月下の約束
日の入りの鐘が鳴って、もうすぐ一刻。
カウティスの自室で、グラスに浮かんだ人形は、ゆらりと揺れて、薄くなったり濃くなったりしている。
「…セルフィーネ?」
カウティスが小声で問う。
コクリと小さな人形が頷いた。
その姿はぼんやりとしていて、はっきりとした表情は分からない。
カウティスは急いで近寄る。
「どうしてこんな所に。消えそうだぞ」
「…とても不安定だ。月光に当ててほしい」
水の精霊は月光神の眷族だ。
太陽神の眷族である火の精霊が太陽の元で力を増すように、水の精霊は月光により力をもらうのかもしれない。
彼女の不明瞭で小さな声を聞いて、カウティスは大事にグラスを両手で持つと、そっとバルコニーに出た。
青白い月光にグラスを掲げる。
ぼんやりとした人形は、光を吸い込むようにして徐々に明瞭な輪郭を作り、グラスの中で美しい水の精霊の姿に変わる。
カウティスは息を呑んだ。
水の精霊は月光を浴びて、陽の下で見るよりも清廉と輝いて見えた。
自分の手の中に彼女がいることに、心臓が高鳴る。
こんな風に、泉や水盆以外にも姿を現すことが出来たのかと、カウティスは驚いた。
グラスを両手で掲げたまま言う。
「こんなグラスにでも、姿を現すことができたのか」
「出来るかどうか分からなかった。やってみたのは初めてだ」
水の精霊が小さく呟いた。
「セルフィーネ、何かあったのか?」
庭園の泉以外で、水の精霊に会ったことはない。
初めてのことを急にやらねばならない程、大変な事でも起こったのだろうかと、不安が湧いた。
水の精霊は、小さな瞳でカウティスを見つめ、不意に目を逸らした。
「そなたがまた、泉に来なくなるかと…」
「また、とは?」
「以前『バカにするな』と言った時は、半年泉に来なかった」
カウティスは目を瞬いた。
水の精霊は視線を逸らしたままだ。
彼は急ぎ記憶を探る。
半年泉に行かなかったのは、昨年、水の精霊に『騎士は無理だろう』と言われた時だ。
そういえば、あの時も『バカにするな』と言ってしまった。
思い当たって、ドキリとした。
もしかして、オレが会いに来なくなると思って、セルフィーネは不安になったのだろうか。
だから出来るかどうか分からないような、初めてのことをしてでも、会いに来たのだろうか。
思わず頬が緩みそうになった。
目を逸らしたままの水の精霊を見て、カウティスは首を振る。
バルコニーの華奢なガラステーブルの上に、手の中のグラスをそっと置くと、膝を付いた。
小さな水の精霊と、カウティスの目線の高さが揃う。
「セルフィーネ、こちらを向いてくれ」
カウティスの声に、水の精霊はゆっくりカウティスの方を向く。
「あの時は、意地を張っていたんだ。あんなこと、もう二度としない。今日は講義が押して時間がなかっただけだ」
水の精霊の、小さな紫水晶の瞳が揺れる。
「ちゃんと会いに行く。約束だ」
カウティスは笑って言った。
水の精霊はコクリと、とても小さく頷いた。
風が吹いて、部屋の机の上にあった紙が、数枚ヒラヒラと落ちた。
魔術ランプの灯りで照らされた机を見て、水の精霊が指差す。
「こんな時間まで、勉強を?」
「あー……」
カウティスが頭をカシカシと掻く。
「そなたに言われて、自国の事を知らない王子なんて恥ずかしいと思って。せめて主要産物くらい勉強しておこうと」
水の精霊は、カウティスの横顔を見つめる。
歳よりも大人びた、その横顔。
陽の下で光る青空色の瞳は、今は夜明け前の色に見える。
「そなたを恥ずかしいなどと、思ったことはない」
カウティスが水の精霊に向き直る。
彼女の流れる細い髪も、白い肌も、月光に照らされて輝いている。
美しい紫水晶の瞳が、自分を見つめている。
カウティスの鼓動が、更に高鳴る。
「王族に相応しい人間であろうと、常に努力を惜しまない。……そなたは、私の……」
王の言葉が頭をよぎる。
彼女の瞳の光が揺らぐ。
『そなた達の関係性が広まれば広まる程、カウティスの危険は増すだろう』
水の精霊の小さな白い手が、伸ばされかけて、止まった。
「……そなたは、水の精霊の主に相応しい、王族だ」
水の精霊は静かに目を閉じる。
「主……。そうか、主か……」
カウティスは心臓の辺りをつかんだ。
鼓動の高鳴りが落ち着いてくる。
自分は彼女から、どんな言葉を期待していたのだろう。
魔術ランプの明かりが、ゆっくりと消えた。
火の季節が過ぎ、土の季節に入る。
土の季節の最初の吉日に、今年も王座の間で式典が行われた。
「水の精霊よ。今年の火の季節も、民たちは乾くことなく、国は潤い、平穏無事に土の季節を迎えることが出来た。礼を言う」
王の言葉に、後ろに続く人々が立礼する。
「私は己の役割を果たしているに過ぎない。あらためて礼は必要ない」
王と水の精霊が、形式に則って言葉を交わした。
式典が終わり、人々が退室する。
王座の間に残っているのは、王とエレイシア王妃、側妃マレリィ、宰相マクロン、騎士団長バルシャーク、そして魔術師長クイードだ。
王が大仰なマントを外して、いつものように王座に放った。
王妃が嗜めるのも、いつものことだ。
王が水の精霊に向き直る。
「水の精霊よ。最近カウティスが剣術だけでなく、講義にも励んでいるようなのだがな。そなた、何か焚き付けたか?」
「剣術ばかりでは、頭の軽い王子になると言っただけだ」
水の精霊は何の感情も乗らない声で、淡々と答える。
王と王妃は苦笑する。
クイードに通訳されたバルシャークは憮然と腕を組み、マクロンは呆れ顔だ。
マレリィはやや眉を寄せて聞いていた。
王が、整えられた髪をくしゃくしゃと崩しながら言う。
「そなたはそうやって、カウティスを王族として教育しているのか?」
「何のことか分からない」
水の精霊は空を見つめたままだ。
王妃が良いことを思いついたように、両手を合わせた。
ふんわりと微笑んで、水の精霊を見つめる。
「水の精霊様。第二王子と共に、第三王子とも午後の休憩を過ごされては?」
「断る」
「また即答か」
王は額を押さえ、王妃は驚いて目を見開いた。
「式典は終えた。私は戻る」
水の精霊は素っ気なく告げると、パシャンと小さな水音をたてて消えた。
残されたガラスの水盆に波紋が広がった。
「セイジェも一緒に過ごせば、良い影響を受けると思ったのですが……」
あまりにバッサリと断られたので、王妃は呆然と呟く。
「水の精霊様は、余程カウティスが気に入っているのですね」
「……申し訳ありません」
固い表情のマレリィが頭を下げる。
エレイシア王妃は、マレリィの手をそっと握る。
「そなたが謝ることではありません」
状況を説明されたバルシャークが、苛立ちを露わにした。
「水の精霊様はどうしたのだ!主に対し、その態度はあまりにも不遜ではないか!」
声を大にするバルシャークを、クイードが鼻で笑った。
睨み付けるバルシャークを見て、口を開く。
「主と言うが、そもそもお主の魔法契約の認識には誤りがある」
「誤りだと?」
バルシャークが眉根を寄せる。
他の者も、クイードに注目した。
「皆様にもご講義しましょうか?」
彼は、銀に近い金髪を神経質そうに耳にかけながら、講義を始めるように喋り始めた。
「水の精霊と王族の契約は、“自国に枯れない水源を得る”というもの。それ以上でも以下でもない。水の精霊が水源さえ枯れさせなければ、契約違反ではないのです。王族を“主”とするのはその部分だけ」
王の表情が固いものになる。
「各地の水源を豊かにする、氾濫する川を抑える、頻発する火事を鎮火する……この国の為に行っている精霊の数々の行為は、精霊自らの、謂わば、善意の奉仕ですよ」
クイードは言葉を切って、この場にいる全員を見た。
「カウティス第二王子への関心も、王族への不遜な態度も、水の精霊にとっては、契約外の、何のことはない事柄なのですよ」