魔法
魔術師長室の窓際で、水盆の水柱は小さく揺れる。
「あの時、そなたが使ったのは魔術ではなく、魔法だな」
水の精霊の声が、クイードには聞こえる。
「ええ、使えましたね。“人間は使えない”と言われ続けてきた魔法を」
クイードは目を細め、うっすら笑顔を浮かべて水柱を見つめる。
彼があの時盗人達に使ったのは、水属性の初歩の目くらまし魔法だ。
「水の精霊様のおかげですよ」
「…どういうことだ。何故そなたが使えた」
「着替えながらお話しても?この後、陛下に報告に向かわねばなりません」
「………」
水の精霊の沈黙を肯定と受け取り、クイードはローブを掛けてある壁に向き、シャツのボタンを外し始めた。
「フルブレスカ魔法皇国で学生だった頃から、私は魔術と魔法について研究してきましたが、ことあるごとに言われるのが“魔法は人間には使えない”、ですよ」
クイードはボタンを外しながら、伏せ目がちに空を見つめている。
入学する前から魔術素質の高かった彼は、在学中から魔術に関して頭角を現し、卒業後も皇国の魔術魔法院で竜人族に師事した。
「何年も研究し、竜人族の言葉も習得しましたが、それでも魔法は使えませんでした。しかし、ある時、師の風の魔法陣発動に同席する機会を得たのです。良い機会を得たと思いました」
クイードは師の許しを得ず、精霊が魔法陣に留まった瞬間、発動の呪文を竜人語で唱えた。
「その結果がこれです」
ボタンを外し終わったシャツを、クイードが脱いだ。
胸から腹にかけて、大きな裂傷の傷跡が二本。
「風の精霊にやられたか」
「ええ。師のおかげで命拾いしましたが、破門を言い渡されました」
クイードは襟のない新しいシャツを羽織る。
そして、水盆に顔を向けた。
「しかし、分かったのです。精霊を正確に認識し、竜人語で呪文を唱えれば、例え唱えたのが人間でも、精霊は無視できないのだと」
魔法を使う上での必須条件は、精霊を見ることができ、こちらの意思を伝えられることだといわれている。
つまりは、精霊を正確に認識し、竜人語で指示を伝えるということだ。
水盆の水柱は動かない。
「故郷に戻ってからも研究を重ねました。しかし、やはり魔法は使えない。我々人間はどうやっても、精霊を正確に認識できないからです」
暖炉に火が燃えているから、そこに火の精霊がいるだろう、地面に立っているから足元に土の精霊がいるはずだでは、正確に認識していることにはならない。
クイード程の魔術士でも、魔力の流れは見えても、それはとても曖昧なものだった。
「……ネイクーン王国は特殊ですよ。王族に生まれたというだけで、水の精霊を目視できる。どれだけその能力が欲しかったか…」
クイードは、銀色寄りの金髪を耳に掛けて撫で付ける。
壁から濃緑のローブを手に取って、羽織った。
「今日は、王子があなたを連れ出したので、小瓶に水の精霊様がいることが確実でした。…長年の夢をどうしても、諦められなかったのです。僅かながらでも“人間にも魔法が使える”と証明できて、満足です」
クイードはローブの裾を丁寧に直し、掌を胸に当てた。
水盆に向かって静かに立礼する。
「国益を損なう真似をしたことをお詫びします。王に報告し、処罰を受ける覚悟は出来ています」
水の精霊は逡巡した。
クイードの行動は、あの場でカウティスを手助けするためのものだった。
それが魔術であっても、魔法であっても、罰せられる類のことではない。
彼が罰せられるとすれば、それは水の精霊を損ねたということについてのみだ。
しかし、それも極僅かのこと。
初歩の魔法では、水の精霊への影響はほぼ無いと言っていい。
そして、このことは、水の精霊とクイード本人が明かさなければ、誰にも分からない。
暫くして、水の精霊の声が聞こえた。
「この話は、この場だけのものにする」
クイードは顔を上げる。
「……許すと?」
「許すも許さないもない。そなたは王子を救うために行動した。それだけのこと」
水の精霊の声は固い。
「但し、もう魔法を使おうとするな。人間には使いこなせない」
クイードが僅かに目を細める。
「“使いこなせない”、ですか…」
「そなたの理論通りだとしても、条件が揃い、初歩の魔法だったから、水の精霊を削っただけで済んだ。それ以上を望めば、そなたは命を落とす」
クイードは傷のある胸の辺りを、ローブの上から押さえた。
そして、深く深く息を吐く。
「……お約束致します」
日の入りの鐘が鳴る頃。
王の執務室では、王と宰相マクロンが、護衛騎士エルドと魔術師長クイードからの報告を受けていた。
二人共、平民の服から王城の制服に着替えている。
「ご苦労だった。護衛騎士は下がって良い」
王が言葉をかけると、エルドは掌を胸に当てて立礼した後、退室した。
王が革張りの椅子に凭れ掛かる。
「治安の強化は早急に対応するよう、バルシャークに伝えよ」
「畏まりました」
宰相マクロンが、白髪交じりの頭を下げる。
「しかし、ザクバラと終戦してから十年以上経つというのに、城下でもまだそのような声が聞こえるとは」
王がため息をついて、額に手をやる。
マレリィとの間に二人の子を設け、マレリィとエレイシア王妃との仲睦まじい様子は、度々国民に披露している。
水の精霊のおかげで、争いの元となったベリウム川の氾濫は、長年抑えられている。
それでも民は良しとしないのか。
「未だ、私の力が至らないのだな」
王は歯痒い思いで呟く。
「しかし、カウティス王子と水の精霊様の関係を、喜ぶ者がいるのも事実です」
クイードが言った。
「少なくとも、カウティス王子がこの国にいる限り、水の精霊様は国に強い恩恵を与えてくれるでしょう」
王は肘掛けに手を置き、身体を起こす。
髪と同じ、明るい銅色の眉を寄せる。
「それ程にあの者達は、親密か?」
クイードは、何かを思い出すように目を逸らす。
「ええ。カウティス王子の加護…いえ、精霊様の情でしたか?あのオーラのような魔力は格段に大きくなっています。水の精霊様は、王子に自らの名前も与えられています」
「名前だと?」
王の顔色が変わった。
「はい。“セルフィーネ”と」
「セルフィーネ…その名は…」
王は眉間にシワを寄せて目を閉じる。
カウティスと水の精霊の関係が、この国にとって、吉となるのか凶となるのか。
考えても考えても、結論は出ない。
暫くして、王が軽く頭を振った。
「…もう良い。クイードも今日はご苦労だった」
王が椅子から立ち上がりながら言った。
クイードは立礼する。
「そういえば、城下に降りる予定だと言っていたが。カウティスと一緒で大丈夫だったのか?」
王が思い出して言った。
クイードは顎を軽く引き、薄く微笑んだ。
「はい。カウティス王子のおかげで、万事予定通りに」