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張り詰めた糸

土の季節、後期月五週三日。


話し合いが終わり、王の執務机の上から、侍従が水盆を運んで行く。

魔術師長ミルガンは退室し、王太子エルノートとカウティスも揃って王に一礼する。


「エルノート、王太子妃は決めたのか」

王が唐突に問う。

「はい。昨日、マレリィ様にお伝えしました」

エルノートの表情は平坦で、何の感情も窺えない。

王は、僅かに気遣うような視線を向けたが、そうかと一言漏らしただけで、それ以上は何もなかった。




カウティスは、エルノートと共に続き間に入る。

「カウティス、そなたは朝方まで泉にいたのだろう。近衛の勤務からは外れているのだから、休んで来い」

エルノートが椅子に座り、今日処理するべき書類や手紙に手を伸ばす。

「……いえ。久し振りに兄上に侍ることが出来るので嬉しいのです。暫くお側に」

カウティスが笑い掛けると、エルノートは呆れたように笑う。

「そなたも大概、仕事人間だな。好きにしろ。ただしここにいるからには、使うぞ」

「はい」

エルノートが薄青の瞳を細めて、楽しそうに笑うので、侍従や文官達も目を見合わせて笑った。




セルフィーネは王城の上空から、西部に戻る。


国境地帯は浄化されて、火の精霊も落ち着いている今は、ベリウム川の氾濫も心配はない。

けれども、休戦協定を結ぶ際に承諾したからには、原則西部に留まらねばならない。


ベリウム川に沿って上空を駆ければ、今日も堤防建造の現場は活気が溢れていた。

現場に付いていた緑ローブの魔術士が、セルフィーネに気付いて、上空に向かって一礼する。

彼等が憂いなく作業に当たれている様子に、安堵した。



川を下って拠点に向かう途中、聖職者の一団を見つけた。

許可された場所を、まとまって移動しているのだ。

数名が水の精霊の魔力を見つけ、見上げた。

その視線に、セルフィーネは怯む。

神聖力を発現していない今は、彼等が見ているのは白と青銀の弱い魔力のはず。


だが、もしも。

もしも、この身の内に刻まれた聖紋が、彼等の目に何かしらの異変として映ったら……。

そう思うと落ち着かない。

王太子は、神聖力を『隠せ』と言った。

そんなことが、出来るだろうかと不安になる。


セルフィーネは胸に手を当て、ふるふると首を振った。

どうあっても、やらなければならない。

ネイクーン王国の水の精霊として在り続ける為に。





カウティスは今日一日、王太子に付いて雑務をこなしていた。

エルノートはカウティスが側にいることで、普段多忙を理由に飛ばしがちな休憩も取り、冗談を言い合って笑ったりもした。


日の入りの鐘が鳴る。

王太子の執務室で、カウティスはまだエルノートの側にいた。


「カウティス、そなた結局ずっと側にいたな。随分助かったが、もう、セルフィーネの所に行って良いぞ」

エルノートが揶揄するように笑った。

彼の手元には、まだこれから読むつもりであろう、本や資料が積まれてあった。

自室に戻って休む気などなさそうな兄に、カウティスはそっと眉を下げた。



「兄上、人払いをお願いします」

カウティスが唐突に言った。

椅子に座ったエルノートが顔を上げ、躊躇することなく手を降る。

エルノートとカウティスの二人なので、侍従だけでなく、近衛騎士も従って部屋の外へ出た。

「何かあったか?」

全員外へ出たことを確認して、エルノートが資料を置いてカウティスを見上げた。

カウティスは執務机を回り込むと、エルノートの椅子の横に片膝をつき、頭を下げる。

紺のマントが床を擦る。


訝しげに見下ろすエルノートに、カウティスが口を開く。

「私は兄上に、心からの親愛と忠誠を誓いました。今もそれは微塵も変わっておりません」

「理解して受け取っているつもりだ。そなた程信頼している者はいない。……どうした?」

改まったカウティスの様子に、気遣う気配すら見せる兄に、カウティスは決意した。


「兄上は私の大切な方です。ですから、不遜と思われるとしても、申し上げます」

カウティスは顔を上げ、エルノートの目を見る。

「兄上、どうか、心の内の痛苦をお吐き出しく下さい」

エルノートが鋭く息を呑んだ。


「もう見過ごすことは出来ません。以前より兄上は、ずっと何かを恐れ、耐えておられます」

「何のことか分からない」

エルノートが素っ気なく答え、視線を逸らした。

兄の余裕のない返答に、カウティスは自分の主張が間違いでないことを確信する。

「お気付きでないのですか? 今日一日共に在りましたが、兄上は細い糸のようでした。張り詰めて、今にも切れてしまいそうです」

「カウティス。やめろ」

焦りからなのか、苛立ちからなのか、机の上で握られたエルノートの手が、小刻みに震える。

兄のその様子に、カウティスは一層声に力を込めた。

「何を恐れておいでですか。独りきりで耐えないで下さい、兄上。皆も、私も側におります。このままでは、擦り切れてしまわれます」

「カウティス!」

声を大きくして、振り向くエルノートの薄青の瞳に、怒りよりも怯えが見えて、カウティスは胸を突かれた。

「皆、兄上を案じています。兄上、どうか心の内を吐き出してください。私でなくても構いません。兄上のお心に添える者に、どうか!」

「もう良い!」

バンッとエルノートが机を拳で叩いた。

その拳の節が、白く浮き立っている。

「やめろ! もう聞きたくない! 下がれ!」

「兄上!」

「下がれ!」


カウティスは歯を食いしばり、立ち上がると一礼して部屋を出た。



部屋の外には、青ざめた顔をした侍従と、近衛騎士が立っていた。

エルノートが声を荒げたのが、部屋の外まで聞こえたようだった。

「カウティス様!」

扉から出てきたカウティスに侍従が近寄り、頭を下げた。

「……これで良いのだ」

カウティスは頷いて見せた。




カウティスは庭園の泉に向かう。

泉には、昨夜と同じようにセルフィーネが佇んでいた。


「王太子と、話はできたか?」

セルフィーネが聞くと、カウティスは頷くが、その顔は晴れない。

「……やはり、そなたの言う通りだった」


前々から、兄の調子は気になっていた。

以前より痩せた姿、目の下のクマ。

公務に復帰して、以前のように精力的に動いているのに、何処か張り詰めていて、何かを耐えているように感じた。

それでも、毒に侵され、死を間近に感じたのだから、以前と全く同じようにはいかないのだろう、ゆっくり元に戻れば良いと思っていた。

しかし、王城から戻ったセルフィーネから、王太子の生気が弱り歪んでいると聞かされ、愕然とした。



実際に一日側にいて感じたことは、兄が他人に言えない痛苦を抱えているという事。

そして周囲の誰もが、大なり小なりそれを感じているという事だった。

しかし皆、気遣えば気遣う程、何も出来ないでいる。


カウティスには、真正面からぶつかることしか出来ない。

例えこれで疎まれたとしても、自分がやらねばと思った。


完璧な人間などいない。

助けが必要のない者も。

兄が自ら潰れてしまう前に、強引にでも風穴を開けたかった。


「そなたの気持ちは、きっと伝わる」

セルフィーネが細い腕を伸ばし、カウティスが握った右手を撫でた。

「……ああ」

カウティスがその手を取る。


あの兄が、今の状況で弟の自分に弱音を吐けるとは思っていない。

限界まで張り詰めて、最初に吐き出せるとすれば、その相手はきっと一人だ。

カウティスは、夜に聳える王城を見上げた。





人払いをしたまま、エルノートは長い時間、執務室で拳を握り締めたままだった。


カウティスは心の内を吐き出せと言う。

誰に、どうやって?

必要な事は口に出しているつもりだ。

それ以上を、一体どうすれば吐き出せるというのか。


そう思うのに、彼は握った拳を開くことが出来なかった。



随分時間が経ったのだろう。

見兼ねた侍従が扉を叩くので、人払いを解いた。

促されるまま、自室に戻る為、執務室を出る。

頭に霞がかかったようで、何も考えられなかった。


広い廊下の開け放たれた窓から、柔らかな月光が見えた。

今夜の空には、瞬くような星も見える。

一つ、小さな星が、闇の中を細い尾を引いて流れた。


ふと、セイジェが生まれる前の幼い頃、父に抱き上げられ、母と手を繋いで流れ星を見た事を思い出した。



切なく懐かしい想いが胸に込み上げる。

エルノートは自室に向かうはずだった足を、大広間に向けた。






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