竹中平蔵氏のYoutubeチャンネルのコメント欄で、彼に対する批判をしている人の多くが気付いてなさそうなこと
最初に断っておくと、私は竹中平蔵氏に対してこれといった特別な感情はありません。ただ、先日彼が自身のYoutubeチャンネルを開設したことですごく奇妙な状況が生じているので、それについて考察してみたいと思います。
さて、竹中氏がYoutubeチャンネルを開設したことをまだ知らない方でも、たぶん彼が投稿した動画のGoodとBadがどういう状態になっているかは想像つくかと思います。そうです。見たこともないぐらい圧倒的な差でBadが勝っています。憎まれっ子世に憚ると言いますが、彼ほど多くの人から嫌われた人も、それだけ嫌われてメンタルを病む気配すら感じさせない人も日本で他にいないでしょう。正直私も彼がYoutubeチャンネルを開設したと聞いて「正気か!?」と思いました。自ら進んでサンドバッグになるようなものですから。
それはそれとして、みなさんYoutubeの収益化の基準や報酬の仕組みを覚えていますか? 収益化条件は一年以内に登録者数が1000人以上増加し、かつ、総再生時間が規定の時間を越えることです。竹中氏のチャンネルの登録者数は現時点で約5800人。最初の2分43秒の動画の再生回数が約14万回。たった二日でこれです。再生時間はどこでブラウザバックされたかにもよりますが、普通に考えてすでに収益化の条件をクリアしているか、そうでなくてもすぐクリアするでしょう。
報酬の多寡については、どれだけ動画をしっかり見られたかという点が大きいと以前から言われていました。つまり竹中氏の動画を最後まで熱心に見る人が多ければ多いほど、彼が受け取る報酬は増えるわけです。
そうなると、竹中氏の動画を見て批判や誹謗中傷のコメントを投稿している人たちは、まず彼の収益化に貢献することになりますし、収益化が成ってからは彼の収益そのものに多大な貢献することになります。もしこれに気付かず、正義感から彼の動画を見てイライラしながら批判コメントを書いているとしたら、傍から見てまあまあ残念な絵になるかと思います。
さらに、竹中氏の動画にコメントを入れたあと、今度は別のYoutuberが投稿した竹中平蔵批判の動画を見て、Goodボタンを押して賛同のコメントを書くとしましょう。すると今度はその竹中平蔵批判をしたYoutuberの収益に繋がります。そしてもちろん、Youtube(というかGoogle)側も儲かります。
この状況を冷静に見直してみると、まず竹中平蔵、竹中平蔵批判の動画を投稿したYoutuber、Youtubeの三者が利益を得るのはほぼ確定です。そして竹中平蔵氏の動画にBadと批判コメントを投げ、竹中平蔵批判の動画にGoodと賛同コメントを投げた人たちは、この行動によって一銭の利益も得られないばかりか、コメントを考える時間を使ってただ苛立ちを募らせたことになります。
さて、たぶんここまで読んでも「竹中平蔵批判の動画を投稿したYoutuberだけは信用できる良い人だ」と考えてる人がいそうなので、そこのところも突っ込んでおきます。
人の考えていることはわかりません。わかった気になることはできますが。なので、その竹中平蔵批判の動画を投稿したYoutuberが、本心の正義感からその批判動画を投稿しているのか、それとも「嫌われ者の竹中をそれらしく批判する動画を投稿すれば再生数を稼げるぞ。竹中もアンチ竹中も正直どうでもいいがな」と思って投稿したかどうかは、外面からは正確に判断できないわけです。
(なお、「他人の考えていることはわからない」ということは、「マンガ等に出てくる『相手の心を読む能力者』が本当に相手の心を読めているかどうかは、仮に読みが全て的中したとしても証明不可能」ということを論理的に証明すれば自然に示せるはずです。「自分は論理的思考力が高い」と自負されている方はぜひやってみてください)
しかし状況から明らかに判定できることが他にちゃんとあります。それは先に挙げた「竹中平蔵、竹中平蔵批判の動画を投稿したYoutuber、Youtubeの三者が利益を得た」ということと、「アンチ竹中の人たちは、時間と労力を割いたにもかかわらず一銭の利益も得られなかった」ということです。
竹中平蔵氏とグローバリストを敵とみなす人たちは、この一連の行動の中で、竹中平蔵とグローバリスト(Youtube及びGoogle)に利益を授け、味方のように見える竹中平蔵批判の動画を投稿したYoutuberにも利益を授けながら、その味方と思われる人からすら生活の糧となるものを何一つ分け与えてもらえず、それどころか年末にただ時間を割いてイライラしただけ、という結果を残してしまったわけです。
それでもまだ「いや、俺は悪である竹中平蔵を批判した。だから良いこと、意味のある事をした」と言いたい人はいるかと思います。ではそれについて、引き続き竹中氏を批判も擁護もせずに反論してみせましょう。
まず「良い・悪い」「正しい・間違っている」「優れている・劣っている」などの価値基準は、それらの基準を持った観測者(人間)が主観的、観念的に規定しているだけで、それは客観的事実ではありません。観測者の価値基準が介入した感情的な考えを事実だと錯覚してしまうことは人間にはままありますが、客観的事実というのは「物理的にそのようなことが起こった」とか「金銭的に誰にいくらの増減があった」とか「法的に違法とみなされた」とかいった実際に起こった「結果」のことであって、それを受けて沸き上がった「各自の価値に基づいた判定」は、妥当かどうか以前に個人の価値観の域を出ないわけです。
つまり竹中氏に対して怒ろうが擁護しようが、そこで生じた価値判断は客観的事実とは全く別のもので、言わば個別の「解釈」です。またその価値基準に同意する人が多いか少ないかは事実であるかどうかとは関係ありません(中世ヨーロッパで多くの人が天動説を信じていたことを思い出してください)。事実に善悪はありません。事実は事実でしかないのです。
客観的事実を自分自身の価値観から可能な限り分断して冷静に状況を分析していれば、その行動によって誰が得して誰が損するかはすぐにわかるはずです。そうなれば、自分の敵に貢献するようなことはしないで済みますよね。そういう行動を意図的に避ければいいんですから。
そして最後に私が言いたいのは次のことです。
『自分の人生の貴重な時間を有効活用するためには、自分の利益に繋がることに時間を割くのが一番手っ取り早い』
ここで言う利益は金銭に限った話ではなく、幸福感とか、良き友と過ごす時間なども含みます。お金を稼ぐとか、節約するとか、趣味に没頭するとか、友達とZoom飲み会をして年を越すとか、もっと有効な時間の使い方があるはずです。
みなさんがこれらの利益を得ることに十分な時間を割かず、利益にならないことに時間を費やしているのなら、もっと時間を有効に使うことを考えたほうがよほど自分自身のためになるのではないでしょうか。私にとっては他人事ですが。