新王即位
光の季節後期月、初日。
ネイクーン王国ではこの日、王の譲位により、王太子であった第一王子エルノートが新王として即位した。
ネイクーン王国に駐在している、イスターク司教が神事を執り行い、王城の王座の間にて即位を宣言した。
民に向けての即位式が延期となったことは、残念でならなかったが、兄のその誇り高い佇まいと、希望と強い信念を宿す眼差しに、カウティスの胸は熱くなった。
式に参列した王族と、貴族院も皆、同じ様に感じている事だろう。
「今より、私がこの国の王だ」
神事を終え、王座を前にして、エルノートが参列した者一人一人に視線を送る。
「今は困難の多い時だと言う者もいるが、生きていれば程度の差はあれ、困難は付いて回るものだ。そしてどのような困難も、一人では立ち向かうことは難しいのだと、私は身を以て知っている」
エルノートは父王を見て、最後にメイマナ王女を見る。
「しかし、皆が力を合わせれば、必ず難を転じて幸いを得られるものと信じる。どうかこれから先、私に皆の力を貸して欲しい」
新王の所信に、メイマナ王女が流れるような所作で立礼すると、次々と皆がその場で立礼した。
行事が予定通り進み、全て終えた時、ふと朝露のような蒼い香りを感じて、カウティスは目を瞬いた。
「エルノート王は、以前よりもずっと芯が強くなったように見える。きっと、立派な王になろう」
耳に、小さくセルフィーネの声が聞こえた。
胸のガラス小瓶から聞こえたのだ。
「セルフィーネ、何処にいる?」
小声で尋ねると、小さく笑うような声が続く。
「そなたの後ろに」
セルフィーネは、昨夜カウティスの腕の中で動く気力を失くしていた。
そこで、マルクの作った魔術符を周りに貼って、簡易の魔術陣を敷き、強制的に強い魔力の場を作って回復を促した。
月がよく輝く夜だった事も幸いして、日の出まで月光を浴びたセルフィーネは、再び声を出すことが出来るようになった。
ただ、魔術符に魔力を流したマルクは、想像以上に符に魔力を持っていかれて、魔力不足に陥り、酷い頭痛で動けなくなってしまった。
あれが並の魔術士だったら、昏倒しただろう。
無謀な物を作って使用したと、魔術師長ミルガンに頭痛の上から大目玉を食らっていた。
「何故後ろを気にしているのかと思えば、セルフィーネを連れているな?」
気が付けば、真新しい緋色のマントを身に着けたエルノートが、目の前に立っていた。
笑い含みにカウティスを見ている。
エルノートは魔術素質があまり高くはないが、近くに来ればセルフィーネの魔力はよく見えた。
「あ、いえ、……陛下」
慌てて姿勢を正すカウティスの胸から、小さなセルフィーネの声がする。
「そなたの即位を間近で見たくて、私が勝手に下りて来たのだ。……邪魔をするつもりではなかった」
「邪魔な訳がないだろう。そなたは今でも、ネイクーンの水の精霊だ」
エルノートは、カウティスの後ろ纏まっている魔力に向かって笑う。
セルフィーネは『ネイクーンの水の精霊』という言葉を、何度も頭の中で反芻した。
ザクバラ国でリィドウォルに、『お前の全てはザクバラ国のもの』と言われたのが、セルフィーネの中にずっと澱のように残っていて、苦しかったからだ。
「セルフィーネ、私の即位を祝ってくれるのなら、水盆から皆に声を聞かせてくれないか」
エルノートの言葉に、セルフィーネは瞬く。
「……このような場で、私が声を発しても良いのか?」
「何を言う。そなたはこの国の者にとって、今でも国益の精霊だ。無事な声が聞けるなら、皆喜ぶだろう」
これ程に国を掻き回すことになったのに、今でも国益の精霊だと言われ、嬉しかった。
セルフィーネはガラスの水盆に近付く。
エルノートが軽く手を上げると、サワサワとしていた人々が一斉にしんと静まった。
皆が、水盆に期待の目を向けている。
セルフィーネは、一度カウティスを見た。
カウティスもまた、期待に満ちた瞳で、こちらを見ていた。
セルフィーネは、高鳴る胸を押さえて口を開く。
「新王即位のこと、喜ばしく思う。ネイクーン王国の弥栄を心から祈る」
たったそれだけの言葉に、声が震えそうになった。
「……私は今も、ネイクーン王国が好きだ。ずっと、ずっと見守るから……」
絞り出すようにして、セルフィーネは心からの気持ちを添えた。
エルノートが水盆に向けて目礼した。
再び、皆が立礼し、自然に拍手が湧いた。
魔術素質のある者の中には、笑顔で魔力を見詰める者もいる。
温かい拍手に、笑顔に、ザクバラ国での十日間で冷えた、セルフィーネの胸が温まっていく気がした。
「……神聖力が……」
神事を終え、既に壇上から下りていたイスタークが、水盆の側に立つ水の精霊の魔力に目を見張る。
弱々しく不安定とも思える魔力の中に、力強い神聖力が輝いて見える。
「何と……、これ程に魔力を乱されても、水の精霊は神聖力を失っていないのですね」
側に控えていた聖騎士エンバーもまた、驚いて身を乗り出すようにしている。
「どうしますか、イスターク様。やはり、水の精霊を聖職者として、登録を?」
エンバーが隣に立つイスタークを見るが、彼は暫く黙って王座の間の人々を見ていた。
「……放っておこう」
「よろしいのですか?」
意外な反応に、エンバーは色素の薄い目を瞬く。
「管理官が“神聖力はない”としたのだ。水の精霊自身が神聖力を持っていると認めなければ、私に勝手は出来ないよ。それに、もう消えた」
水の精霊の内に湧き出た白い光は、彼女の魔力に広がって、馴染むようにして消えた。
「何にせよ、今の弱った魔力では、聖職者として登録できても何も出来ないだろう。もっと回復するまで、様子を見よう」
納得して頷くエンバーと話をしている間に、水の精霊はカウティスの下へ戻り、上空へ行ってしまった。
このまま年月を重ねれば、水の精霊は回復して、元の魔力を取り戻すのだろうか。
もしそうなるのであれば、やはりネイクーン王国に建つ聖堂の為に、月光神は水の精霊に神聖力を与えたのではないかと、イスタークは考える。
進化を成し、実体を手に入れた水の精霊が、大きな神聖力を持った聖女として聖堂に収まる。
国境地帯を浄化し、水の精霊の進化を認めるこのタイミングは、そういう月光神の意志なのではないかと思った。
「最後まで、見届けたいものだな」
イスタークは、もう動かない水盆の水を見詰めて呟いた。
ザクバラ国の魔術士館では、リィドウォルと魔術師長、使節団で共にネイクーン王国に行った年嵩の魔術士が話していた。
「オルセールス神殿の祭壇の間?」
魔術師長が、巻煙草に火をつけながら聞き返した。
「ああ。水の精霊の魔力回復には、月光神殿の祭壇の間に入れてやるのが早いそうだ。フルデルデ王国では、実際そうしていたらしい」
リィドウォルの説明に、それで回復が早まったのかと魔術師長は納得して頷く。
「しかし、神殿の奴等が、よくすんなり許可したな。袖の下でも渡したか?」
魔術師長がニヤリと笑う。
「私は渡していないな」
「私は?」
訝しむ魔術師長に、年嵩の魔術士が言う。
「月光神の司祭は、ザールインと随分前から癒着していたのです。政変で奴が捕らえられてからは、小心翼々の態だったようですが」
オルセールス神聖王国も、清く正しい者ばかりではないらしい。
ははっ、と魔術師長は馬鹿にしたように笑う。
「司祭は新宰相の申し出に、怖くて逆らえないといったところか」
リィドウォルは巻煙草から昇る煙を睨む。
「ザールインは司祭に、密かに陛下の体調を操る手助けもさせていたらしい」
忌々しい、と吐き捨てるリィドウォルに、魔術師長が顔を顰める。
「神聖王国まで敵に回すなよ。後を任されるタージュリヤ殿下が不憫だ」
リィドウォルはその言葉が聞こえなかったかのように、素知らぬ顔だ。
「とにかく、今月はそれで魔力回復が進むだろう。我が国に入るたびに消耗されては、使い物にならん」
リィドウォルの溜息に、年嵩の魔術士が心配気な視線を送る。
「お疲れでは?」
「……やることが多くてな」
前宰相ザールインと、処刑された貴族院三首のせいで、改竄された政策や、滞っている地方援助が山とあった。
リィドウォルは、何もかもを急いでいるように見える。
魔術師長は、リィドウォルの影のように付いている、護衛騎士のイルウェンに向かって顎をしゃくる。
「お前、ちょっと出てろ」
あからさまにムッとした顔を見せるイルウェンに、リィドウォルは苦笑いして室外に出るよう促す。
イルウェンが、ドアを閉めるのを確認してから、魔術師長はリィドウォルを睨む。
「お前、殿下にもあの護衛騎士にも、血の契約を解く気がないと言ってないんだろう」
「……解くつもりがないのではない。解けないと思っているだけだ」
「詭弁だな」
魔術師長は、巻煙草の煙をリィドウォルに向かって吐きつける。
「何もかも丸投げして、殉死するつもりのクセに」
リィドウォルは眉を寄せて、煙を手で払うが何も答えない。
年嵩の魔術士もまた、黙っていた。
彼も、王に血の契約を課せられた者の一人だった。
水の精霊の魔力で詛を解くことが出来れば、王は正気に戻り、リィドウォル達の血の契約を解ける。
それが、リィドウォルが示した事で、タージュリヤ王女達の望みだ。
しかし、受け継いできた竜人の血の効力で生き存えている王が、果たして詛を解かれても命を落とさないのか。
「……クソッ、本当に解けないのか? 水の精霊の魔力で詛が解けるなら、血の契約だって解けるんじゃないのか?」
魔術師長の腹立たし気な言葉に、リィドウォルは可笑しそうに笑った。
「魔術師長ともあろう者が、無茶を言う。契約と詛は全くの別物だろうが」
「他人事のように言うな!」
「声が大きい」
リィドウォルは仕方のない奴だと言うように、溜息をつく。
「そもそも、血の契約とは殉死の誓いも兼ねているようなものだ。今更足掻いてどうする」
リィドウォルは、黒いローブに付けられた、宰相の記章を撫でる。
「……但し、我等はただ丸投げしては逝かぬ。この国から詛を消し去り、未来に希望を残して逝きたい」
彼の声は静かだ。
「だから、最後まで見届けてくれ」




