変化 (前編)
弾かれたように、セルフィーネがカウティスの顔を見上げた。
恥ずかしさからなのか、まだその顔は赤い。
彼女は形の良い眉をきゅっと寄せる。
口を開くのに、声を発してはいけないと自制しているように、再びキツく唇を引き結び、弱く首を横に振った。
その姿に、カウティスは堪らず言った。
「セルフィーネ、我慢するな。気持ちを言って良い。本当は触りたいのではないのか? 身に付けたいと思っているのではないのか? そなたの願いを聞かせてくれ」
カウティスの言葉に、セルフィーネは視線をバングルに向ける。
躊躇うのに目が逸らせず、再び口を開けば、抑えきれない気持ちが小さな声で漏れ出た。
「…………着けたい」
カウティスは小さく安堵の息を吐いた。
しかし、それはすぐに打ち消される。
「でも、着けてはいけない」
カウティスは再び困惑して目を瞬いた。
「何故いけないのだ。そなたの物だ。いつ着けたって良い」
セルフィーネは首を振る。
「これを着ければ、私は変わってしまう気がする。……水の精霊とは、別のものになってしまうかもしれない」
「……別のものって、何だ?」
「分からない。でも、今とは変わってしまうかもしれない……」
セルフィーネは進化の可能性を、肌で感じているのだ。
カウティスはゴクリと唾を飲んで、そっと手を伸ばす。
彼女はその手に添った。
「……変わるのが、怖いのか?」
カウティスの問いに、セルフィーネは目を伏せて答えた。
「……怖い。とても怖い。私がもし水の精霊とは別のものに変わってしまったら……ネイクーン王国は“水の精霊”を失うことになるのでは?」
セルフィーネの声が震える。
「もしもそうなったら……、カウティスはまた、“水の精霊をネイクーンから奪った”と責められるのでは?」
紫水晶の瞳が、カウティスを切なく見上げた。
「私の変化で、カウティスを苦しませるのは、嫌。とても、怖い……」
カウティスは立ち尽くした。
固い物で頭を殴られたような気分だった。
セルフィーネも自分と同じ様に怖かったのかと思った。
けれど、セルフィーネと触れ合える、穏やかな日常を失うのが怖いとカウティスが怖じ気付いている間、彼女はネイクーン王国が水の精霊を失うことを案じていた。
彼女が変わってしまうことで、カウティスが苦しむことになるのではと心配し、恐れていた。
カウティスは自分の事ばかり考えていたのに、セルフィーネは国と彼の心配をして、自分の願いを抑え続けていたのだ。
小さな装飾品に、指先で触れる事さえ躊躇って。
「俺は……」
カウティスは固く拳を握って、額にぶつけた。
「俺はいつも、自分の事ばかり……」
セルフィーネを守りたいと言いながら、いつもいつも、自分の気持が優先されて、子供のようだ。
何もかも放り出して、セルフィーネと二人でいたいとまで思った。
決してアブハスト王のようにならないと宣言したのに、自らそれに近づいているではないか。
何て、情けないのだろう。
カウティスはギリと奥歯を噛み締める。
「カウティス」
小さな声で呼ばれ、カウティスは左手に添うセルフィーネを見た。
今も彼女は、その澄んだ瞳でカウティスを見上げ、案じている。
その儚げで美しい姿を見つめ、カウティスは決意した。
「…………行こう」
ガラスの小瓶に付いた、銀の細い鎖を首に掛け、小箱に入ったバングルを取り出して薄布で包むと、胸の内ポケットに仕舞う。
「カウティス?」
戸惑うセルフィーネに薄く微笑んで見せて、カウティスは部屋を出た。
カウティスが黙って一人で建物を出たので、ラードが追い掛けて来た。
「王子、どこへ行かれるつもりですか」
軽く咎める言い方をしたラードに、カウティスは足を止めずに視線を向ける。
「川原へ行く。止めることは許さん。心配なら付いて来い」
その視線と気配に、ラードは呑まれた。
足早に進んで行くカウティスに、数歩遅れて黙って付き従った。
カウティスは直接川原に向かわず、大型テントへ向かった。
魔術ランプで明るいテントの中では、職人達に交じって、ハルミアンが設計図を写している。
二人に気付いて挨拶する職人達に軽く言葉を掛け、カウティスはハルミアンを呼んだ。
「何かご用ですか?」
テントから出て、黙って川原が見える所まで付いて来たハルミアンは、何処となく冷めた様子で尋ねた。
「今から一緒に川原へ行って欲しい。そこで水の精霊に……、セルフィーネに進化の可能性について、話を聞かせてやってくれないか」
胸に添う小さなセルフィーネが、目を見開いた。
ラードが怪訝そうな顔をし、ハルミアンは呆れたように小さく笑う。
「黙っておくことにしたんじゃなかったんですか?」
「そうだ。怖気付いて、私の身勝手で黙っていた。彼女の身に起きていることは、彼女自身が知るべきだったのに」
カウティスが左胸を見れば、セルフィーネが戸惑った様子で見返している。
カウティスは彼女にそっと左手を添える。
「……魔力の事は、私では正しく伝えられない。だから、ハルミアン、そなたに頼みたい」
「別にいいですけど。でも、それでもし、水の精霊の進化が早まったら? 王子の言う穏やかな時間が、失われてしまうかもしれませんよ?」
ハルミアンは皮肉めいた言い方をして、カウティスを窺う。
「セルフィーネが自分の状況を知って、それを望むのなら、それで良い」
カウティスが答えると、ハルミアンは彼の胸に添う水の精霊の魔力を見て、尚も彼の顔を覗き込んだ。
「王子の望む形から、水の精霊の存在が外れても、それで良いと言えるんですか?」
カウティスは静かにハルミアンを見返した。
「セルフィーネがどんなものになったとしても、それが彼女であるのなら、それで良いのだ」
「カウティス……何の話をしているのだ」
セルフィーネか戸惑いながら言った。
さっきからカウティスとハルミアンが話しているのは、自分の変化についてなのではないだろうか。
セルフィーネはふるりと震える。
カウティスが口を開く前に、ハルミアンが言った。
「水の精霊。君の今の状況を、僕が詳しく教えてあげる。行きましょう、王子」
ハルミアンの深緑の瞳にはキラキラとした光が湧き、楽し気な雰囲気が戻っていた。
三人は川原に下り、水際まで行く。
「セルフィーネ、こっちへ」
カウティスが川の方へ手を差し伸べ、胸に添うセルフィーネの顔を見て頷いた。
彼女は躊躇いながら川面に水柱を立ち上げ、淡く輝く人形を現すと、カウティスの手を取った。
「セルフィーネ、そなたの変化について、ハルミアンに説明してもらおうと思う。一緒に聞こう」
「……一緒に?」
セルフィーネが不安気な瞳をカウティスに向ける。
「ああ。一緒にだ」
カウティスが手を離さずに微笑むので、不安に波立っていた気持が少し落ち着いた。
セルフィーネはコクリと頷いた。
ハルミアンは、進化の可能性について話をした。
約二百年前にドワーフが進化して、現実世界に登場したこと。
水の精霊と呼ぶには、大き過ぎるセルフィーネの魔力、呼吸、実体化の可能性。
様々な要素と、ハルミアンが触れて感じる魔力の変化から、セルフィーネが妖精界で実体化する前の段階だと推測した。
「進化……」
セルフィーネは呆然と呟く。
いつか聞いた。
お前は進化している、と。
水の精霊よ
このまま人間と交わり
お前が どれ程まで変われるのか
我に見せておくれ
「月光神様……」
「月光神?」
セルフィーネの呟きを拾って、カウティスが聞いた。
「……月光神様が、以前私に、このまま変化せよと……」
ハルミアンが興奮して手を打った。
「やっぱりそうだ! これは神の望む進化の過程なんですよ。ネイクーン王国の水の精霊は、精霊から進化するんだ!」
「駄目!」
セルフィーネが叫んだ。
「だめだ! 私が変わったら、ネイクーン王国から“水の精霊”が失われてしまう。そんなことになったら……」
セルフィーネが続きを口にする前に、カウティスが彼女を抱き締めた。
「変わっても、変わらなくても、どちらでも良い。そなたの望むようにして良いのだ」
「変わらなくてもいいって、何言ってるんですか、王子。月光神が、進化を望んでるんですよ?」
ハルミアンが眉を寄せる。
「そんなもの知らない。私はセルフィーネに自分の事を知って欲しかっただけだ。進化を促したかった訳では無い」
「……そんなものって……」
カウティスのきっぱりした言葉に、ハルミアンは愕然とする。
カウティスは、胸に抱いたセルフィーネを見下ろす。
戸惑いと困惑に、白い顔で震えている彼女の頬に掌を添えた。
「セルフィーネ、そなたはもう、今までずっと変わり続けてきたはずだ。何百年も前にネイクーンに降りてから、水源を保つためだけの水の精霊が、自身の意思で国と民を守るようになった。感情を持ち、笑って、泣いて、怒るようになった。これから先だって、長く存在し続ける内にいくらだって変わるだろう。今、神の意志に左右される必要なんてない」
セルフィーネは、食い入るようにカウティスの青空色の瞳を見つめている。
「ただ、そなたが何かの為に、自分の望みを我慢しているのだけは嫌だ。ほんの小さな望みすら口に出来ない、そんなことは間違っている」
カウティスは、胸の内ポケットからバングルを取り出して、セルフィーネの前に差し出す。
「そなたの望みを言ってくれ、セルフィーネ」




