日本を経済停滞させようとするGHQとその影でうごめき出すインドネシア諸島
1945年10月
RDシェルもといライジングサンにとっては屈辱的とも言える時期である。
進駐軍として舞い降りたGHQが手始めに行ったのは日本国内における石油事業の統制だった。
それは「統制」ではなく事実上の「規制」であり、10月13日に提出された「日本の石油製品に関する覚書」 と「製油所に関する覚書」により、ライジングサンは石油精製を事実上停止させられる。
覚書の内容は表向き「石油はしかるべき場所に配給されるよう勤めなければならない」と書かれていたものの、その一方では「備蓄の禁止」や「備蓄したものを使い切る」など、ハッキリ言えば「日本から石油を根こそぎ吸いだそうとする」行為をマッカーサーは平然と行ったのである。
これは当然、前作で触れたとおり当初のGHQは「日本を江戸時代にまで退化させる」ことが目的だからであり、スターリンをして「ww1から何も学んでいない」と早急に日本列島をソ連ないし共産党圏内に入れ込もうと画策させる原動力となった。
実はこの間、RDシェルにとってはもう1つの懸案事項があった。
それはインドネシア諸島で勃発した動乱である。
8月15日に終戦したその日以降、インドネシアでは独立運動が加速する。
17日にはインドネシア諸島では敗戦国である日本人の軍首脳部も交えて会議が開催されていた。
それは「この状態においてはもはやインドネシアが独立を宣言し、独自に行動しなければならない」といった内容で、日本の陸軍首脳部に対して陸軍首脳部がそれまでコツコツと作っていた法律関係の草案を提出してもらい、それを基に国としての地盤を固めようとしたのだった。
そのまま17日の正午にはインドネシアは「インドネシア連邦共和国」として独立を宣言し、領有権を主張するオランダと英国から真っ向から対立した。
しかしである。
RDシェルはこの状態において信じられないことに「中立(事実上のインドネシア連邦共和国側)」という立場を固持していたのだった。
そして信じられないことにインドネシア連邦共和国側もRDシェルもといライジングサンがもつ油田、石油精製所などについて占領する事はなく、引き続き業務を続けても良いと主張した。
これには当然、RDシェルのこれまでの活動手法が評価されていたからである。
首脳陣は英国人で、1945年8月の時点でも未だ横浜を拠点に活動するライジングサン。
彼らは元々インドネシア諸島での活動においては現地法人を立ち上げ、現地の人間を教育して企業活動を行っていた。
よってインドネシア諸島の石油精製所や油田は現地の者たちによって運営されていたため、特段反抗的な目が向けられるようなことはなかった。
その上で「石油は買うという奴らに売る」という姿勢をとりつつも、売り上げの4割をインドネシア側に落としていたのである。
インドネシア連邦共和国側がこの状況においてライジングサンに要求したのは下記の2つであった。
1.現在の売り上げ金の4割の比率を5割にしつつ、オランダ領としての東インド政府に流すのではなく「インドネシア連邦共和国」に対して支払うようにすること。(外貨獲得が狙い)
2.売上金の一部を返上する(3割分)ので、精製された石油製品をインドネシア連邦共和国の人民治安軍に降ろすこと。
インドネシア連邦共和国が独立に成功した背景にはRDシェルが大きく関与している。
ライジングサンを通してRDシェルが行ったことは、売り上げの5割を事実上のオランダ領としてのインドネシア諸島の管轄組織に卸すのを止め、早々にインドネシア連邦共和国に対してのパトロンとなることだった。
オランダとイギリスの合併企業が、本国であるオランダに反抗するかのような形である。
しかしこのような活動を行った背景には英国などによる連合国側の欧州諸国の石油関連の未払い問題が影響していた。
後にドイツと日本国の占領政策が変わるほど影響のあった欧州の連合国達による各種未払い問題。
米国政府や米国企業、そして英国企業は「ヨーロッパを助けるために物資は供給したが、別にタダでくれてやったわけじゃない」とあくまで「ツケ」の状態で石油製品などを卸していた。(後に一部棚上げすることになるが、基本的に棚上げなど許すようなことはこの時点では考えていない)
しかし頭が紅茶で満たされたアトリーはこれを「戦時処理」として特別法を制定してまで踏み倒そうと画策する。
そのような行動をされた場合のRDシェルのダメージが計り知れないが、チャーチルの後任であるアトリーはこの期に及んで「BPさえあればどうにでもなる」などと考えていた。
その原因の1つには「どうせ日本も未払いだろ?」といったような勝手な勘違いがあったのだが、実は日本国は戦時中もライジングサンを通して正当な対価をライジングサンに支払っていたのであった。
8月下旬の今現在において英国のRDシェル本社に売り上げ金が流れてこない原因はGHQもといマッカーサーによる国際送金の停止によるものであり、日本国内には未だに日本国にある工業を主体とした企業による石油製品の売り上げ資金が毎月のように貯蓄される状況にあった。
戦時中においてもそのような状態であったライジングサンは1945年8月15日の段階で日本の外資系としては屈指というか、国外出資企業としては1位の資本力を持つのは以前も説明した通りであるが、日本国民がいかにまじめであったかを現すエピソードである。
よってライジングサンにとっての顧客とは「日本」を含めた周辺国であり、「英国」などという金を払わないような国ではなかった。
だからこそ、英国やオランダに対し反旗を翻すような行動を起こしたのである。
インドネシアについては一見するとマイナスであるが、元々この売り上げ金の4割というは採掘権に対する対価として設定されたものであり、現地人などとも協議して生まれたものである。
インドネシア連邦共和国政府の要求によって少々この負担金が増えた一方で、一部を返上してもらう代わりに石油を卸すというのは「トータルで見れば十分プラスでった。」
これは売り上げ金はRDシェルが付加価値などを付けて販売した売上金のため、それを返上する代わりに一定量の精製された石油製品を卸す場合、付加価値分を算定しなくて済むので実質的には負担金が従来と同じかそれ以下に減っていたからである。
インドネシア政府はこの採掘権に対する利益によって軍備を整える傍ら、その軍事力に必要な燃料も同時に整えるという今日のインドネシア周辺のフィリピンなどでも行われている手法によってオランダや英国による奪還に対して大きな反抗力を持つことになるのだった。
実はそれだけではなかったりする。
wikiなどでも触れられている通り、実はインドネシア独立戦争においてパトロンとして活動していたものの中に「ロスチャイルド家」の存在があった。(RDシェルとはまた別途に活動)
オランダにも展開する名家の1つが、事実上のオランダの王族に対して反抗するような形になるわけだが、その理由としては割と単純で「本当はもっと経済的に発展していい拠点になるはずが、長年の搾取によって停滞したから」という経済を発展させつつその利益の一部を享受して絶大なる権力と資産を確保するロスチャイルド家らしい思想と手法によるものだった。
そしてこのロスチャイルド家の参戦は「国際世論をよりロスチャイルド家が考えた形に優位な展開のものとさせる」という事へと繋がるのである。
彼らは日本の陸軍も関与した欧州の情報網を巧みに利用して情報戦を展開しつつ、持ち前の政治力を武器に国際世論の誘導を試み、そして成功したのだった。
また、それだけでなくドイツが敗戦したことで再び手元に戻ってきたロスチャイルド家が持つトルコの重工業地帯を利用してインドネシア諸島の軍備を補助しようと画策する。
この件で当初イギリス軍による占領行為があった一方、早々にイギリス軍が手を引いた要因の1つに「このトルコの重工業地帯においてドイツから事実用供与されたに等しいドイツ製兵器の製造技術を利用したものを大量生産し、その上で別名がタンカー王であもあるRDシェルを利用してそれらを多数持ち込むことが可能なロスチャイルド家に迂闊に手を出すとどうなるかわからない」といった部分があり、
アトリーはこの問題で頭を抱えることになった。
このあたりは米国の企業連合体と類似する話である。
結局彼らは「真の意味で儲けるためには平気で国がダメージを受けるような行動も厭わない」といった部分があり、そしてそれが結果的に「最終的な状況をみるとその方が国益となっている」ような状態となることが多い。
この一連の独立運動の成功が中東にも波及し、そしてその中東においても同様の活動をロスチャイルド家が行ったことによりBPが大ダメージを受けるのだがそれはまた別の話。
インドネシア諸島がそのような「RDシェルにとってはある意味で冷戦に近いような構図」になった一方、RDシェル自体は日本国でどういう活動をすべきか決めかねていた。
原因はなぜか米国に支配され、コントロールされた現在の状況にあり、「このまま米国主導で制御されるのはよろしくない」ということで英国にて行動を開始する。
RDシェルとしては占領政策に断固として介入したかったものの、現在の日本の立場はそれらを簡単に許さない状況だった。
それについては次回説明する。