叶うなら
日々の習慣で、日の出の鐘より一刻程早く目が覚めたカウティスは、目の前にセルフィーネの顔があって、心臓が止まるかと思う程驚いた。
「……そうだ、一緒に眠ったのだったな」
動かす腕は、痺れてだるい。
「おはよう、カウティス」
寝台の上に絹糸の髪を散らし、花がほころぶように微笑んで、セルフィーネが挨拶する。
眠らないセルフィーネが、一晩ずっとここで、こうしてじっとしていたのだろうか。
「おはよう。……ずっと、ここにいたのか?」
ふわりと頬を染めて、セルフィーネは小さく頷く。
「カウティスが、離さなかったから……」
人間は、寝ている間じっとしている訳ではなく、無意識に寝相を変えるものだと聞いたことがあった。
カウティスも昨夜、眠っている内に動いて、セルフィーネを抱いていた腕が離れた。
自分の身体は、人間よりも随分と冷たいようだし、腕が離れたら月光を浴びに上空に行こうかと考えていたセルフィーネだったが、腕が離れたので動こうとすると、カウティスの腕が再び彼女の身体を抱いた。
意識はないはずなのに、それはまるで『行くな』と言われているようで、セルフィーネは嬉しくて何処にも行かなかったのだった。
二人は、寝台の上で身を起こす。
「抱いて寝てくれて、嬉しかった。ありがとう、カウティス」
「俺も、とても嬉しかったよ」
藍色のマントを胸の前で掻き合せ、微笑むセルフィーネが愛おしくて、カウティスは彼女をそっと引き寄せて抱き締めた。
広間でラードとマルクと朝食を摂りながら、カウティスは今日の打ち合わせをしている。
クシュン、とくしゃみの音がして、セルフィーネはカウティスを見た。
そういえば、朝から何度も聞いている。
「珍しいですね、王子がそんなにくしゃみをなさるなんて」
マルクの言葉に、カウティスは鼻を擦る。
「……早朝鍛練で少し冷えただけだ」
「熱があるのでは? 触りますよ」
身体がだるそうにも見えるカウティスの額に、ラードが手を伸ばそうとする。
「大丈夫だ」
頭を引いてその手を避けるカウティスの側に、セルフィーネが近寄った。
見上げると同時に、彼女の白い手がカウティスの頭をスウと撫でる。
途端に重かった頭が軽くなり、明らかに熱っぽかった身体が楽になった。
「……ありがとう、くしゃみが止まった」
マント越しに抱き締めていたとはいえ、一晩添い寝するには、セルフィーネの身体は冷たすぎた。
暑い時期なら良いかもしれないが、今の時期ではきっと寒かったはずだと、セルフィーネは思い至る。
そして、セルフィーネのせいだとは言わない、カウティスの優しさが嬉しい。
「すまない、一晩中私を抱いていたせいだな」
「「!!」」
ラードとマルクが、勢い良くカウティスの方を向いて目を見張る。
そして、不自然に目線を逸らした。
「おい、二人共何を想像してる!? 違うぞ! 何もしてないからなっ!」
「あ、いや、大丈夫です。何も聞いてないことにしますから」
若干ニヤついたラードが手を振るので、カウティスは赤い顔をして吠えた。
「違うって! セルフィーネ、その言い方はラード達が誤解するから」
「誤解……?」
間があって、意味がわかったのか、セルフィーネが白い肌を桃色に染めて俯いた。
「王子〜」
ラードが肘で突付いてくるので、カウティスは無言でフォークを握り締めた。
「だから、フォークは凶器ですからっ!」
「君達は朝から賑やかだねぇ」
呆れたような顔でハルミアンが入って来て、大騒ぎになりかけた場は、なんとか収まった。
「聖堂の設計図を描くのか?」
「ええ。まあ、僕が描きたいって言ったからなんですけどね」
職人達の所から借りてきた、設計図を描く用の紙や定規を置いて、ハルミアンが言う。
「選考には入れてくれるみたいです。だから、暫くここで作業しても良いですか?」
職人達の所は、堤防建造や復興に関する事を行っているので、そこでは広げ難い。
「それは構わないが。私達は明日には王城へ戻るが、ハルミアンはどうする?」
カウティス達はそろそろ出掛ける時間なので、椅子から立ち上がりながら言った。
「一人でここを使っても良いなら、このまま残って作業させて下さい。……年末日までには、僕も王城へ向かいます」
ハルミアンは、少し離れた所に佇んでいるセルフィーネを、ちらりと見た。
カウティス達が出て行くと同時に、上空に行っていたセルフィーネは、午後になって降りて来た。
広間に姿を現すと、机の上に建築資料を広げていたハルミアンが、笑って顔を上げる。
「もう逃げるのはやめたの?」
セルフィーネはほんのり頬を染めて、コクリと頷いた。
「まったく、気を揉ませるんだから」
「すまない。……ハルミアンは、司教と話せたのか?」
「……まあね。でも、謝る必要はないって突っぱねられちゃった」
ハルミアンは溜息交じりに笑う。
別に、諸手を挙げて受け入れてもらえると思っていたわけではない。
ただ、『分かった』と一言貰えたら、少し近付けるかもしれないと思っていた。
「……どうしたら、前みたいになれるかな。研究者同士だった頃に、戻れたらいいのに……」
大きく溜息をついて、ハルミアンは机の上で頬杖をついた。
セルフィーネは首を傾げる。
「戻れなくても、新しい関係を築けば良いのではないか?」
「え?」
「人間にとって二十数年というのは、きっと、とても長い時間だ。それだけの時間を掛けて、彼は一神官から聖王候補の司教に成るまで、聖職者として生きてきたのだろう? 突然研究者だった頃と同じ感覚に戻って、ハルミアンと向き合うのは難しいのかもしれない」
8歳の子供だったカウティスが、十三年余り経って再会してみれば、大人の男になっていた。
セルフィーネがそれを理解して、気持ちと感覚が伴うまでにも、これだけ時間が掛かった。
皆が皆、自分と同じ様に時間を過ごし、同じ様に心を動かすのではない。
「聖職者としてのイスターク司教と、今のハルミアンが、新しい関係を築いてはいけないのか?」
セルフィーネの静かな声を聞いて、ハルミアンは目を瞬いた。
「……そっか、そうだよね。何やってんのかな、僕は。謝って許して貰いたいなんて、自己満足じゃない」
短いくすんだ金髪を、クシャと掻く。
「過去に戻りたいなんて、聖職者として生きてきたイスタークを否定することだったのにね」
ハルミアンは図面を引くための紙を広げると、大きく息を吸い込んだ。
深緑の瞳をキラキラと輝かせ、力強く言う。
「セルフィーネ、絶対にネイクーン王国の聖堂は、僕が設計するから。彼を聖職者に選んだ神々が、間違いなかったと感激するような聖堂を、描いてみせるからね!」
セルフィーネは微笑んで頷く。
「……私は何処にいても、ハルミアンを応援している」
セルフィーネの一言で、ハルミアンは我に返った。
彼女は、ハルミアンが設計図を引き終える頃には、ネイクーン王国だけのものでなくなっている。
ハルミアンは唇を噛んだ。
「……ねえ、セルフィーネ。もっと進化を望まない?」
思い切ったように、ハルミアンが声を掛けた。
セルフィーネが眉を寄せる。
「僕が先走って、王子を煽った時とは違うでしょ。王子は君を本当に大事に思っていて、君の気持ちが追い付くのを待った。セルフィーネも実体が欲しいと、今は感じているんじゃないの?」
慄くように、セルフィーネか一歩下がった。
首を強く振って視線を逸らす。
彼女の動揺に反応するように、紫がかった水色の髪先が不安定に舞った。
「セルフィーネ、このままじゃ、本当に三国のものになるんだよ? 王子の側にいられなくなる。それでもいいの!?」
「…………っ」
何か言いかけて、セルフィーネは口を開いたが、言葉は出ない。
「セルフィーネ」
ハルミアンはセルフィーネの頰に両手を添えて、掬い上げるように上を向かせた。
「飲み込まず、君の気持ちを口に出すんだ。望みを言うんだよ」
「…………怖い」
セルフィーネの紫水晶の瞳が潤む。
「……実体を望んで、手に入らなかったら? 今よりカウティスを……苦しめることにならないのか?」
「それでも、可能性があるなら希望を捨てちゃ駄目だよ。セルフィーネや王子が僕に教えてくれたんでしょ? 生きている限りは、やり直すことも、努力することも出来るって」
ハルミアンは深緑の瞳に力を込める。
「皆が、君を応援してる。……怖くても、言うんだ。願うんだよ!」
薄い淡紅色の唇が震える。
「……カウティスといたい」
カウティスに触れて、触れられて、抱き合って眠る。
そんな奇跡のようなことが、望んで叶うものならば……。
しかし、セルフィーネの口から出るのは、希望ではなかった。
「でも…………。では、どうしたらいいのだ? どうすれば進化する? 教えてくれ、ハルミアン」
「それは……」
ハルミアンは言葉に詰まった。
具体的に、どうすれば進化するのかなど、誰にもわからないのだ。
「どうすればカウティスの側にいられる? どうすれば、私は実体になる? 私には分からない。どう努力すれば良い?」
「まずは……まずはセルフィーネが強く望まなくちゃ……」
「望んできた!」
セルフィーネの強い声に、ハルミアンの掌が緩んだ。
セルフィーネは強く首を振ってハルミアンの手から逃れ、彼の身体を押した。
弾みで、藍色のマントが足元にパサリと落ちた。
「『カウティスといたい』『側にいたい』と、望んできた。ずっと望んできた! ずっと!」
心の中ではずっと望んできた。
口に出せば困らせるだけだと分かっているから、言わなかっただけだ。
離れたくて、離れるのではない。
触れたくても、触れられない。
叶えたくてもどうすれば良いか分からない。
パンッ!と高い音がして、壁際の机に置かれた水差しが激しく砕けた。
セルフィーネの魔力が不安定に揺れる。
「セルフィーネ、落ち着いて!」
ハルミアンが手を伸ばすが、セルフィーネは更に一歩引いた。
「でも、叶わない……、どうしたら良い!? どうすれば進化するのか教えて欲しい。ハルミアン! 教えて!」
叫んだセルフィーネの紫水晶の瞳に、赤黒い靄が滲む。
「セルフィーネ! 駄目だよ、落ち着いて!」
ハルミアンは焦って彼女の肩を掴み、揺する。
「教えて! どうしたら叶うの! 分からない!」
セルフィーネの魔力が暴走しかけていた。
このままでは、狂ってしまう。
「セルフィーネ! こっちを見て!」
顔を覗き込むようにして額を合わせようとしたが、彼女は暴れて抵抗した。
「嫌だ! 触るな!」
激しく首を振って、跳ねる髪先がハルミアンの顔をピシと打った。
ハルミアンの耳には、建物の外で混乱する人々の声が聞こえた。
外でも何か影響が出ているのだ。
「セルフィーネ! 落ち着いて!」
「いや! カウティス!……あ、ああっいや」
セルフィーネを抱き止めようとしたハルミアンを、押し退けようと伸ばした白い腕が、赤黒い泥のようなものに変化していく。
「駄目だ!」
完全に魔力暴走に入ったセルフィーネを見て、焦ったハルミアンの足に、藍色のマントが引っ掛かった。
ハルミアンは急いでマントを拾い上げると、大きく広げてセルフィーネの頭から被せる。
そのまま捕えるように、マントの上から抱き締めた。
「しっかりして、セルフィーネ! 呑まれちゃ駄目だよ!」
マントの中で喘いでいたセルフィーネが、カウティスの匂いを感じて動きを止めた。
マント越しの感触に、昨夜のカウティスの逞しく優しい腕が脳裏を過る。
「……カウティス……」
セルフィーネは目を閉じ、そのまま意識を切った。




