可能性
セルフィーネは王城の上空で、冴え冴えとした月光を浴びていた。
空気は澄み渡り、静かな夜だ。
ハルミアンの助けで涙も止まり、普段通り国中を見通せるようになった。
日の入りの鐘を前に、フルブレスカ魔法皇国からの親書を携えた使者が入城した。
城下では、使者が通った道筋から、次々に弔旗が上がり始めている。
明朝には更に増えているだろう。
セルフィーネは深く息を吸う。
カウティスの藍色のマントを身に纏ったまま、姿を消しているからだろうか。
日に焼けた髪の匂いを含んだ、カウティスの温かな気配を感じる気がした。
まるで今もカウティスの腕の中にいるようで、とても安心するのに、何故か胸の奥が落ち着かない気持ちになる。
今すぐに、あの胸に添って、名を呼んで欲しい。
会議室で、霧の人形を造った時、既に一度見ていたにも関わらず、王や王太子が平常を装っていたのが分かった。
それ程に、人間からすれば違和感の強い姿だったのだろう。
しかし、一番心配していたカウティスは、普段通りの視線で人形を見て、愛しそうに微笑んでくれた。
カウティスはいつもそうだ。
どんな時にも、澄んだ青空色の瞳に、セルフィーネへの気持ちを溢れさせて、見つめてくれる。
愛しい、愛しいと語るその瞳が、セルフィーネを満たしてくれるのだ。
深夜、庭園の泉にカウティスがやって来て、セルフィーネを呼んだ。
他に誰もいないことを確認して、セルフィーネはカウティスの前に姿を現した。
目の前に姿を現したセルフィーネが、藍色のマントを両手で掻き合わせていて、カウティスは頬が緩んだ。
メイマナ王女が、体型に合う女性用の上掛けを用意しようとしたが、カウティスのマントが良いと、セルフィーネが断ったと聞いた。
「そんなに、俺のマントが良いのか?」
そうだと言わせたくて、カウティスはわざと聞いてみた。
セルフィーネはふわりと笑んで、頷く。
「カウティスにずっと抱き締められているようで、嬉しい」
カウティスは息を詰めた。
言わせたかった言葉のはずなのに、何故か胸の奥が焼ける。
「本人が目の前にいるだろう」
言って、マントごとセルフィーネを抱き締めた。
魔力干渉の時のように、マント越しにセルフィーネの身体の感触があって、ドキリとする。
半実体の姿というのは、目の前にあっても、カウティスには完全に理解し得ない存在のようで、今でも不思議だった。
カウティスの胸に収まると、怖かったことも、不安だったことも、何もかも消えていくような気がして、セルフィーネは目を伏せる。
ずっとこうしていたい。
カウティスと、ずっと一緒に。
「……私には、何ができるだろう」
「え?」
セルフィーネの呟きに、カウティスが身体を離して顔を覗き込む。
「三国共有のものになっても、ネイクーンの役に立てるだろうか。カウティスと一緒にいる為に、私に今以上に出来ることはないだろうか」
「セルフィーネ、そなたは今も充分に、ネイクーンの為に力を尽くしてくれているだろう」
カウティスは困惑して、軽く首を振った。
セルフィーネはカウティスを見上げ、紫水晶の瞳に力を込める。
「竜人に言われるがまま、三国共有で、ただ水源を保つだけのものになりたくない」
“竜人”と口にしただけで、僅かに指が震えそうになるのを堪えた。
ネイクーン王国の人々の努力と支え。
メイマナやアナリナの思いやりの気持ち。
ハルミアンや魔術士達の協力。
そして何より、カウティスの想いと励まし。
セルフィーネは、マントを握る手に力を込める。
一人きりではないという実感が、初めてセルフィーネに強い決意を促した。
「皆が自分達の力でネイクーンを守ろうとするように、私も出来ることを探したい。……泣いて小さくなっているのは、もう、嫌だ」
使われることを当然としてきたセルフィーネが、自らの意志で、竜人の命令に抵抗しようとしている。
カウティスは驚きを内に隠し、彼女をそっと抱き締める。
マント越しに感じるセルフィーネの身体は、細く柔らかい。
苦しいことは何もしなくて良いと言って、ただ守ってやれたらどんなに良いだろう。
全てから守ってやるだけの力がない自分に、苛立ちと不甲斐なさを感じる。
彼女の為に、もっと出来ることはないのだろうか。
「……出来ることを、一緒に探そう。だがそなたは先ず、回復しないとな」
カウティスの言葉に、セルフィーネは素直に頷いた。
風の季節後期月、二週一日。
フルブレスカ魔法皇国から届いた親書により、貴族院の会議は、新しい皇帝の体制と、それによってこれからネイクーン王国が被る、様々な恩顧や損害についての議題が中心になった。
葬祭期間から、喪の期間の懸念事項が、それに次ぐ。
葬祭期間は、抗議嘆願は全て受付られない。
竜人族の勝手な越境及び、ネイクーン王族に対する暴挙、傷害、水の精霊の契約更新など、こちらから抗議状を送り交渉するはずだったものは、全て宙に浮いた状態で止まることとなった。
これにより、多くの者が漠然と持ち続けていた、水の精霊の契約更新を無効にする、という望みは消え去ったのだった。
「僕は最初から、そんな望みは持ってなかったですよ。竜人族がわざわざ乗り出してきたんだもの、抗議や嘆願で、簡単に覆せる訳がないでしょ」
ハルミアンが、皿に盛られた小さな焼き菓子を、指で突付いて言った。
カウティスが、執務室代わりに使っている一室で、柔らかいカウチソファに転がっている。
机に向かって座り、西部から上がってきた報告に目を通していたカウティスが、ハルミアンを険しい目で見た。
「……分かっている。だが、覆す望みが僅かでもあるならと、皆そう願っていたのだ」
ほんの少しでも望みがあるのと、ないのでは、心の持ち様も違うというものだ。
「もう、こんな所で事務作業していないで、西部に戻りましょうよ。後は、王太子殿下に任せておけば良いでしょう?」
面倒くさそうに言うハルミアンに、ラードがカウチソファの足を蹴る。
整った顔を不満気に歪めて、ハルミアンが座り直した。
カウティスは、自分の執務室を持っていないので、自室の近くの部屋を事務室のように使っている。
王城に居る時は、西部国境地帯の復興に関する事務はここで行っていた。
皇帝の崩御により、多くの事が滞っている状態だが、復興業務は関係なく続く。
堤防の建造や、町村の修繕作業など、カウティスが復興支援で関わっているものは、皇帝の喪中であろうが殆ど関係ない。
むしろ、滞ってはいけないものだ。
今日も午前の貴族院会議に参席し、午後からの会議までに、この部屋で西部に関しての仕事をしていた。
マルクが緑のローブを揺らして、部屋に入ってきた。
西部と通信をするために、魔術士館に行っていたのだ。
「あれ、ハルミアン、こんな所にいたの」
「そう。カウティス王子に、早く西部に戻ろうって言ってたの」
言ってハルミアンは、粉砂糖の付いた焼き菓子を、一つ摘んで口に放る。
そして、甘っ、と小さく顔を顰めた。
連日の会議続きで疲れているだろうと、昼食とは別に、侍女のユリナが甘味を用意していた。
長年カウティスに仕えているだけあって、カウティスの好みがよく分かっている。
「まだ暫くは、王城に残る。西部に戻りたいなら、先に戻って構わないぞ」
カウティスが、机の上に視線を戻して言った。
明後日、王が皇国に発つのを見送るつもりだ。
水の精霊の負担を減す為の取り組みも、まだまだ魔術士館で詰める事も多く、すぐには王城を離れるつもりはない。
「あまり悠長に構えていたら、時間がなくなりますよ」
ハルミアンが手を拭いて、温くなっているお茶を飲む。
「時間がなくなる? 何のだ」
「契約魔法を破綻させる時間ですよ」
ハルミアンの言葉に、カウティスが眉を寄せて顔を上げた。
「……どういうことだ?」
「僕は、セルフィーネの契約更新を覆せるとは思ってません。覆すんじゃなくて、契約魔法自体を破綻させるべきだと思ってます」
ガタンと椅子を鳴らして、カウティスが立ち上がった。
「契約魔法の破綻なんて出来るの!?」
マルクが思わずハルミアンに詰め寄る。
「ラードには少し話したけどね、契約魔法陣を上空から見た時、陣に亀裂が入っていたんだ」
マルクが驚きに目を見張り、ラードが難しい顔で頷く。
「……水の精霊様が進化して、契約の精霊とは別のものに変わろうとしているから?」
「さすがマルク、話が早い」
ハルミアンが、嬉しそうに指を指す。
カウティスはハルミアンの言った事を、頭の中で反芻して口を開く。
「…………つまり、更にセルフィーネが進化をすれば、契約魔法陣の亀裂が大きくなって破壊することが出来る、と……?」
ハルミアンを凝視して言った。
「そうです。但し、破壊する程に亀裂を入れる為には、契約魔法が認識する、“水の精霊”ではないものにならなければならない」
ハルミアンは、小さな菓子を指で摘んで見せる。
「完全な進化。……実体化です」
カウティスは、無意識にゴクリと喉を鳴らした。
ハルミアンが菓子を再び口に放る。
「今年中に、何としても進化を進めるべきです」
難しい顔で聞いていたラードが、これ以上ない程に眉間のシワを深め、口を挟む。
「待ってくれ。……ちょっと良く分からない。進化が進めば契約魔法を破綻させられるとして、何故今年中なんだ? 年が明けようが、何時だろうと水の精霊様が進化したら、契約魔法陣は破壊出来るってことにはならないのか?」
三国共有のものになってからでも、セルフィーネが進化さえ出来れば、何時でも契約魔法を破綻させられるはずだ。
カウティスは、小さな希望を手に入れた気がして、机上で拳を握る。
しかし、ハルミアンの答えは、その希望を砕いた。
「確かに、進化すれば何時でも破綻させられるだろうね。でも、年が明ければ無理だと思うよ。せっかくここまで進んだ進化が無駄になるから」
怪訝そうにするカウティスに向かって、ハルミアンは言った。
「言い辛いけど、三国共有になったらきっと、退化する。……セルフィーネは長く保たないよ。」




