謝罪
日の入りの鐘が鳴り、西の空で太陽が月に替わると、月光神殿の祭壇の間には、祭壇と月光神像に向けて、月光が集まるように降りてくる。
その光の中で、じわりじわりと身体に魔力が染み渡るのを感じながら、セルフィーネは恍惚として佇んでいた。
オルセールス神殿の造りは、大きい街に建っている物であれば、どこの国であっても殆ど同じだ。
この神殿も、ネイクーン王国の城下や、フルデルデ王国の宮殿近くに建っている物と同じ造りだった。
こうしていると、ここがザクバラ国であることを忘れそうになる。
日の入りの鐘から二刻程経ち、セルフィーネは神殿から上空へ上る。
そして、国境地帯に向けて駆けた。
神殿の敷地から一歩外へ出ると、空気の悪さに怯んだ。
今朝タージュリヤ王太子に呼ばれた時は、以前より少しマシになったと感じたが、やはり中央の澱みは酷い。
中央にいるならば、やはり神殿の中に留まるしかないように思う。
セルフィーネは纏わりつく黒い気配を払うように、出来る限りの速さで国境地帯を目指した。
国境地帯に近付くにつれて、澱んだ気配は薄れ、慣れ親しんだ空気感に、ホッとする。
ベリウム川を隔てていても、この一帯には月光神の御力が薄く残っている。
セルフィーネは、対岸に魔術ランプの明かりを見つけて、浮き立つ気持ちで川原に降り立った。
対岸にはカウティス達四人が立ち、こちらを見ていた。
セルフィーネは切なく胸を押さえる。
まだ一日だというのに、カウティスの姿を見ると、その胸にもう帰りたくなってしまう。
「セルフィーネ」
不意にハルミアンの声が聞こえて、セルフィーネは驚いて顔を上げる。
臙脂色の鳥が、長い尾羽根を揺らして頭上を旋回すると、足下の砂利の上に降りた。
「その辺ちょっと回って来たけど、やっぱりザクバラ国の空気は悪いね。セルフィーネは大丈夫?」
「大丈夫だ。ザクバラ国でも、神殿にいられることになった」
鳥が驚いたようにぶると羽根を震わせる。
「そうなの!?……まさか、聖職者としてじゃないよね?」
「違う。私は聖職者じゃない」
「…………そうだよね」
セルフィーネのきっぱりとした答えに、ハルミアンは固い声で答えた。
「詳しく話すことは出来ないが、ザクバラ国にいても、回復することは出来そうだ。……心配しないでと、カウティスに伝えて欲しい」
国政や内情に関わることを、話すことは出来ないが、少しでも安心して欲しかった。
「うん、分かった」
セルフィーネは対岸を見る。
心配そうにこちらを見ているカウティスには、セルフィーネの魔力は見えない。
ハルミアンの使い魔がとまっているから、ここを見ているのだ。
「ザクバラ国でも、回復に努める……」
焦ってはいけないと分かっている。
分かってはいるが、カウティスに見える身体が、早く欲しいと思う気持ちはずっと彼女の胸に燻っていた。
セルフィーネは中央に戻る。
祭壇の間に入れると分かっていても、中央に向かって駆けるのは難儀した。
精霊としての本能なのか、向こうへ行ってはいけないと、自然と拒もうとするのだ。
何とか己を鼓舞し、逃げるように祭壇の間に入ったセルフィーネは、そこに人の気配を感じてハッとした。
ちょうど日付けも変わる頃で、月光神殿に聖職者の気配はない。
祭壇の間の明かりは既に消され、明かり取りの窓から入る青白い月光が、祭壇の周りだけを煌々と照らしていた。
ほんの僅かに明かりが届く、祭壇の側の長椅子に、リィドウォルが一人で座っていた。
緩くクセのある黒髪を肩下に垂らし、全身黒尽くめの姿で座っていると、今、闇の中から溶け出て来たように見えた。
セルフィーネの魔力が見えるはずなのに、黙って座っているリィドウォルに、セルフィーネは小さな声で言う。
「…………国外へは出ていない」
水盆から声が響く。
この神殿では水盆に水を入れたままなのか、それともリィドウォルが入れたのかはわからないが、祭壇の上に置かれてある水盆には、水が張ってあった。
リィドウォルは、ふと笑う。
「分かっている。精霊は嘘をつかない。……カウティスは、変わりなかったか」
セルフィーネは眉を寄せた。
どうやら国境地帯へ行っていたことは、お見通しのようだ。
カウティスのことを教えたくなくて、セルフィーネは別の事を口にした。
「こんな時間に伴も連れず、何故ここにいる?」
「謝罪をしたいと思ってな」
リィドウォルは立ち上がり、ゆっくりと祭壇に近付いた。
「先月、お前を脅した件だ。……お前を引き止めるには、あれしかなかった」
『 ザクバラ国内にいる間に協約を違えることあらば、我が国はすぐにネイクーンとの休戦を破棄する 』
セルフィーネはあの脅しを思い出し、ぶるりと震えた。
拳を握り、見えない姿でもリィドウォルを睨む。
「謝罪だと? あれが本音ではないと言うのか?」
セルフィーネの不快そうな声に、リィドウォルは小さく息を吐く。
「……あの時は、中央の血の穢れを清める前で、お前をここに呼ぶことが出来ず、今日のように我が国の事情を説明することは出来なかった。それでも国内にいてくれるなら放っておいたが、お前はあっさりと協約を放棄しようとしたな」
セルフィーネは一瞬怯む。
「あの時ネイクーンへ戻ることを許していたら、お前は二度と、自分の意思で我が国に入ろうとはしなかっただろう。違うか?」
リィドウォルの言う通りだった。
人間の取り決めた協約を、セルフィーネが自ら破ってしまえば、その後守ろうとすることはなかっただろうと思った。
「脅すことが一番効果的だった。しかし、それで我が国に対する警戒を強めてしまったのなら、宰相として遺憾に思う。……謝罪しよう」
リィドウォルが目を伏せ、セルフィーネは視線を彷徨わせた。
脅されたことに対しての辛さや悲しさは、今も忘れられない。
しかし、そもそも自分が三国の協約を受け止め切れていなかったことにも、原因がある。
「…………分かった。謝罪を受け入れる」
絞り出すようなセルフィーネの小さな声に、リィドウォルは頷いた。
「また様子を見に来る。回復に手助けできることがあれば、何でも言うと良い」
何となく胸の中がもやもやとして、セルフィーネは何も答えなかった。
リィドウォルは、セルフィーネの魔力を暫く見詰めると、踵を返して扉から出て行った。
光の季節後期月、五週四日。
イスターク司教はこの日、西部国境地帯の神殿から南に位置する、聖堂建築予定地を訪れていた。
この一帯は、ネイクーン王国の直轄地となっている。
王から建築許可が下り、既に聖堂建築の為の測量が始まっていた。
多くの測量士達が、器具を手に声を上げて動き回っている。
その様子を見て、焦茶色の瞳を満足そうに細めて頷いたイスタークが、端の方で測量士が何やら揉めていることに気付いて、額に手をやった。
測量士と揉めているのは、エルフのハルミアンだった。
「だから、全部無駄になるってどうして分からないかな。地盤調査を解析してからじゃないと、二度手間になっちゃうぅって、ゴホッ!」
イスタークに後ろ襟を引っ張られて、ハルミアンは咳き込んで喉を押さえた。
「君は何をやっている」
「ゴホッ、ひどいよ」
涙目で抗議するハルミアンに、イスタークは溜息をつく。
「現場に立ち入る許可を出した覚えはないぞ」
言われたハルミアンは、涙目のまま、イスタークの斜め後ろに控えた、聖騎士エンバーを上目に見る。
「私が許可したのですよ、イスターク様」
「エンバー? 君が?」
振り返って訝し気に言ったイスタークを、エンバーは軽く笑った。
「はい。聖堂建築を成功させるには、ハルミアン殿の力は必要だと思うのですが、私の見当違いですか?」
イスタークは軽くハルミアンを睨む。
「まったく、いつの間にエンバーを味方につけたのやら」
ハルミアンは、悪戯がばれた子供のように小さくなって俯く。
「だって、どうしても…………、聖堂建築に関わりたかったんだ」
“どうしても側にいたいんだ”とは、言えなかった。
イスタークの小さな溜息が聞こえて、ハルミアンは俯いたまま眉を下げた。
「本気でそう思うなら、今のように正面からぶつかるのはやめてくれないか」
「…………え?」
言われた意味が分からなくて、ハルミアンは顔を上げる。
聞き分けのない子供を前にしたような表情で、イスタークが見ていた。
「確かに私も、聖堂建築に君の知識と協力があれば良いとは考えたよ」
完全に拒否されると思っていたハルミアンは、思わず前のめりになる。
「ほ、本当に!?」
「……しかし、何と言ってもエルフは協調性が低い。これから相当数の人間が、建築に関わってくるのに、あちこちで今のようにぶつかられては、上手くいくものもいかなくなるだろう。だから、現場に入れたくなかった」
「……私情でハルミアン殿を外したのではなかったのですか?」
エンバーが言いづらそうに口を開くと、イスタークは教えを説く司教の顔で言った。
「全くそういう気持ちがなかったと言えば、嘘になるがね。……だがね、“何かを成したいなら、偏見に流されず、全ての可能性を公平に吟味するべき”だと、機会あるごとに私は説いてきた。勿論、自分自身もそうあるべきだと思っているが、君には違うように見えたかな?」
エンバーは姿勢を正し、立礼する。
「まだまだ未熟な私を、お許し下さい猊下」
イスタークは再び小さく溜息をついた。
「……僕が、建築の現場で和を乱さなければ、このまま関わっても良いってこと?」
ハルミアンはギュッと両手を組んで、真剣な表情でイスタークを見る。
彼は焦茶色の瞳で、吟味するようにハルミアンを見詰めた。
「出来るのか?」
「…………努力する!」
絶対に出来ると言わないあたりが、エルフの協調性のなさを本人が理解している証だ。
それでも前向きに努力すると主張するハルミアンに、イスタークは密かに眉を下げる。
「和を乱せば、外れてもらうよ」
言って僅かに口元を緩めれば、ハルミアンは深緑の瞳をキラキラと輝かせた。
作業責任者と話をする為に、イスタークは歩き出す。
その後ろに付き従うエンバーが、一度ハルミアンを見て微笑んだ。
感情の乗らないエンバーの薄い色の瞳は、“私は約束を守りましたよ”と、ハルミアンに言っているようだった。




