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番外編4 鉄道省とRDシェル(ロスチャイルド)、そして鉄道の発展。

日本国において鉄道がどう発展したかという事についてなろうではあまり知られていない部分がある。

動画配信サイトなどでは解説されているが、鉄道の始まりは3つの方向性からである。


1つは「儲かると聞いたので開業してみた」

2つ目は「地元を発展させるためにと地元の富豪などが資金を出し合った」

最後の1つは「国のためにインフラとして絶対に必要なルートに配置した」


日本の鉄道はこれらによって成り立っており、

例えば「JRの路線に平行する私鉄」というのは上記1つ目か2つ目がそのまま私鉄として残ったケースが多い。

例えば九州の西鉄などは上記2つが組み合わさって形成された鉄道会社であり、特に1つ目においては経営者の能力不足から経営が上手く成り立たず、その一方でその路線自体には有用性があるということから2つ目を中心に発展した鉄道会社に吸収されるというケースが相次いだ。


また、1つ目のケースにおいては元は「旅客」を考慮していない貨物路線がいつの間にか旅客になり、今日では「運ぶ貨物(主に石炭や銅)」を運ぶ需要が消滅し、旅客路線としてそのまま生き残っているパターンもある。


面白いのが関西地方で、平行する3つの路線が上記3つの理由で成り立っているなんていう事があり、最初に官営の東海道線が開業した後、その次に2つ目の理由の路線が開業。それでも需要があると見込んで1つ目の理由による路線が開業という状態になった区間がある。


大阪~神戸間などがそれに当てはまる。


特に興味深いのは、この路線の中で1つだけ「当初より電車を走らせる電鉄として開業した阪神電鉄」であり、阪神電鉄においては当初から電車で高速化を目指すというような事が行われていた。


そして後に当時の国鉄が大きく影響したのが、戦時下における電車の有用性であり、戦時中に阪神電鉄が何をしていたのかというと「その能力を生かして航空機のパーツを輸送する」という形で旅客の不足分を補いつつ、あの空爆の中でもダイヤも守り続けるという私鉄の中でも極めて注目度の高い偉業を成したのである。


1944年の頃に国鉄が山陽本線電化の計画について完全否定せず多少前向きの姿勢があったのも、阪神電鉄の影響が多分にあり、また山陽本線電化計画を海軍が打ち立てた最大の根拠こそがこの会社の存在であった。


阪神電鉄の場合は「変電所を地下に埋める」などさまざまな方法で空爆を回避することによってそれまで常識化していた「電車は変電所を破壊されたら終わり」という概念を打ち崩しており、むしろ「緊急時は何らかの方法で電気させ生み出せればどうにかなる」というあの状況においてむしろ電車の方が他の存在より優れているということを証明したのである。


他にも当時すでに京急なども電車を運行していたわけであるし、東急などの存在もあったわけだが、

当時の日本政府もこういった根拠を例に山陽本線電化を目指す海軍の動きを否定できず、その結果戦後の国鉄のあり方を決定付けることとなった。


ここでどうでもいい余談だが、戦時中の新聞を調べると関東では「阪急電鉄」と「阪神電鉄」の見分けがつかないのか、やたら間違って説明される事が多い。


阪神電鉄は飛行機のパーツを輸送はしていたが、飛行場が駅の近くにあるということはなく、それは阪急電鉄の話であるのだが、それらがごっちゃ混ぜで説明されることが多々あり、もっとちゃんと調べろ関東の新聞社と言いたくなるような記事が大量にある。


よくその記事の内容を見てみないと「阪神」と書かれているが「阪急に対する記事」だったりするから注意が必要だ。

それもその間違いはその路線についてある程度知ってなければ騙されるような書き方なので、本当に困る。


さて、一方でその国鉄こと鉄道省自体は明治の頃より何度も国外からの出資を募っては鉄道路線をこさえてきた歴史があるが、高橋是清内閣成立後はそれを国債などの形で賄うようになった。


そして出資と国債を大量に購入していたのがロスチャイルド家やRDシェルの面々であり、それは東海道新幹線開業時どころか今日にまで続いているわけだから、RDシェルとロスチャイルド家と日本国はそれなりの関係性があることがよくわかるだろう。


そんなロスチャイルド家であるが、日本の鉄道省が鉄道路線を敷く方法について興味をもっている部分があった。

それは「一部地域はやたらと戦時下の状況について意識した路線作りをしているな」ということで、地域ごとにそういった差異のある点について調べていたりする。


戦時下を意識した路線作りとは何かというと、主に九州地方、つまり今日のJR九州の路線がそうである。

地元の年寄りなら知っているが、例えば肥薩線は旧鹿児島本線である。


この肥薩線がどこを走るかというと「山奥」であり、球磨川などと平行してひたすら川を上り、山を越える路線だ。

これが実は本来の鹿児島本線であったわけだが、なんでこんな山奥に路線があるかというと、長州や薩摩藩などの影響によるものである。


彼らは明治より前、江戸時代にはすでに英国や米国を脅威として認識しており、薩摩藩においては実際に英国と戦闘があった。

それら以外にも国外の欧州の連中から攻撃されることもしばしばあり、「海岸線沿いに鉄道を敷けば破壊されて無意味と化す」ということから、「無駄に運用コストが増大する」とわかっていても山側に路線を建設したのだ。


九州で海岸側を走る本線とは別に並行して山側を走る路線があるのはこのためだが、関東の中央本線も似たような理由も含めて建設されており、また東海道本線に平行するような形で存在する路線なども同様の理由のもの。


特に肥薩線における矢岳については「当事の欧州や欧米の鉄道建設の専門家ですら不可能と言い切った」区間をあの手この手で日本だけの力で建造しており、この通称「矢岳越え」という区間においては様々なエピソードが残っている。


鉄道省をして「碓氷と矢岳などを建造できたことが我が国が英国や米国に鉄道技術で追い付く原動力となった」と言わしめるほど建設が難航した区間であった。


実はその肥薩線であるが、この区間においてはライジングサンの石油を運搬してたりする。

そのためRDシェルとも無関係ではない区間である。


この区間においてはD51の中では最強クラスのパワー性能を持つ形で魔改造されたD51こと通称「肥薩スペシャル」という化け物が投入されているが、その化け物が運んでいたのは石炭だけではなく石油なども存在したわけである。(現在、人吉の駅に保存されているのがその肥薩スペシャルであり、恐ろしいことに1980年代後半まで運用されていた)


前に二両の二重連、後ろに一両の三両を用いなければまともに上れない急な斜面を、当事は通信機器も電気通信による同調運転もない中、文字通り「暗雲の呼吸」でもって走らせており、機関車乗りの中でもスペシャリスト中のスペシャリストだけがこの区間を運行できたといわれているが、この肥薩スペシャルは重油噴射装置を搭載しており、その重油自体がライジングサンのものを利用したりしている。


そしてこの区間の電化が遅れた最大の原因が「肥薩スペシャルが高性能すぎる」ことと、「他に代替できる機関車がなかった」とDD51が出るまで肥薩スペシャルのD51に勝てるパワーを持った機関車がなかったことが起因しており、


最終的に電化されないまま今日にまで至ってしまった。

電化されなかった理由は鹿児島本線が出来たからだと思っている人間が多いが、実は肥薩線自体はずっと電化も検討されていた区間であり、電車や電気機関車を投入することもずっと考えていたのだが、技術が追い付かず「貨物運用の需要が減って」はじめて切り替えたぐらいなのである。


ちなみにDD51が出ても尚、貨物を運搬する上ではDD51ではパワー不足だったため、D51との混成接続された状態で輸送するという状態がしばらく続いていたりした。


戦時中、こういった山奥に隠れた路線は特に強かった。

米国は終戦まで九州地方の山奥にある路線の状態は全く把握できていなかったので、石油輸送においてはこの手の路線が大活躍し、戦時中の写真になると肥薩スペシャルが運ぶのは石炭や石油、そして薪といった燃料資源ばかりである。


実は元々この区間においては「貨物列車に一両か二両旅客用の客車をつけて貨物列車として運行する」ということが基本運用とされていたが、軍の要人などを運んだりもしていた。


そのためいくつかの写真では黄色いホタテのマークを確認することが出来るのと、妙に高級そうな客車が1両か2両ついているということが確認できたりする。


こうやって石油は全国各地に運ばれていったわけである。

そんな肥薩線であるが、1990年代になると一気に需要が減り、一時期廃線も検討された。

「矢岳」はここ最近話題の「秘境駅」のような扱いにもなり、非常に寂れていたこともあった。


しかしJR九州は大昔の先人より「本線は湾岸に作ってはならぬ」という意志を継いでおり、「局地的災害などが発生しても予備の路線が必要」ということの重要性を認識していたため、なんとしてでも路線を保たせる義務を感じていた。


そこで生まれた考えこそ「観光列車」である。

JR九州の各地を結ぶ観光列車。

今日では水戸岡鋭治の名と共に有名になってはいるが、当時は本当に「生きるか死ぬか」の戦いであり、水戸岡鋭治と組む前の段階でこういった九州の過疎路線でJR九州は観光列車を走らせていた。


つまり観光列車というのは「儲かるからやった」のではなく「廃線にするか生きるかの瀬戸際において地元の地域振興もかねてなんとしてでも保たせたい路線」の維持のために行った苦肉の策なわけである。


だからこそ観光列車はやたら妙な区間ばかり走るのであり、その区間の駅では地元の人間が必死で盛り上げようとしている姿が垣間見れる。


興味がある方は矢岳駅に向かってみて欲しいが、あんな過疎地域の地元の人があそこまで客をもてなそうとする駅も珍しく、秘境駅をレポートし続けた著名な人物の言葉を借りれば「秘境駅ではなくなったが、JR九州と地元の覚悟を感じ取れる」というような状況にある。


ちなみに、超高級ブルートレインである七つ星が矢岳に向かうのも肥薩線を潰したくないからであり、その肥薩線に蒸気機関車を走らせているのも同様の理由である。


日本三台車窓と言われるほど美しい景色が見られる矢岳であるが、三大車窓のうち1つはすでに廃線になっており現在は二大車窓になっている。

今後もこの車窓を保つためにもJR九州は今日も矢岳に観光列車を走らせるのだ。


ただ、厳しい状況に立たされているのは事実であり、かつては特急くまがわ→いさぶろう・しんぺい→はやとの風という熊本→鹿児島間の経路があったのだが、現在はくまがわが廃止されたため、熊本から乗り継ぐ方法がなくなっていたりする。


いさぶろう・しんぺいという矢岳越えの観光列車自体は非常に人気があるものの、各地の観光列車増大はJRの需要を食うことになっており、何とも言いがたい状況にある。


観光列車を投入する鉄道会社もまたその区間においては苦しい経営状況に立たされており否定はできないのだが、JR北海道とは違い、どうにかがんばっているJR九州にはもっと注目が集まってもいいだろう。


最後に余談だが、肥薩線は終戦してまもなく、鹿児島本線の代わりに熊本へ復員する人間を運んでいたが、あまりにも人が多く乗って過積載の状態となり、肥薩スペシャルのD51が逆走して大事故を起こして大多数の死傷者を出しており、その慰霊碑があったりする。


戦地から必死の思いで戻ってきた人らに起こった悲劇であるが、観光列車においてはその話をするだけでなく事故が起こった日やお盆の日においては慰霊碑の前で停車することもあり、それらを忘れないためにも運行しているという側面があったりする。


JR九州にとって肥薩線などの各種路線は正の面も負の面も持った存在であるというわけだ。

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