血の契約
この回には、暴力的、残虐な表現があります。
苦手な方はお気を付け下さい。
暫くして、カウティスは自分の部屋に入った。
水差しなどの水が入った物は置いていなかったので、広間の水差しを持って入る。
カウティスには魔力は見えないので、部屋はいつも通り、ガランとしていた。
固くて冷たい簡易寝台と、小さな机と椅子、装飾も何もない簡素な棚が一つあるだけだ。
短い期間の仮住まいであっても、心地良く過ごしたいと家具などを整える者もいるが、カウティスは仮の住まいを居心地良くしたくない方だった。
最後に離れる時に、惜しいと思う気持ちを生みたくない。
それで、この部屋を使い始めた最初から、物は殆ど変わっていない。
カウティスが部屋を見回すように首を動かすと、窓際から、微かに朝露のような香りがした。
「雨なのに、窓際にいるのか?」
窓際に向いて声を掛けると、上擦ったセルフィーネの声が、手に持った水差しから聞こえた。
「分かるのか? 本当に……匂いがするのか?」
「ああ。そなたに嘘なんか言わないぞ」
カウティスは水差しを机の上に置いて、窓際に近付く。
「疑った訳ではない……。でも、私に香りがあるなんて、思ってもみなくて……」
狼狽えたようなセルフィーネの声に、カウティスは首を傾げる。
「もしかして、皆の前で言われたのが嫌だったのか?」
セルフィーネはふるふると首を振るが、カウティスには見えないのだと気付いて、声を出した。
「そうではないが、…………恥ずかしい……」
「恥ずかしい?」
「私の香りというは…………、その、おかしな匂いではないのかと……。自分では、よく分からなくて……」
自分ではよく分からないが、カウティスが変だと思うような匂いだったら、どうしよう。
一緒にいても平気な匂いであったら良いが、不快に思うようなものであったら……。
今まで感じたことのない恥ずかしさと不安に、戸惑う。
考えてみれば、カウティス達が感じる水の精霊は、自分が造って来たものではないのだ。
“美しい”と形容される人形も、人間が聞き取ることの出来るこの声も、アブハスト王が創ったものだ。
新しい姿は、その人形が手本になった。
カウティスが嗅いでいる匂いだけは、意図せずとも自分が造った、自分にとって初めての“もの”だ。
セルフィーネは、カウティスの前で全てをさらけ出してしまったような、初めての感覚を覚えていた。
「セルフィーネ」
気が付くと、カウティスが両腕を広げている。
「抱き締めても良いか?」
セルフィーネは戸惑いに胸を鳴らしたまま、そっとカウティスの胸に添う。
見える姿はないのに、カウティスはセルフィーネを感じて腕を曲げ、彼女を抱き締める。
「そなたの香りは、朝の清々しい空気のようだ。朝露の蒼い香りがして、吸い込むと胸が洗われる気がする。とても、とても良い匂いだ」
そんな風に形容してもらえると思っていなくて、セルフィーネの胸は更に強く鳴る。
「…………不快ではない?」
「不快? まさか! 何度嗅いでも心地よくて、そなたを離したくなくなって困るくらいだ。俺は、大好きだよ」
カウティスの周りで、蒼い香りが濃くなった。
「……カウティス、お願いだ」
離れた水差しからセルフィーネの切ない声がして、カウティスはドキリとして、何も見えない腕の中を向く。
「……何だ?」
「………………離さないで」
カウティスは強く抱き締められないもどかしさを抱えたまま、窓際で彼女を抱き締めていた。
ザクバラ国王城。
深夜、リィドウォルは大扉を潜って王の居室に入り、寝所へ向かう。
静かで重い空気の室内は、今日も変わらず薬香の香りに満ちていた。
中央の巨大な寝台に近付くと、薬師長が立礼した。
「あれから陛下は?」
「タージュリヤ殿下がお声を掛けられても、反応はありませんでした。今は、いつもの鎮静薬で眠っておられます」
リィドウォルは頷いて、何重にも垂らされた天蓋を潜る。
寝台の中央に、ザクバラ国王が仰向けで眠っている。
落ち窪んで2つの穴のように見える目は、今は土気色の薄い瞼がぴったりと閉じていた。
柔らかな薄い上掛け布団が、胸の辺りで僅かに、しかし確かに上下しているのを確認し、リィドウォルは跪礼した。
「陛下、水の精霊の清らかな魔力をお感じになりましたか」
上掛け布団の上に出された、枯れ枝のような王の右手を、リィドウォルはそっと手に取った。
王のその中指は、形が変わるほどに傷だらけで、爪もまともに生えなくなっている。
数え切れない程、“血の契約”を行ってきた証だった。
マレリィがネイクーン王国に輿入れして、一年程経った頃、リィドウォルは王座の間に召喚された。
普段、王に喚ばれる時は執務室ばかりだったので、一体何事だろうかと思いながら入室した若きリィドウォルを迎えたのは、王だけでなく、宰相を始めとする貴族院と、近衛騎士達だった。
「マレリィが懐妊しているそうだ」
壇上の王座から、強い力を宿した黒曜の瞳で見下ろしながら、王が言った。
リィドウォルは一瞬顔を上げそうになったが、堪える。
自分は、マレリィが国を出る前に、不妊毒を飲み干したと証言した者の一人だ。
「…………不妊毒の効果が薄かったのでしょうか」
リィドウォルは何とか平然を装って、それだけ口にした。
重い沈黙の後で、王が再び口を開いた。
「……マレリィには、刺客を送らねばならぬ」
冷たい王の言葉に、思わずリィドウォルは強い声を出した。
「お待ち下さい! マレリィが男子を産めば、ネイクーンにザクバラの血を引く後継が誕生します! それは、ザクバラの王子でもある! 後々ネイクーンから領土を奪い返す為にも、マレリィの腹の子は生かすべきです!」
「ほう、それは確かに魅力的な内容だな。……今の今まで、私を謀っていた者の言葉でなければ、だがな」
王が、何かをリィドウォルの足元に放った。
放られたのは、両手で抱えられるほどの、球体のようなものだった。
リィドウォルの足元より手前に落ちて、跳ねずに、ゴロリと転がって来る。
「!!」
それは、マレリィに毒を運んできた、薬師の首だった。
「役目を果たせなかった者の末路だ。何故役目を果たせなかったのかは、そなたが一番よく知っておろうな?」
冷ややかな王の言葉と、虚ろに見上げる薬師の目に、リィドウォルの喉は張り付いて言葉が出ない。
「何故だ。……何故、そなたまで私を裏切る、リィドウォル」
苦し気な響きを含んだ王の言葉に、リィドウォルは弾かれたように顔を上げる。
壇上から見下ろす王の黒い瞳に、絶望の色を見て、リィドウォルは勢いよく首を振る。
「陛下! 決して裏切りなど致しません! 私は心から陛下に忠誠を……」
「押さえろ」
リィドウォルの言葉を遮るようにして、宰相の声が響くと、近衛騎士が彼の自由を封じた。
後ろ手に捕まり、魔術の発動体である金の指輪を右手から抜き取られた。
床に膝を折られると、肩を抑えられて後ろに引かれる。
自ずと胸を張る形になったリィドウォルの、黒い文官服の前が裂かれた。
「っ! やめろ!」
露わになった素肌の左胸に、当時の貴族院であったザールインが、手にした短剣で十字を刻む。
「ぁぐっ……、陛下、お待ち下さい! どうかっ」
壇上から降りてきた王が、絶望の色を宿したまま、リィドウォルを見下ろした。
「……そなただけは、決して私を裏切らぬと信じていた……」
「裏切りなど致しません! 決して! 決してっ!」
リィドウォルは抗ったが、鍛えた騎士数人に押さえられては、ほんの僅かに身を捩るのが精一杯だった。
それでも、必死で首を振る。
緩くクセのある黒髪が舞って、力なく垂れた。
王は宰相から短剣を受け取ると、右手の中指を躊躇なく刺した。
赤い血が骨ばった指を伝い、爪先に滴る。
「どうかお止め下さい!」
血の契約を迫られていることに慄き、リィドウォルの魔眼が自然と発現しかけた。
右目に紅が滲む。
王は僅かにも目を逸らさず言った。
「私に魔眼を使う気なのか?」
「……叔父上……」
リィドウォルは唇を震わせた。
幼い頃から、両親ですら無意識に恐れて逸らすことがある魔眼を、ただの一度も逸らすことなく接してくれた叔父。
魔眼を持て余すリィドウォルに、必ず国の為に役立てる日が来ると、励まし続けてくれた。
ずっと、この人こそが我が生涯の王だと信じて仕えてきた。
リィドウォルは強く瞼を閉じる。
「血の契約を結ぶ。……手放してはやらぬ。私の側にいろ。二度と裏切るな、リィドウォル」
歯を食いしばるリィドウォルの、胸の傷に血の滴る指先を押し付けて、王は血の契約を成した。
その後、ネイクーン王国への刺客は送られなかったのか、送ったが失敗したのかは分からない。
マレリィは無事に出産したが、後継の王子ではなく、王女だった。
そして一年後に、王妃エレイシアが王子を産み、リィドウォルの望みは絶たれた。
薬香で満たされた部屋で眠る、年老いた王を、リィドウォルは静かに見詰める。
「血の契約がなくても、貴方は私の唯一人の王です、叔父上。……最後まで、お側に」
反応のない手を握り、リィドウォルは呟くように言った。
好きな登場人物程、虐めてしまうようです……。
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