
カウティスは大きく息を呑んだ。
「セルフィーネか!?」
思わずその場に膝をつくと、再び水面が跳ねた。
気の所為ではない。
セルフィーネが安否を伝えているのだ。
「無事なのだな!?」
自然と大きくなった声に応えて、三度目水が跳ねると、カウティスは安堵感で胸を強く押さえた。
カウティスの声を聞き付けて、管理屋からラードとマルクが飛び出して来た。
「反応があった。セルフィーネだ!」
二人に教えて、カウティスは再び水溜りに向かって声を上げた。
「戻って来い、セルフィーネ!」
戻って来れない事情があるのかもしれない。
そう考えていたのに、咄嗟にカウティスの口から出たのは、心の奥から溢れ出た言葉だった。
しかし、それ以上水が跳ねることはなく、セルフィーネが戻って来ることもなかった。
カウティス達は、水溜りに小さな雨粒が作る波紋を見つめて、奥歯を噛んでいた。
水溜りを覗き込む男三人……。
想像して、微妙だなぁと思いながら書きました。
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