緩徐
土の季節、後期月五週二日。
王太子エルノートは、城下へ下りるための身支度を整えた。
部屋を出ようとして、机の側で足を止める。
机上には、王太子妃候補の五人の令嬢の姿絵がある。
園遊会から三日経つ。
王太子妃候補として参加させたのだから、早々に結果を通達せねばならない。
今朝も朝食の席で、王に催促をされた。
エルノートは小さく溜息をつくと、その内から無造作に一枚を抜いて、侍従に渡した。
「この者に決めると、マレリィ様に伝えよ」
言って、そのまま部屋を出た。
西部国境の拠点では、カウティスとマルクがテントで話していた。
打ち合わせに使う大型テントの中は、昼間はまだ暑い。
外幕を巻き上げて網状の内幕だけ下ろし、風が通るようになっているので、外を人が通るとよく分かる。
「やはり魔力と神聖力は、全く違うものなのか」
「そう聞きますね。神聖力を持っていないので、実際のところの差は分かりませんが、扱い方は全く違うようです」
カウティスの問いにマルクが答える。
「魔術士に、魔力の“慣らし”という行為はないのか?」
カウティスがチラリと下を見る。
今日もセルフィーネは、小さな姿で彼の左胸に添っていた。
カウティス達の話を興味深く聞いている。
「ありません。魔術士は魔術素質を生まれ持っているので、幼い頃から、成長と共に扱いを覚えます。改めて“慣らし”は必要ありませんから」
確かに、神によって後付される神聖力とは違い、幼い頃から当たり前に持っている力なら、“慣らし”などという行為は必要ないだろう。
「では、マルクでも神聖力の“慣らし”は出来ないということだな」
「そうですね。やはり聖職者でなければ難しいかと……。あ、あの、王子、水の精霊様の魔力が、剣呑なものに……」
マルクが怯むように一歩下がって、上体を反らした。
マルクの言葉に、カウティスが下を向くと、セルフィーネが形の良い眉を強く寄せて、カウティスを見上げている。
「セルフィーネ、どうした」
「“慣らし”は、カウティスでなければ嫌だ」
カウティスはドキリとする。
「他の者に任せようなどと思っていないぞ! マルクに出来るなら、コツを教わろうと思っただけで……」
昨晩のあれは、聖職者同士が行うものとは違うようだが、実質“慣らし”行為だったようだ。
セルフィーネは少し感覚が分かったのか、あれから今迄、何度か小さな光が発現しそうになったが、カウティスの側から離れないままで消すことが出来ていた。
離れないままというよりは、むしろカウティスの指に掴まって離さなかった。
その姿がいじらしく、良くは分からないが役に立てているようで、何となく嬉しくい。
「こんな所で痴話喧嘩しないで下さいよ」
顰めっ面で外幕を潜って来たのはラードだ。
「痴話喧嘩じゃない」
「はいはい。昼食の準備が出来たので、話の続きは向こうでお願いします」
ラードは、半眼で抗議するカウティスをあっさりあしらった。
昨夜、二人の周りの魔力が消えると、川原には心配そうなマルクと、仁王立ちしたラードがいた。
この辺りが浄化され、聖職者達も散らすことができ、ようやく落ちついたばかりだというのに、何をやっているのかとラードに散々嫌味を言われた。
自室にしている住居棟の中に入り、下男が運んでくれた昼食を食べる。
相変わらず拠点では、三人一緒に食事だ。
「南の神殿の方では、気付いた者はいなかったようです」
ラードがグラスを一気に空にしてから言った。
ついさっき、拠点より南にある、修繕中の神殿から帰って来たところだ。
昨夜の“慣らし”中に高まっていた神聖力を、神殿の聖職者が感知したのか、確認に行ったのだ。
イスターク司教のおかげで、聖職者達がこの辺りを好き勝手にウロウロすることはなくなった。
巡教に訪れる者には、今のところ各所の神殿や、カウティス達が用意した宿泊場所を経由して、日中の決められた時間、復興作業の邪魔にならない場所を開放している。
「神降ろしのように威力の大きなものは別ですが、割と近くにいないと、神聖力は分からないようですよ」
ラードが、もう一杯水を注ぎながら言う。
「水の精霊様の神聖力を消せれば一番いいんでしょうが、一旦授かると自ら失くすことは出来ないみたいですからね。やはり、隠す方法を考える方がいいかと思います」
もう一杯水を飲んで喉の乾きが癒えたのか、ラードは食事に手を付けた。
カウティス達は、昨夜セルフィーネから、王城で王達と話した内容を聞いた。
聖堂建築は理解できるが、セルフィーネを神殿に据えると聞いて、怒りが湧いた。
『精霊を無下にはしない』と言いながら、司教は結局自分達の利の為に、セルフィーネを利用するつもりなのだ。
王太子が正当な手続きを求め、時間を稼いだようだった。
管理官が、水の精霊の神聖力を確かめに来る前に、セルフィーネの神聖力をどうすれば良いか思案している。
「でも、水の精霊様の魔力は特別ですから、神聖力もそうかもしれません」
「特別?」
マルクの言葉に、パンを口に入れようとしていたカウティスは、眉を寄せる。
カウティスが食事をするので、胸のガラス小瓶から離れたセルフィーネも、机の端に置かれた水差しの側に佇み、マルクの方を向いている。
「はい。普通、神官が神聖魔法を使っても、僅かな光しか見えません。でも水の精霊様の場合は、眩しい程の光が溢れますよね」
確かに、魔術素質のないカウティスにも、セルフィーネの胸の光ははっきりと見える。
「感じることが出来なくても、見えてしまえば、神聖力を持っていることが分かってしまいます」
制御出来ずに、光が突然溢れる今の状態では、どれ程隠そうとしても難しいということだ。
隠す方法を探すにしても、まずはセルフィーネが神聖力を制御し、安定させなければならない。
「……司教は、“慣らし”が何度か必要だと言っていたな」
カウティスの言葉に、ラードが顔を顰める。
「ベリウム川で昨夜みたいなことを何度もやれば、隠すどころか公表するようなもんですよ」
「確かに……」
マルクも苦笑いで同意する。
カウティスはスプーンで、くるくるとスープを掻き混ぜながら考える。
聖紋を合わせる為には、人形が人間と同等の大きさでなくてはならない。
ベリウム川では、ラードの言う通りになってしまうので、これ以上は無理だ。
「……泉」
セルフィーネが呟いた。
はっとしてカウティスも顔を上げる。
「ラード、急ぎ王城に戻るぞ」
セルフィーネが人間の大きさで人形を現せ、“慣らし”を誰にも見られず行える場所。
庭園の泉だ。
エルノートが王城を出て向かった先は、城下のオルセースル神殿だった。
到着した時には、午後の一の鐘が鳴った後だったが、神殿の前庭に大型馬車が並び、視察団が出発しようかというところだった。
「これは王太子殿下。まさか、見送りにお出で下さったのですか?」
エルノートに気付き、イスターク司教が立礼する。
聖騎士達が後ろに続いた。
「猊下ともう少しお話出来ないかと思い、参ったのですが、まさかもう出発されるところだったとは」
視察団が神殿に着いたのは、一昨日の日の入りだったと聞いている。
早くとも出発は明日の朝だろうと思っていた。
「視察というのは、必要以上に現地に留まるべきでないのです。視察の結果に便宜を図るよう、圧力を掛けられる場合もありますので」
「……それは、我が国にも当てはまると?」
エルノートが薄く笑み、イスタークは形式的な微笑みを返す。
「お許し下さい。それを前提として動くのが、視察団なのです。それに、王太子殿下のお望み通り、管理官を急ぎ呼び寄せなければなりませんので」
エルノートは一つ息を吐いた。
「……猊下、多くの資料を調べてみましたが、精霊の性質からも、やはり水の精霊が聖職者になれるとは思えません。その件を取り下げて頂く訳にはいかないのでしょうか」
イスタークは困ったように、焦茶色の濃い眉を下げた。
「前例がないからこそ、試してみなければ分からないのではありませんか?」
「しかし、水の精霊は昔からネイクーン王国の為にその力を使ってきました。水の精霊自身が、これからもそう有りたいと願っております」
イスタークは小さく首を振った。
後ろで縛った焦げ茶色の髪が、馬の尾のように揺れる。
「考えてみてください。例え聖職者扱いになったとしても、水の精霊はネイクーン王国から出られない。ネイクーンの為に使われる魔力に変わりはないでしょう。……私は、今のうちに水の精霊を、オルセースル神聖王国の所属にしておくべきだとお勧めしますよ」
エルノートが訝しげに薄青の瞳を細める。
「……どういうことでしょうか」
「竜人族です」
イスタークが両手を広げる。
「竜人族は、変化を嫌います。いえ、自分達の望む流れから勝手に外れるものを厭う。彼等が水の精霊の変化を知れば、水の精霊はどう扱われるのでしょう。竜人族が手を出せないのは、神の物だけ。オルセースル神聖王国に属する、聖職者だけですよ」
言ったイスタークが、左手で首から下げた金の珠を握り、右掌をエルノートの目前で一度開いた。
「!」
司教の掌が、淡く金の光を帯びると同時に近衛騎士が反応したが、司教は何のことはなくそのまま手を降ろした。
エルノートは頭痛が消え、神聖魔法を施されたのだと知る。
「……猊下」
「殿下、水の精霊よりもまず、自身のお身体をお厭い下さい。顔色が病人のようでしたよ」