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日本においては何の成果も得られないまま過ぎ去った4年間の後の激変

日本国における戦後政策は結局メインで戦った米国主導のものだった。

前回の話で触れたとおり、米国企業ですら1949年に至るまでなんら対策が行えなかったように、英国においてはチャーチルの後任であるアトリーのやる気の無さも影響し、殆ど発言権など無いに等しいものだった。


特にRDシェルにとってアトリーはチャーチルと並ぶ無能男の代表格である。

当時、チャーチルを倒して政権を奪取したアトリーだったが、彼が行った政策は石油関係においてはチャーチルとさほど変わらない。


彼はチャーチルやムッソリーニなどとは異なり反共主義者ではなかった。

建前上民主主義と資本主義を掲げてはいたが、実際には福祉国家と称して共産主義に近い思想を英国に導入していった。


そこで発生したのが「大企業の国営化」である。

BPなど、元より国営企業として成立していた企業に税的な緩和措置を講じつつ、資本を持つ企業からは税を大量に搾取し、その分を民衆に分配するという今日の民主主義、資本主義国家でもその思想は一部導入されているが、事実上の国営企業を多数生んでまで行ったのはこの当時英国だけであった。


元よりRDシェルを味方につける気はなかったアトリーはRDシェルを冷遇し、圧力をかけたもののRDシェル自体にはそこまで大きなダメージとはならなかった。


理由は簡単である。

当時英国が抱えていた対独立戦争とも言うべき紛争においてRDシェルは表向き中立の立場をとったが、その一方で実態としては「事実上の独立側」に陣取っており、パトロンだったからだ。


中東、アジア、アフリカ諸国。

このすべてにおいてRDシェルは正当な方法で企業経営を行い、その上でそれらの国はRDシェルの姿勢を尊重しつつ利用するという持ちつ持たれつの状況を継続した。


アトリーは結局1950年に再びチャーチルにその席を奪われる間にいくつもの国家の独立を許すことになったが、実は当時「国営企業化」に反対の姿勢を持つ企業たちは少なからず存在し、RDシェルのように国家に対して反故するような行動をとっている。


有名なのがトライアンフなどである。

今日の日本が「まずはトライアンフを追え」となった要因の1つが、戦後すぐの日本に対して二輪車を輸出するという行為があったためである。


信じられないだろうが、これには理由がある。

一部の二輪研究者が知っているが、トライアンフには日本人のテストドライバーがおり、日本の二輪需要について理解があった。(ライジングサンと真逆の状態)


これらの件と日本への経済的理解から「彼らは十分顧客となりうる」ということで、1947年には日本に対して輸出を行っていくのである。


状況を見てみると、当時のトライアンフは軍用を改良しただけのモノか戦前に生産していたものばかりであり、これを市販するということは再軍備などを考えると非常に怖いがイギリスでの販売は話にならない。

かといって米国にはハーレー、独国にはBMWがある。


となると一番販売しやすく、経済的に成金がまだいた日本の方が「売れる!」となるかもしれなかった。

しかもトライアンフが得意とするのはハーレーなどと比較すれば小型の「軽量高性能を突き詰めた」バイク。

同じ左側通行に合わせた設計なのもあり、これはまさしく「日本の道路事情」と合致していた。


戦前はさておき、戦後の日本においてハーレーよりもBMWよりも先じて日本にて代理店までこさえて正規で輸入されたのがトライアンフだからこそ、本田総一郎などが回想録にて最初のライバルとしてトライアンフを掲げるわけだ。


特に川崎重工が開発した最初の頃のバイクはこのトライアンフの劣化コピー品ともいうべき存在であり、かの有名な「カワサキか……」に代表されるような酷い代物であったのは有名な話。

それが今日は「トライアンフか……」となっていて、世界で最も高品質な大型バイクを作るメーカーというと「川崎」と言われだしたのがつい最近である。


これは余談だが、2017年度において川崎の国内の大型バイクの売り上げは凄まじいものがあった。

今の時代に「1つの車種において2000台も売る」というのは極めて難しいのだが、Z1000でそれを達成し、そして今年はZ900RSでほぼ達成確実という状況にある。(Z900RSは2500台を目標としているが2000台は余裕そうである)


理由は製品品質がもはやトップクラスだからというのは言うまでも無く、この間の川崎プラザとホンダドリームのニュースにおいて川崎の広報が「今の時代の若い人は品質がいいものなら高くても購入してくれる」に代表される、若手に最も評価されるメーカーとして今や不動の地位を獲得しているが、この当時のカワサキなんて「つい最近まで航空機は作っていたのですが……」程度のメーカーであった。


ちなみにイギリスの対日占領軍もまたトライアンフを軍事用として利用していたが、彼らは四国と中国地方で展開していた。


そして整備は航空機などとは異なり陸上用のものでかつ非武装のものについては現地の民間企業などを利用していた。


四国と中国地方のバイク屋がなぜかトライアンフを割と当たり前に整備できる理由はこれであり、四国と中国地方に意外にも大規模なバイク屋があるのもこの時の影響がそのまま現代まで繋がっているからだったりする。


このトライアンフの戦後日本への供給にアトリーなどは歯軋りしたい状況があったものの、結果的にそれを封じる手立てなどなく、これらの一連の日本国に輸入されてきたバイクを整備していたメーカーが新興メーカーとして大量に発生し、そして1960年あたりまでの間に大量に淘汰され、カワサキ、ヤマハ、ホンダ、スズキなどを含めた会社に集約されていくわけである。


話を石油企業に戻すが、トライアンフなどが輸入される一方で当の日本のガソリン状況においては戦後と殆ど変わらない状況にあった。


GHQ自体は戦時統制時代を解消しようと出光など、当時は販売店としてでしか活動できなかった企業の制約を取り払い、純粋日本国企業が活動できるよう調整は行った一方、元売については厳しく規制を行ったため、後に出光興産の創業者が中東に戦いに赴くことになるほどである。


RDシェルもといライジングサン(1948年8月よりシェルと改名)などの売り上げを理解していたGHQは、ロックフェラー系のスタンダードオイルの売り上げを伸ばす方向性に持っていけば米国が被った負債の補填になると考えた。


そのため、それまでの元売企業の強烈な拘束を行った一方でスタンバックすら締め付けて他のスタンダードオイル系元売メーカーからの供給を行わせようとしたのだ。


これにはさすがのRDシェルも激怒し、米国に何度も不服申し立てを行っている。

特に米国はインドネシア諸島産の石油を「粗悪品」と称して締め出そうと画策したが、それについては「質が悪いのではなく構成する成分が異なるだけだ」と反論を行っている。


米国が粗悪品と証したのは米国産とインドネシア諸島産で同じ量の原油を精製すると米国産の方が多くのガソリンを取れるからということだったが、それは単純にアジアの原油内の水分が多すぎたからであり、


精製される石油品質が米国に劣るということはなかった。(原油輸送においては確かにこの特性は不利であったが、当時すでに現地で精製してから輸出する体制が基本となっていたRDシェルにとってこれは特段問題となるようなものではなかった)


それをそのまま答申していたが、結局これらについてRDシェルはなんら成果を出すことが出来ず苦しむことになる。


そんな状況がすべて覆ったのが1949年2月。

そう、前回も触れたあの例の土壇場でメンバーが総入れ替えとなり、ACJのメンバーだけで構成された使節団の登場によってであった。


前回も触れたとおり、ACJとは米国企業連合体であり、錚々たる面子で構成されている。

しかし前回触れた通りであるが彼らは「燃料資源や原材料なんざ安く手に入れてナンボだろ」という企業だけで構成されており、ロックフェラーの息など微塵もかかっていない。


また反マッカーサーとも言えるメンバーで構成されていたため、米国政府(トルーマンはACJに加担しており、ここでは議会の連中を主に指す)の考えなども一切覆す目的できていた彼らはちゃぶ台をひっくり返さんばかりの行動を起こしていくのである。


まず使節団はGHQの供給体制が「日本の本来需要の75%に留まっている」ことを問題視、

すぐさま「供給量を上げるため、全面的な民営化を行う」と凄まじい舵取りを行うようになった。


実は民営化自体は強烈な圧力をかけられたマッカーサーが1948年11月より渋々行っていたが、1949年に入ってその方向性は「元売の配給はしばらく継続するが全面的な自由競争へと転換」という「戦後統治政策とは何なのか」といわんばかりのものである。(この時、ドイツもイタリアもこのような政策は行われていない)


この背景には当然、日本国で展開する米国企業にとって「需要を満たさない」ことによる石油価格のインフレはそのまま売上に対する利益を圧迫するのであり、無論「原材料は安ければ安いほど良い」ので、燃料として、また当時すでに製造が始まっていたプラスチックなどの一連の石油製品などを作る上でも石油価格を下落させることは必要不可欠だからこそこのような強烈な手法をとったのだ。


RDシェルもといすでに1949年時点でシェル石油となっていたシェルは、

この流れについて「何があったのか理解できない」としつつも、ACJは元よりスタンバックよりもRDシェルを評価していたこともあり、「スタンバックとの価格競争」を好意的に受け止めていたことから「RDシェルもといシェルは元売企業として国内需要を満たすよう努力することと」と、


信じられないことに「日本政府宛連合軍最高司令部発本日附指令」の附則の中に明記されてしまうような状態となった。


当然これは「いいから早く供給しろよ。石油足りないんだよってか高いんだよ。あくしろ!」という米国企業連合体らの私情が大いに影響するものであったが、RDシェルにとってはまたとない機会であるため、「いいんだな?スタンバックなんか締め出す勢いで供給するぞ」と奮起することになった。


ACJによるこの一連の活動は、これまでに書いた内容だけを日付を無視して見ると「どう考えても米国の利益にならない日本の開放をしただけ」に見える。


しかし1949年4月。

この日付を見てもらえば一目瞭然。

ACJはこの後に起こる朝鮮半島における戦争をまるで予期していたのかのごとく、日本を「たった1年」で大きく経済的に押し上げるのである。


前回においてACJは「輸送インフラ」を含めた総合的なインフラ政策を朝鮮戦争前に大きく転換し、朝鮮戦争半年前にすべての状況を整えさせたと説明したが、これには当然「石油関係事業」も含まれている。


それがどれだけ恐ろしいものであったか説明しよう。

戦後、石油事業統制のせいで戦前に2300店舗あった石油販売店(もとい販売企業)は800店舗に激減したが、1949年1月の時点では2100店舗に復活。


それが1949年末の状態で、石油販売店は4300を軽くオーバーする状況となっていた。

日本全国で石油を販売する小売企業がわずか半年で倍増したのだ。

1949年1月~1949年12月というのはまさに「日本が今日のような資本国家へと」1年で体制が復活した時期と断言できる。


ありとあらゆる部分においてこんな状況が発生していたわけである。


これには「そういう企業に出資する」というACJによる活動によるものだが、RDシェルもといシェルは元売のため、自社の販売店の拡充とともに販売店が増えて石油を卸す所が増えればそれがそのまま利益になるので、嬉しい悲鳴をあげた。


ただし、あまりに突然日本国内にて石油需要が増したため、苦しい悲鳴でもあった。(供給不足に陥った)


ちなみに余談だが、英国の対日占領軍はBPが石油やガソリンを供給していたが、進駐軍でもオーストラリア軍などにおいてはシェルが供給していた。


オーストラリア軍は米国や英国より購入したP-51やスピットファイアなどをこさえていたが、BPは未だにオクタン価100を精製できなかったため、性能では英国の対日占領軍よりも高いものを所有していたりする。


ただし対日占領軍はすぐさまジェット戦闘機に機種転換していったため、そこまで問題視はされなかった。


BPにおいて一番の問題はこの1949年の石油関係事業改変の際、「アトリーの姿勢が嫌われてBPが事実上日本国より締め出された」事にある。


BPは「べ、べつに大した損失じゃないし!」と表向き強がってはいたが、GHQによる戦後処理においてRDシェルがどれだけ稼いでいたかを理解していたBPはその裏では尋常ではない機械的損失であることを認知していた。


さて、前述する石油事業の自由競争化の指令においてはまず石油元売企業が10社設定された。

スタンバック、シェル、日本石油を筆頭に、昭和石油、カルテックス、日本鉱業、三菱、ゼネラル、出光、日本魚網船具である。


彼らは産油国から自由に購入して国内に配給できることとなり、あとは「供給元さえあれば」自由に販売していける状態であり、精製なども許されたメーカーである。


なぜ10社のみ許諾されたかというと「この指令は日本の石油需要を満たすために行うため、日本政府が公的資金を注入するので、資本体系的に弱小すぎる企業を元売として認定して破綻されると困るから」である。

よって別段企業の参入を妨害する意図はない。


そのため、2回に分けて審査を行い、最初の審査を通らず資本金や経営体力に不足があると判定された企業は2回目の審査の間に銀行などと相談して体制を立て直すことで新たに元売企業として設定される余地を残した。


その結果、8月に新たに丸善石油、興亜石油、大協石油が認められたが、興亜石油は当初こそ元売企業として設定されるために努力していたものの内紛が発生したために辞退し、最終的に12社が元売企業となっている。


そんな12社であるが、その中でやはり注目すべきというか有名なのが出光興産である。

出光佐三は1949年5月の段階で米国の投資家やACJと接触を試み、その上で「なんでもいいからタンカーが欲しい」と貸与を求めていた。


しかし最終的に「日本の造船業は死んでおらん」と周囲から説得され、かの有名な「日章丸二世」を建造することになるのである。


米国のタンカーを借り受ける傍ら、日章丸二世という英国と戦うことになる世界最大級のタンカーを建造しはじめたのもまた1949年のこと。


まさに激動の1年である。


一方、その出光佐三は次回説明する状況からはらわた煮えくり返る状況となっていた。

日本の石油需要を満たすためにスタンダードオイル系やとある企業が日本の自由競争を踏みにじろうとする状況に「敵はメジャーじゃ!」と叫んであの有名な事件を起こすわけである。


実はそこにRDシェルも違う形で関与していた。

日本における石油需要がうなぎの登りのごとく増す状況に供給体制が追いつかなかったシェル石油。


そんなシェル石油はACJのメンバーが評価するように、当時の日本としては数少ない品質のいい石油を供給し続けていた――

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