スタンバックとRDシェルの巡らせた策謀によりイランにおいて全てを失ったBP。そして実は掌で転がされていた出光。
1943年。
イランの首都テヘランに密かに要人を派遣した企業がある。
RDシェルと、スタンバックであった。
彼らの狙いはイランの石油権益の確保。
戦後の情勢を見定め、当時すでに状況が発生したソ連をイランから追い出すことも目的の1つ。
彼らの交渉はフェアであり、イランはそれを認めようとしていた。
しかしそれは覆えされてしまう。
BPという石油企業とチャーチルによって。
APOCという組織がある。
中東にて始めて油田開拓に成功した企業であり、そしてイギリスが公的資金を注入していた組織だ。
これは中東全ての採掘権を保持する企業であり、後のBPの土台となる企業である。
英国が中東に進駐した理由はこのAPOCが表向き「全ての採掘権を持つ」ということになっていたからであり、WW1の反省から「戦争は燃料である」と認識していた英国もまた、ここの管理においては一切手を抜く事がなかった。
実はこのAPOC、一度RDシェルに買収されかけたことがある。
アジアでの成功を皮切りに世界でタンカー王と呼ばれるようになったサミュエル。
彼は中東においても油田の可能性を見出しており、APOCの採掘権を購入して後のOPECのようなものを作ろうとしていた。
信じられないかもしれないが、実際に一番先にOPECに類似するものを提唱したのはRDシェルであり、冗談抜きで「RDシェルの助言にのっとってOPECが生まれた」といっても過言ではない。
しかし1910年代RDシェルを快く思わなかった者達によってその行動は阻まれ、最終的にAPOCはBPに吸収される形で傘下に入る。
この時ほどRDシェルにとって悔しいものはなかった。
なぜならば赤字続きでろくに運営能力が無いAPOCを軌道に乗せたのは他でもないRDシェルだったからだ。
APOCの経営の舵取りを一時期行ったRDシェルは、時間と人員と利益の3つの面において大きな損害を出すことになり、このことが後にWW2以降の英国と敵対に近い形での行動原理の基となる。
加えて、BPの体制をいかにして崩すかということに力を入れるようにもなった。
時は再び1943年に戻る。
この時の中東はソ連と英国の双方がWW2の勝利のためという目的で実質的に支配下においていた。
特に英国の場合、APOCから名を変えたAIOCを通して事実上の独占体制を敷いていたため実質的にイランは植民地に近い状況となっていた。
そこに介入を試みたのがスタンバックとRDシェルなのである。
彼らは「石油自由競争」の名の下に、テヘランにて秘密会談を行い、AIOCの独占体制を崩壊させるための契約を結ばせようとする。
その上で彼らは「ソ連を追い出してのイランの独立」を認め、そのための全ての支援を行う一方で採掘権を譲渡してもらい、インドネシア諸島などと同じような形での石油事業を行おうと企てていた。
ちなみに1943年の時点でこのクーデターまがいの行動に成功していた場合、この採掘された石油の行く先は他でもない「日本」を中心としたアジアであり、日本国が後2年太平洋戦争を遅らせて開戦させていた場合は、米国は間違いなく参戦できるような状況ではなかったと、後年米国が見積もっていた要因の1つにこの時のスタンバックとRDシェルの行動が含まれている。
それは1943年の秘密会談はマルタ会談のような秘密協定に近いものを結ぶためのものであり、ここに日本国が参画した場合は日本は中東における圧倒的な資源確保が可能となる。
しかも、1938年の段階で日本国は中東にツバをつける形で政治介入し、英国を追い出して大東亜共栄圏に含めようとしており、そしてそれを裏からサポートするような形で自らの利益を確保しようと動いたのが日本国を中心に利益を出していたRDシェルとスタンバック。
ようは日本国は別段、欧米の列強と戦うにあたり、何も行動しなかったわけではなく、そしてその行動の補佐に近い形で動いていた組織の1つにRDシェルがあったわけである。
実はこの時スタンバックはベネズエラなど、南米諸国における契約に成功していた。
それまで欧州勢が怒涛の勢いで南米において勢力を保つ中、「国家のとしての立場は認めるが、採掘権を売って欲しい」という形で相次いで契約に成功。
これにより、欧州の魔の手を南米より遠ざけてアメリカ大陸にて確固たる地盤を築き上げていた。
しかもそれは欧州がドイツによって蹂躙され、身動きがとれない隙を見ての行動であり、ベネズエラにおいてもBPが元々先行して採掘権を「支配権」に近い形で得ていたものの、それをちゃぶ台をひっくり返すがごとく獲得したのである。
ベネズエラは1935年に実質的無政府状態になったが、スタンバックらなどの裏の手引きによってクーデターが勃発、1945年に実質的に独立したのと同義な状態となる。
その後国内では何度も混乱が起こるものの、1945年を境にしてベネズエラは国家として断固とした地盤を築いたといえるが、その背後にいたのは他でもないスタンバックであったが、
1943年の時点でスタンバックはベネズエラと契約を結んでいたわけであるから、同様の方法でイランにおいても国家の解放と石油企業による支援と交流という形でイランを独立させることは可能と見込んでいたのは言うまでも無い。
1943年当時、傀儡のような状態のイラン政府に対してBPが支払っていた金額は採掘権ベースでの石油買取価格の20%である。
日本語ではよくわからないが、簡単に言えば卸値が100円と過程して、その2割を払うというもの。
つまり価格は精製も何もしていない原油から卸値を算出し、その2割と見積もっていた。
RDシェルやスタンバックが「石油製品売り上げの50%」としたのと比較すると二束三文どころではない。
ベネズエラを例に見てみよう。
ベネズエラは1910年代より石油産業にて発展していったが、急速に経済状況が良くなったのは1945年以降である。
この時、スタンバックはベネズエラに対し、ベネズエラの石油関係の売上げ利益の50%を支払う契約をしつつも、RDシェルと同じく「物品供与可」という状態にしていた。
そのためベネズエラはP-47やF8Fといった1945年当時ではまだまだ南米でも活躍できうる戦闘機などを仕入れ、当時の南米としては破格の軍力を得ている。
ただし、南米においてはブラジルなど様々な列強国がおり、彼らに勝るほどであったかというと不明である。
とはいえ、南米はお互いをライバル視しても殴り合いに発展することは殆ど無く、国内で起こるのはもっぱら内戦であり、ベネズエラも自らの国家を守るために手に入れた力をなぜか自分に向ける形で使うことが多かった。
1960年代まで何度も軍事クーデターが起こり、人間にたとえれば最新鋭の軍用ナイフでリストカットを繰り返すようなことをやっていたのである。
さて、話をイランに戻すが1943年のスタンバックとRDシェルの行動についてはすぐさまソ連、英国の双方が反応した。
特にチャーチルは激怒したが、当時仲介人としてスタンバックに指名された米国国務省はチャーチルに対してこのような主張を展開している。
「我々米国はイランにおける石油利権を求めないとの約束を与えたことなど1度もないので、同社の利権交渉を支持する――これは民間企業による国家との交渉事であり、英国政府の介入並びに、ソビエト連邦の介入は望ましくない――」
米国大統領からの発言ではなかったものの、これは紛れも無い米国政府の主張そのものであった。
国防省は南米での成功から様々な人材、物資を派遣していた。
南米においては欧州の蜘蛛の巣状の情報網と似たようなものを形成するレベルにCIAなどが活動しており、イランにおいても活動をしていた。
当然、スタンバックとRDシェルの秘密会談においてもこの手の諜報組織が大いに活躍し、その手引きをしていたわけである。
しかしながら英国とソ連はこれに対し、すぐさま行動を開始した。
もはや軍事行動を起こさねばどうにもならないと考えた双方は「ww2における重要な燃料物資補給地を防衛する」という目的で軍を派遣、RDシェルやスタンバックらの第三者的立場にある企業を締め出してしまう。
これこそが後にとある日本人が風穴を開けた際に米国が裏で支援していた理由なのだった。
この時、実は1943年~1945年に至るまでの間、イランは米国に対し事態の打開のための協力を求め、米国は様々な人材を表、裏を問わず送り出している。
米国はRDシェルやスタンバックらの主張から「正当な対価を支払っていない」ことを理由に自由競争化を強く求めたが、金もなけりゃ髪もない英国とチャーチルはそれを断固拒否、結果米国はイランにおける石油開発のためにあの手この手を駆使することになり、最終的にイランの石油国有化を先導した。
一方その頃の日本。
自由競争化という形で十二社が石油元売企業として指定されていたものの、米国政府とロックフェラー系企業は未だ諦めることができず、元売企業にそう簡単に石油を卸すことができないよう世界各国で圧力をかけていた。
結果日本国においては米国の粗悪な石油を高値で買わされるハメになり、数少ないスタンバックとRDシェルの石油はインフレによって高騰化。
これによって奮起したのが他でもない出光興産であった。
戦時中、様々な手を用いて石油を手に入れ、そしてそれを軍に販売し、戦後は米軍のタンカーの掃除などを行い社員を養っていた出光佐三。
彼がお手本に掲げたのは他でもないRDシェルである。
今日でも日本国政府での答申記録が残っているが、戦後日本が再び活動するにあたり、絶対に必要なのが石油供給体制であった。
それもRDシェルのように日本国が国家と交流し、その上で元売企業が採掘権を得て、精製までを一元化管理するという方法である。
そうでもなければボッタクリ値段によって粗悪な石油を押し付けられるばかりか、産油国や石油企業によって値段を振り回され、経済的に疲弊し、血を流さない戦争によって日本国民が飢えることを彼は理解しており、それを打開しなければならんと戦後発足した日本国政府に対し強く訴えていた。
しかしながらそのような打開策などなく、石油メジャーの体制にまずは風穴を開けなければどうにもならないということを理解する。
特に出光佐三が敵として認識していたのは他でもないBPと、ボッタクリ価格でヘドロ同然のモノをよこしてくる一部のスタンダードオイルだった。
「敵はメジャーじゃ!」とある映画作品で何度も彼は叫ぶが、何とかしてこの「採掘権」というものを確保できないか画策する。
その上で見出されたのが、1951年に石油国有化を主張してから行動を開始したイランであったわけだ。
その後の行動はwikiなどにも書いてあるとおりだが、ここに着目したのが他でもない「スタンバック」「米国政府(ACJ側)」「米国資本家」「RDシェル」「ロスチャイルド」といった面々である。
当時の記録を見てもらえばわかるが、出光はあまりにも敵側の情報の多くを獲得しすぎている。
単なる民間企業が、敵の布陣や機雷の位置などを細かく把握するなど通常は不可能。
これはどう見ても「敵であるはずの英国側に協力者がいた」のは間違いないが、出光佐三の自著を見てもそれを仄めかす話はいくつも出てくる。
英国が一筋縄ではなく、一枚岩でもないといったような表現でボカしてはいるが、各方面から情報を集めたというが戦後数年の日本においてここまでの情報を揃えられるなど、他に思惑が無い限りあるわけがなく、その裏では「なんとしてでもBPの牙城を崩す」という姿勢を持った組織がいくつもあり、それらの支援を受けていたわけである。
一応、判明しているのはACJが「正午報告に罰則などない」といった助言をしているのが判明しているが、他にもCIAなど多数が関与しているのは間違いなく、様々な情報を提供されていた。
特に国務省においてはその親玉がACJに名を連ねているわけであり、イラン国内での会談の手助けなど、様々なサポートを行っていたのは言うまでも無い。
そんな中で、本来なら敵陣に塩を送るような真似をしたのがRDシェルだった。
実はあの当時、海上封鎖される中で唯一英国艦隊を突破できるタンカーがあった。
それがRDシェルである。
イラクやオマーンにおいて採掘権を確保することに成功したRDシェルは、当然にしてイランを通過する形で各国とタンカーを行き来させていた。
この際、英国軍からはどこが危険地帯でどうなっているかといった情報はよく知らされ認知している。
かの出光佐三を題材にした映画でも謎の英国人がアドバイスを送っているが、これは間違いなくシェル石油もしくはRDシェルの者達によるものということは簡単に推測でき、出光興産は圧倒的情報力をもって突入していったわけである。
ただし、ただの素人ではいくら情報があっても軍の裏をかくということは不可能。
実は日章丸二世の船長は太平洋戦争にて輸送部隊を率いた猛者であり、しかも戦後まで輸送任務をこなしていたその道のベテランだったりする。
この組み合わせがあって初めて彼らはイランに突入する事に成功し、そして見事にやり遂げたわけである。
これによってBPは大ダメージを受けたのはwikiにも書いてあるが、実はその後どうなったかが日章丸事件についての話では書かれていない。
この後どうなったかというと、実はイランの石油国有化は失敗する。
ただし、前述のAICOの問題が取りざたされ、BPはそれまで所有していた採掘権のうちなんと6割もの割合を失うのだ。
これは各国の諜報組織などの努力によるものだが、イランがこうなった原因の全てはBPによる不当搾取が原因であり、このままこのような行動を行うと石油利益を上手く手に入れることに成功して軍拡を進めてどうなるかわからないなどと、まるでイラクの未来を予想したかのような形で自由競争化の運びとなり、
最終的にイランの採掘権についてはBPが40%、RDシェルが14%、残りの46%はスタンダードオイル系6社が8%の割合で獲得し、RDシェルとスタンバックの提言により「売上げベースでの利益5割」という形で修正されることになった。
石油国有化には失敗したが、結果的に出光佐三の活動によってRDシェルはイランにて採掘量ベースにて14%もの採掘権を得る運びとなり、そして最終的にはBPの失速などにより現在の28%という脅威の数字にまで成長していくことになる。
しかもRDシェルにおいてはイラン側から2割以上の石油採掘権を獲得してほしいという打診を行っていたりするあたり、いかに当時より公正取引を行っていたかが伺えるが、現在においては3割近くにまで達しているわけだ。
BPの採掘権は大幅に減退していることを考えたら凄まじいことである。
結局、一連の動きはOPECなどの設立にもつながったわけだが、OPEC設立はベネズエラ主導という形になっているものの、そのベネズエラは米国企業によって切り開かれたものなので、世界の石油は米国主導に近い形で管理されることになった。
ただし後に中東の勢力が強まると米国の支配力が弱り、石油価格が乱高下することになるわけだが。
また、日本国においては前述する自由競争化の理念が強まると共にスタンダードオイル系の支配力が弱まり(欧州系の締め付けが弱まって中東やアフリカで独立が相次いだことも影響して)石油関係においてある程度安定供給ができる体制が整っていく。
戦後から10年も経たない中で当時最高峰のタンカーを日本国で建造し、ありとあらゆる組織にある意味で転がされるような状況の中でも必死に戦った出光興産には賞賛を送りたい。