輝く青い瞳、薔薇の色をした唇
「おはようございます、深夜子先輩!」
「お、おはようございます、屋冬寺先輩」
「深夜子センパイ、おはようございまーす!」
昇降口に向かう道すがら。青いネクタイを結んだ一年生から次々と挨拶の言葉を掛けられながら、屋冬寺深夜子はその一人、一人に天使のような笑顔を向けた。
母がイギリス人である影響で栗色の髪に青色の瞳を持つその容姿は、ただでさえ目立つというのに、髪と同色の柳眉、すっと筋が通っている高い鼻、ふっくらと厚くて薔薇のように紅い唇までをも持っている。そんなパーツを付けた顔を首から上に生やしているものだから、その存在は否が応でも目立ってしまう。
ふわふわと波打っている長い髪ーーパーマをかけているわけではなく天然のものであるーーも、彼女の美貌を引き立たせていた。
「おはよう、みんな。今日も元気いっぱいね」
深夜子がそう笑みを浮かべるだけで、下級生たちは色めき立った。
雀谷女子高等学校の二年生である深夜子は、いつの間にか、一部の下級生たちにとって身近にいる芸能人のような存在となっていた。
そう。ルーティーンに耐えられない少女たちは、美しい容姿を持つ上級生に憧れ、羨望を抱くことで、つまらない学校生活に色を付けているのだ。それも無意識に。
深夜子は、そのことをよく理解していた。視野が狭い一部の下級生たちが、自身に非日常を見出していることを。そして、その見えない檻から脱出することが容易ではないことを。
他者の眼前にへばりついているフィルターを破壊すること自体は容易い。幻滅という名のハンマーで叩き割れば、そんなものは一瞬で無くなる。「私は特別じゃない、つまらない女の子なのよ」と、言動で示せばいい。
けれども、深夜子にはその勇気がない。下級生たちを幻滅させた結果、あらぬ噂を立てられたり、好奇の目に晒されてしまったりすることが恐ろしいのだ。
なぜなら深夜子は彼女たちと一歳しか違わない、ただの女子高生だからである。いくら美しいと持て囃されようとも、深夜子という女の子が中身ごと特別な人間になったわけではないのだ。
「深夜子! 深夜子!」
突然、一際大きな声が、深夜子の後方からけたたましく響いてきた。
彼女がぱっと振り返ると、深夜子の先輩ーーつまりは三年生の遊佐狭霧が校門を跨いですぐの場所から、大きく手を振っていた。
短くカットされた黒い髪に、縦に長い体躯と少年めいた容貌を持つ、健康的な雰囲気の少女。その姿を視界に収めた瞬間、深夜子は無意識にほっと息を吐いていた。
「げー、遊佐先輩だ」
嫌そうな声。恐らく下級生のうちの誰かが発したそれに、深夜子はびくりと肩を震わせた。
「遊佐先輩って、引退するまでバスケ部でエースだったあの人?」
「うん。あの人、暇があれば深夜子先輩に近寄ってくるんだよ。馴れ馴れしくない?」
「馴れ馴れしいかはわかんないけど、遊佐先輩って、レズなんじゃないかって噂あるよねー」
「あ、あたしもそれ知ってる」
「ちょっと、気持ち悪いよね……」
狭霧の噂話と悪口。それを狭霧と親しい自分の背後で堂々と発する後輩たち。深夜子はつい、耳を疑った。
彼女たちは狭霧のことを、屋冬寺深夜子に一方的に近付いている鬱陶しい先輩くらいに思っているのだ。深夜子自身が狭霧をどう思っているのかなど、一度たりとて考えたこともないのが丸わかりだった。
深夜子は両手にぎゅっと力を入れて拳を作ると、ばさりとスカートを翻し、下級生たちの方へと向き直った。
「あなたたち。遊佐先輩の悪口や、根も葉もない噂話はやめて。不愉快だわ」
整った眉を吊り上げつつ、怒りを込めながら低い声で告げると、下級生たちは顔を見合わせながら少しだけ戸惑いを見せた。
「私は別に、悪口なんて……」
「そ、そうですよ。ただの冗談っていうか」
「それにこれくらいのことなら、みんな言ってますし」
「深夜子先輩だって遊佐先輩のこと、迷惑に思ってますよね?」
「だって深夜子先輩、遊佐先輩と一緒にいる時、全然楽しそうじゃないですし」
下級生たちの言動に、深夜子は言葉を失った。自分たちが行った悪事を素直に認めないばかりか、深夜子の感情までをも一方的に決め付けている。
たしかに深夜子は人前で狭霧の側にいる時は表情が堅くなるし、口数も減ってしまう。けれども、それは狭霧を嫌いだからではない。むしろ、好きだからだ。人前だと妙に緊張してしまって、うまく話せないでいるだけだ。
その姿をそんな風に思われていただなんてーー深夜子は大きなショックを受けて、目の前が暗くなった。この場から逃げ出してしまいたいーー湧き上がる衝動を堪えながら、どうにか青ざめた唇をわずかに開く。
「私は遊佐先輩のことを、迷惑だなんて思ってないわ。よく知りもしない他人を……しかも上級生を侮辱するあなたたちとは、私はもう、関わりたくない」
今後、目の前にいる下級生たちと気まずくなってしまう未来を予想して胃を痛めながらも、深夜子は明確に告げた。
きっと明日……いや、今日からは自分が、この陰気な後輩たちの陰口のターゲットになってしまうはずだ。学校という狭い檻の中では、そういう悪意を完全に遮断しようと思っても、そううまくはいかない。だから、いつか自分の耳に、くだらない雑音が届いてしまうこともあるだろう。
深夜子はそうやって、ほとんど確信しながらも、どこか清々しい気持ちでいた。見えない檻から抜け出せる解放感。そして、品のない者たちと自ら縁を切れたことへの充足感。その両方が、彼女の心に穏やかな風を吹かせた。しかしーー
「深夜子先輩……」
「え、嘘」
「何……今の……」
「えっ、えっ、私たちが悪いの?」
「あの、先輩、さっきの冗談ですよね?」
後輩たちは深夜子の言葉を理解しないどころか、真剣に受け止めようともしてくれてはいなかった。聞き分けの悪い少女たちを美々しい両眼に映しながら、深夜子はわずかに下唇を噛む。できるだけ早く、この場からいなくなりたいと思った。
「私からはもう、何も言うことはないわ」
力無く答えてから、アイドルの役割を捨てた少女は、下級生たちの間をすり抜けて足早に自分の教室へと向かっていった。
後方から自分の名を呼ぶ狭霧の声が再び響いてきたが、現状、それに答えることはできない。心の中が、まるで白いキャンパスの上に、めちゃくちゃに泥を塗り付けられているかのように苦しかったからだ。心臓がどくどくと跳ねて、不快な音を胸の内側から響かせていた。
全ての授業が終わり、部活動や委員会活動を行う生徒だけが校内に残っている放課後。
深夜子が机の上に上体を預けながら憂鬱そうにしていると、教室のドアの外に狭霧が現れた。茜色のフィルターがかかった教室には、深夜子以外、もう誰もいない。
狭霧は遠慮なくドアを引き、下級生のテリトリーに足を踏み入れると、席に着いたまま窓の外を眺めている少女に声を掛けた。
「深夜子」
深夜子はおもむろに、声がした方へと顔を向けた。その表情は暗い。さらには、大きな瞳がばつが悪そうにせわしなく泳いでいる。
今朝、余裕の無さから狭霧のことを無視してしまった。そのことを気にしているのだ。
「あの、遊佐先輩……」
躊躇いがちに紅唇が開いた。
「ん?」
「今朝はすみません。先輩のことを、無視してしまって……」
心底申し訳がなさそうにしている深夜子とは反対に、狭霧は屈託なさげに笑った。無人の室内に笑声が反響する。
「全然、気にしてないよ。それより今朝、なんかあった? 一年生たちと揉めてたように見えたんだけど」
その言葉に胸がどきりとして、深夜子は無意識に赤いネクタイの前で白い両手を重ねた。
今朝の出来事を正直に話せば、きっと、狭霧に不愉快な思いをさせてしまう。おもんぱかった深夜子は、「大したことじゃないんです。ただ、私の虫の居所が悪かっただけで……」と説明した。しかし、狭霧は都合よくごまかされてはくれなかった。
「深夜子、正直に話して。私はあんたの力になりたいんだ」
真剣さを宿した濃褐色の瞳が、まっすぐに青色の双眼を射抜く。逸れることのない視線は、まるで光線のようだ。
「遊佐先輩……」
深夜子はきつく柳眉を寄せながら逡巡した後、事の顛末を話すことにした。時折、悔しさや心労で声を震わせてしまいながらも、偽りなくすべてを伝える。
話を聞き終えた狭霧は、「うわー」とだけ呟いた。その反応は、深夜子の予想に反したものだった。もっと怒ったり、悲しんだりするのではないかと思っていたのだが、そんなことは全くなかった。
内心、驚きながらも、深夜子は頭を下げる。
「すみません。私のせいで、先輩に悪評が立ってしまって」
「深夜子のせいじゃないだろ。それにさー、その噂、嘘ってわけじゃないし」
一刹那、意味がわからず深夜子は小さく首を傾けた。けれどもその直後、意味を解してしまい、はっとする。
噂は嘘ではない。それが意味しているのは、狭霧はレズビアンだということに他ならない。
「えっ、あっ、あの……それって」
深夜子は思わず、声を上擦らせてしまった。
「うん。私、同性愛者なんだ」
動揺を露わにしている深夜子とは裏腹に、狭霧は平然としていた。夕陽の色彩が混ざった濃褐色の瞳が、すっと細められる。
「気持ちが悪いって思う?」
「い、いいえ。ただ、びっくりしてしまって……」
「ホントに?」
「はい、本当です」
深夜子は力強く頷くと、心臓に右手を当てた。さっきからずっと、鼓動がうるさい。
密かに恋していた狭霧が、同性愛者だっただなんて。深夜子は驚愕してしまい、落ち着きがなくなっていた。手のひらが汗ばんでいく。
「そっか。良かった」
今までの様子が嘘のように、安堵したような声色で言うと、狭霧は深く息を吐き出した。その様子を、深夜子は不思議に感じてしまう。先ほどまで、少しも心を乱しているようには見えなかったからだ。
「遊佐先輩……?」
「はは、何だかほっとしちゃってさ。深夜子には……深夜子にだけは、嫌われたくないから」
“深夜子にだけは、嫌われたくないから”
その台詞のせいで心臓が跳ね上がって、深夜子は思わずしわしわになるくらい、黒いプリーツスカートを握り締めていた。嫌われたくない。それは深夜子も同じだ。狭霧にはーー狭霧にだけは、今もこれからも、嫌われたくはない。
深夜子の胸の内に強い感情がわっと湧き上がってきて、その思考を波のように侵食していく。気が付いた時には、少し乾いた唇が開いていた。
「私は、遊佐先輩のことを嫌いになったりなんかしません。だって私、一年生の時に自転車に追突されて怪我をしていたところを助けられてから、ずっと、ずっと、遊佐先輩のことが好きだったんですから」
わずかに目蓋を伏せながら、深夜子は小鳥のさえずりのような声量で告げた。栗色の長い睫毛が小刻みに震えている。
派手な容姿とは裏腹に奥手な深夜子にとって、これは一世一代の告白と言えた。さらに言うなら、こうして誰かに好意を伝えるのは、今日が初めてなのだ。深夜子は緊張のしすぎで、少し泣いてしまいそうになった。
「えっ!」
驚きに満ちた狭霧の声が、二人しかいない空間に響いた。
「それ、ホント?」
確認を取られた深夜子が、頬を鮮やかに染めながら、正直に頷く。すると狭霧が歓声を上げながら、座ったままの深夜子を勢いよく抱き締めてきた。椅子の前脚が、一瞬だけだけれども小さく浮いてしまい、危うくそのまま倒れてしまいそうになる。
深夜子の喉から、思わず悲鳴が上がった。
「きゃっ!」
「わっ、とと。ごめん。嬉しくて、つい」
狭霧は謝罪しながら、慌てて深夜子から身体を離した。その後、流れるような仕草で深夜子の右手を優しく掴むと、陶器のように白く滑らかな甲へと口付けを落とす。それはまるで、洋画に出てくる紳士のように自然な所作だった。
肌から伝わってきた柔らかい感触に、深夜子はびくりと肩を竦めた。羞恥のせいで、見る見るうちに顔全体が朱色に染まってしまう。
「ゆ、遊佐先輩っ……」
「私も深夜子のことが好き。可愛くて、心配性で、傷つきやすくて。だから気になって、放っておけなくなる。そんな深夜子のことが大好き」
狭霧の告白を受け止めながら、碧眼に朝露のような涙が滲んだ。濡れた瞳が斜陽を受けてきらきらと輝く様は、光に照らされている宝石を連想させるほどに美しかった。
「嬉しい」
それは、噛み締めるようなつぶやきだった。
「私もだよ。ねえ、深夜子。私と付き合ってくれる?」
狭霧が囁くように問いかける。それは今まで聞いたどんな言葉よりも甘美で、美しい少女の心を一瞬のうちにとろけさせた。胸の深奥に蜂蜜が流れていく。
深夜子が静かに首肯すると、狭霧はうっとりと笑みを浮かべた。そうして次の瞬間には、背を屈めてから、薔薇色の唇を優しく、優しく奪ったのだった。