番外編3 全体の計画が壮大すぎた上に完全な失敗だった松根油製造計画がもたらしたもの
松根油という存在がある。
なろうの小説を見ると
「これで木から燃料が作れるんだぜ!(ドヤ」
「すごーい」
なんてことをこれを利用してやっている者がいるが、基本的に人造石油関係では「完全な失敗」とされている技術である。
当時海軍工廠では周囲から「錬金術か何かの類か?」といったような試みがいくつも試されていた。
日本人は当時から「化学」というものに疎く、
特に政治家においては「水から石油が作れる!」などというどう考えても当時からしてありえないことを主張する人間を迎え入れて燃料関係の開発部を新たに造り起こすなど、酷い有様である。
この人間は何の化学的根拠も示さずに徳山工廠に訪れて、海軍の貴重な予算を湯水のように使った詐欺師であり、「水から石油は、作れまぁす」だとかどこかで聞いたフレーズを用いながらも結局上手くいかずに研究途中で病気を理由に失踪し、そのまま海軍からは一度追い出された人間だったのだが
その巧みな話術によって、この時獲得した人脈を用いて政治家と取引し、再び予算を獲得してそのようなことをやり、最終的に詐欺師として逮捕されていたりする。
これは、2度も海軍が騙されたという有名なエピソードであり、実はこの時書かれた資料では「陸軍は上層部すらスタンダードオイルの技術者と対話し、そのような詐欺師の一切を排除していた」と、何気に海軍と陸軍の差を顕著に表す一言があったりするが、本稿では松根油にも間接的につながる話なのでそれについて少し触れてみようと思う。
この男の名は本多維富。
当時の首相まで巻き込んで「水からガソリンが作れる」などと主張していたが、なんら特許などを獲得することなく、普通に考えたら「ここ数年話題になってる詐欺師っぽい連中をミックスさせたような」人物である。
彼がやったことは、前回の教訓から徹底的に管理された上で海軍上層部が見守る中での実験において、謎の機器を用いて蒸留の真似事を行い、「ガソリンが出来ました!」といってガソリンの瓶を堂々と見せつけ、そのガソリンの瓶が「コッソリと別のものに入れ替えていたものを提出した」ことが即判明、見事に「金と莫大な機会的損失を国と海軍が蒙る」という、
「まるで理化学研究所の話のようだな」と思わんばかりの失態を犯したのだった。
ちなみに彼も「200回以上の実験に成功した」とか言ってたんだが、愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶをまさに組織が理解しなければならない事象だったかもしれない。
当然この人間は警察に捕まり、極刑に処されたのだが、昔から日本と悪意ある日本人という存在は変わらないなと思わせると同時に、海軍の燃料関係の資料では「このような詐欺の対応に苦慮した」というエピソードが数多く残っている。
そのような詐欺が横行した原因については、海軍が「油田または人造石油製造方法を発見したる者に莫大な報奨金を出す」といったようなことを行っていたからである。
石炭からの人造石油の精製に成功した海軍。
実は当時海軍の工廠においては性善説を利用した上でインセンティブを用いた「技術者の引き抜き」に熱心であった。
金で釣って技術者と技術を獲得するのである。
実際には東芝の社員のように「冷ややかな目線を送りつつ自社でガスタービンエンジンを作っていた」なんて事例があるように、それらは決して上手く行っていたわけではない。
むしろこの手の「稼げる!」と聞いたらとりあえず真似事をしてみようとするような浅はかな連中を奮起させるだけの結果となり、「youtuber」問題や「まとめサイト問題」などに類似するような事象を引き起こしてしまったわけである。
日本人というのはどうも根底に「楽して稼ぎたい」「賞賛される人物や賞賛されやすいジャンルにおいて前を進む人間を見てその真似事をして金を稼げるなら稼ぎたい」といった承認欲を持つ者がいるらしく、筆者もおそらくその一人だとは思う。
一方で陸軍については早期より「技術関係において自国、他国含めて個人は信じぬ」「ただし企業(法人)は信じる」といった姿勢があり、基本的に技術関係においては企業を尊重し、個人を排除するという姿勢がある。
燃料関係では「出遅れた」とされる陸軍であるが、最終的に敗戦する結果となった一連の失態は基本的に「外交的敗北」に起因したものであって、「組織的に無能だった」とは言いにくい。
どちらかといえば陸軍が無能にされる原因は「創設後まもない頃の組織的なハードウェア的なシステムが完成していなかった頃の経験不足」による事件や事故が「あまりにも目立っていた」ために作り起こされた誇張されすぎた評価であり、
今日における各人の活動を考えると、外務省まで巻き込んだヨーロッパの情報網の構築など、組織的に見れば「海軍の方がよほど無能だった」ように感じられてくる。
例えば航空機1つをとってしても先の先をみた開発を行い、1式隼を十二分に戦えるように改良できたことや、最終的に四式疾風などアメリカ軍も評価する機体の「量産化」に成功しているところを見れば、組織的な運用においては明らかに陸軍の方が上回っていたことは明らかである。
一方で海軍は、先の先をみた開発を行ったのはメーカー側独自の判断で、例えば零戦の後継的な扱いがなされる紫電改においては、
そもそもが元々は「強風」という無茶苦茶な無理難題を押し付けた超高性能水上機が「あまりにも高性能だった」のでとりあえずフロートをはずして陸上機にしてみたら「それなりに使えたが、もっと改良したらさらにすごくなりそう」ということで生まれたもので、
最初から1式と平行して「スピットファイアに負けない戦闘機を」ということで「2式」として別途で開発して新技術を確立した後、「四式」という形で結実させた陸軍とは大きな差がある。
特に二式においては「必要か?」と思われた「迎撃戦闘機」として開発が始まっているが、
それは陸軍が早期から「日本本土への上陸の可能性」を考慮した結果によるものであり、事実、この二式は当初のやや低い高度を飛んだB-29をなぎ払ったことで米国海軍の上層部が更迭される事態にまで至ったことを考えれば陸軍と海軍の差は明確であったと言えるであろう。
ちなみに余談だが組織的に技術を理解した結果、とんでもない傑作兵器を生み出したといえばイギリスが有名だ。
英国面がどうとかこうとかやたらネタにされるイギリスであるが、
彼らの英国面とされる考え方は時に魔物を生む。
当時、木工系の技術者が余って苦慮していた英国では、それを何かに利用できないかと考える企業がいくつもあった。
その中の1つがデ・ハビランド・エアクラフトである。
元々WW1の後に木製モノコックの航空機をいくつも世に送り出していたデ・ハビランド・エアクラフトは木製の利点である「空力的に洗練された造形」にできることを逆手にとり、翼や胴体において大量の特許を取得していた。
特にそれらの技術については「レーサー向けの航空機」などに利用されることが多く、航空機レースにおいては一部枕頭鋲を用いた全金属製のものが登場していたが、基本的には「空力的に優れた造形にしようとすると現在の金属加工技術では難しい」ということで木製モノコックが主流である。
スタジオジブリの紅の豚に登場する主人公とライバル二人も片方は「金属っぽく見える」が木製モノコックで、筆者からすると「翼も木製モノコックだったのね」に関してはやや違和感を感じたりする。
おそらくこの台詞には「まるでレース機みたい」という言葉が足りないだけでそういう意味合いで話していることは主人公が「レースをするんじゃねえ」といった言葉から匂わせているが、飛行艇時代の設定から推察するに無理やりレース機を戦闘機にしようとして失敗したとされるのが主人公の飛行艇であるのでそういう構造で当然だとは思われる。
そんな「まるでレース機」みたいな構造仕様でもって「重戦闘機」を作ってしまったのが、かの有名な「モスキート」である。
モスキートは当時判明していた空力特性をフルに生かすにあたり「木製でなければ不可能」との結論に達し、その上で当初は「重武装」にしていたが、割り切って「武装を最小限にする」ことですさまじい性能を獲得した。(当時のレース機は650kmぐらいは普通に出せるようになっていたが、これは本当にレース用にいろいろ限界まで突き詰めたデリケートなエンジンや添加剤満載の燃料を用いたものであり、軍用の安定的な性能にデチューンしたエンジンですら初期型で630km、最終型は670kmもの速度を発揮したことを考えるとレース機を軍用に転用することに成功した存在といえる)
しかもそれは航空力学に疎い木工職人にも「木の特性さえ理解していれば作れる」ような設計であり、性能だけでなく整備性なども考慮されていた。
特にイングランドジョークで言われるのが「この時の影響でイギリスは接着剤の技術が大幅に向上して何でもかんでも航空機に接着剤を使うようになった」なんていわれるが、モスキートは飛行中に穴が空いたら接着剤で修理するということが本気で行われていた機体だったりするし、このモスキート製造時にも活躍した接着剤のメーカーが本気で「後の航空機用の接着剤メーカーとして今日も君臨」したりしている。
この接着剤は今では自動車レース関係やスーパーカーでも平然と使われたりするわけだから、英国面とは本当に恐ろしいものである。
(ロータスなどが好んで使うが、OEMに近いことをやっていたテスラは接着剤で作られた部品の供給を断られた後、そのままの構造を溶接を用いて代替しようとしたが溶接できるような形状ではなくボルト止めに設計変更して重量が1.4倍になったのは最近では有名な話)
さて、話を戻すとなぜこのような話をしているかというと松根油というのは海軍が「上記のような理想を目指して見事に失敗したが、後の世には役に立った部分もある」からだ。
松根油自体は燃料不足に困った海軍が当時の農商務省に依頼して「なんかこう、植物性油とかで何かないの?!」と頼み込んだ結果、「昔からあるしこれならどうにかなるんじゃないか?」ということで計画したものである。
技術自体は大昔からあって、それを「航空機にも転用できないか」と考えられたわけである。
そのため、水をガソリンにといった詐欺的な話ではなく、当初より「では運用をどうするか」ということが実際の航空機にも使える精製方法の確立と同時に進行していたのだ。
松根油が選ばれた理由について簡単に説明すると、モスキート製造とほぼ同じである。
「農業や林業を営む者は他の者らよりも暇な時間が多くダブついているが、彼らを戦地に突入させていくということもまた難しい」ということで、彼らを利用して何かが出来ないかと画策されたわけだ。
つまり余った人員を用いて別方向からアプローチできないかということで、そこに対し「製造方法が簡単ですぐ覚えられる上に副業で行う者もいた」という松根油が最適だと思われたからである。
もちろん「そのまま使う」なんてことは当初より考慮されておらず、「加工すればどうにかなるんじゃね」ということでそっちは海軍工廠の錬金術師達に任せることにしたのだ。
ところでこの場でwikipediaについて苦言を呈したいことがある。
松根油に関するエピソードだ。
あちらでは「ドイツでそのようなものを使っているという話を聞いたから」試したとされるがそれは正しくない。
正しくは上原益夫技術大尉は当初より「松の枝を用いて人造石油の精製まで成功し、その技術まで秘密特許化した」人物であり、その計画を成功させた後に「ドイツは類似する方法でもっとすごいものを作った」という話を聞いたわけであり、実は日本がこの技術情報をドイツにもっていったら、すでにドイツでもその技術が確立していたということで
「ドイツを参考に松根油を作った」というのは完全な間違いである。
上原益夫技術大尉による出願は1943年初頭。
ドイツから情報がもたさられたのは1944年4月。
時系列的に言って「ドイツを参考にした」など1944年の時点でどう考えても「そこから開発して間に合うわけが無い」代物だ。
(計画スタートは6月からなのでこの情報が計画を推進する原動力になったのは事実)
松根油は92オクタンガソリンと同じく「量産化に失敗」しただけなので、類似する技術は確立している存在であることを改めてここに記しておく。
ようは今日の日本におけるバイオガソリンの礎を切り開いた人物の1人というわけである。
なので、松根油においては「上層部がドイツの電報を目にして」「おいこれどうなんだ」という話をしたら、「すでに開発には成功しているのですが石炭より効率悪いんでやってません」という回答を得たということで、
上層部が知らなかったことで巷での時系列の認識が逆転しているだけである。
徳山の海軍の燃料工廠の資料にも当時の技術者が1942年の時点で「人造石油においては植物由来のものも多々あり、その中でも上原益夫技術大尉が開発したるものは特段優れている」と記述がある通り、彼は1942年の時点でかなりの所まで研究開発が進んでいたわけである。
後に彼は石油学関係で多数の本を出版しているが、後年の日本の石油精製技術に大きな影響を及ぼした人物であり、松根油だけで「ネタ」にされるような男では決してない。
突出した技術を「当時の経済状況」なども鑑みて「植物などを有効利用しようと画策した結果、1つの結論に達し、その上で技術も確立させた」すごい人物である、
ただし軍部自体は前述する相次ぐ詐欺事件などにより、上原益夫技術大尉について当初はさほど信頼してなかった。
「天然成分の植物で航空機なんて飛ばせるか!」と本気で思われていたのも、彼の技術が日の目を見るのに2年もかかった原因の1つである。
ようは「ドイツもフランスもやっとるで」という話を聞いてようやく「なんてこった、本当に実在するのか!」となったわけだ。
その際、前述する詐欺男と同じように海軍では松の枝を用いた燃料精製実験を幹部らを大量に集めて行っているが、上原益夫技術大尉自体は本物の「化学技術者」であったので、精製はあっさり成功する。
方法としては技術関係資料にもあるとおり「松の枝からタールを抽出、それを水素処理して精製する」という方法であり、試作品のオクタン価は実に「90オクタン」に到達していた。
海軍工廠では上層部を皮肉る話が残っているが「なんで石炭からの精製では精々85オクタン程度なのにこんな良質のガソリンが出来るのを黙っていたんだ!」と主張した幹部がいたそうだが、「出来ると言っていたのに植物から石油など出来るものかと言い切ったのは他でもないお前たちだろう」と海軍の化学に対する理解度の低さにゲンナリしたという。
ちなみに精々85オクタンという話についての認識も海軍上層部は勘違いしていたが、作ろうと思えば当時の海軍工廠では92オクタンのものは作れたが「大量生産」が出来ないので諦めていただけである。
その手の話を上に立つ者がまるで理解しない構図は70年経過しても変わらないのは日本の政治や大企業の幹部らの様子などを見れば「ご覧の有様だよ」と理解できることだろう。
しかし問題はここからだった。
松の枝というのは「収穫」「集積」「そして運搬」の3つの工程が極めて難しいものだった。
しかも「収穫量」もそこまでではなく、これが単価を押し上げ「量産は非現実的」と海軍工廠が判断した理由でもある。
そこで考えられたのが「成分さえ抽出できればいいなら松の根でもいいんじゃないの?」ということだった。
農商務省が導き出した考えである。
「丸太などは建材などに使うが、枝とは別に根が余っている。この松根で作るのが松根油で大昔からあるのだが、この成分で同じものが出来るんじゃないのか?」というアドバイスを基に上原益夫技術大尉は「やってみるか」ということで松根油計画がスタートするのである。
先の松の枝を利用した人造石油については「誉エンジンですら完璧に動く」という別の技術工廠からの話もあり、当時の海軍上層部の中では「まことに神風である。本土決戦においては松が我々を救ううことになろう」などと本気で主張していたりする。
しかし実際には「松の根」では「松の枝」と異なり、簡単に良質なガソリンの代替物として精製できるものではなかった。
元より上原益夫技術大尉も実は試して「これはだめだ」と一度諦めたものであり、かなり無理があったのである。
上層部は「枝も根も同じ松だし」と考えていたようだが、化学というものはそんなに甘くなかったのだった。
しかし上層部では認識不足から松の枝から精製された90オクタンのガソリン=松根油という誤った認識をし、樺太まで含めた当時の日本領土すべてでの「全国規模での精製」を行うため、なんと組織まで新たにこさえてしまう。
農商務省も日ごろ「非国民」などと罵られることが多い組織だったため、「日ノ本の神風となる」などと言われたために奮起し、海軍と共同で全国規模で組織を整え、上原益夫技術大尉による技術資料から松根油を作る釜だけでなく蒸留施設までこさえてしまう始末であった。
実はこの時、それに対して疑問を持った者がいる。
それは林業などの組合に対して出されたお触書の意味不明さについて新聞に投稿されたものなのだが、
そこには「3tトラック24台を使って東北から徳山まで松の木を運ぶという計画についてですが、そのトラックの燃料をなぜ航空機に使わないのでしょう」といった記述があった。
当時海軍は精製された松根油を航空機に使うため、徳山には使い物にならないとされた天山が1機持ち込まれていたが、この24台分のトラックに使うガソリンはあの燃費が悪いといわれる天山5機分にもなるほどの量であった。
そしてそのトラックで持ち込んだ松の木で精製できる量は天山1機分に満たないことを考えれば、
これはまさしく資源の無駄であるが、そこには当然「当時トラック向けにガソリンを供給していたライジングサンやスタンバックの燃料は大人の事情で使えない」からそんなお粗末な事態になっただけであり、
全く持って使い物にならない松根油を徳山に運び込んだトラックの燃料こそ「92オクタンのガソリンで天山5機分」という資源と時間と労力の無駄をやっていたのである。
真面目がたたって馬鹿をやるの典型例であろう。
ちなみにこの時、海軍は国鉄まで動因して松の木を運ぼうとしたが、鉄道省は完全に拒否した。
理由は「今の戦況においては石炭の運搬に全ての人材と資源を投入しており他のものを運ぶ余裕なし」ということであったが、
その一方で「無駄なものに石炭を消費したくない」という国鉄の思惑と、海軍による「運搬用の新たな路線の建設」という非現実的な話に嫌気が差したことが起因している。
一方その頃、鉄道省は木炭に着目していた。
戦時中、特に1943年になると石炭の運搬にはかなりの無理が発生した。
そのため、石炭の供給ができなくなった路線では相次いで運行不能に陥る。
その一方で各地で活躍する存在があったのだ。
それが「電車」である。
正確には「電気機関車」である。
空爆によって変電施設が破壊されると無力化されると政府や一部鉄道省の役人は及び腰であった一方で、変電所を山や森に隠すことによって活動が可能だった電車は「燃やせるものならなんでも燃やして電気を作れる」ということから
「木炭発電」によって電気機関車を稼動させており、その結果「鉄道は電車に未来あり」と1940年代に後の将来の鉄道王国の方向性を決定付ける結論に達していたのだった。(この頃、その電車に未来を感じた者たちは後年日本の鉄道の全国規模の電化に貢献した)
よく今日の日本で「なんでJRはこんな山奥に変電所なんか大量に作ってんだ……」なんて思う人がいるだろう。
それは簡単に言えば「その頃の教訓であり、当時からその場所にあったから」である。
そのため鉄道省は海軍に対して「木炭などを供給してくれるならば考える」という話をしたが、この時、電気機関車の有用性について説明したために海軍はある計画を立ち上げるのだった。
それは「山陽本線の全線電化計画」である。
信じられない話ではあるが、国鉄においての全線電化計画が最初に立ち上がったのは東海道でもなく中央本線でもなく「山陽本線」だったりする。
それも部外者である帝国海軍による強引な計画である。
山陽本線は当時海軍基地がある呉などを中心に走っていた路線のため、海軍にとっては動脈そのものであったのでこのような話が出てきたわけだ。
徳山工廠までのトラックの運搬が無駄という世論の批判も受けた海軍上層部は「なら山陽本線を電化して広島まで電気機関車でもって松を運ぶぞ」と本気で考え、計画を推進してしまう。
しかしその考えに鉄道省は首を縦にふらなかったため、ついに我慢の限界となった海軍はなんと「鉄道用路線用地」を別途確保し、「全線電化した新路線」を計画してしまうまでに至るのだ。
1944年11月の話である。
この時取得した用地は国のものとなったが、一部が後に日本人を超高速で運ぶ新路線「山陽新幹線」用の土地としてこっそり流用されたことはさほど知られていない。
ようは全国規模でさまざまな組織が結託し、インフラまで整えてまで「松根油」というものをこさえようとしたわけである。
「松根油は神風」という認識を本気で海軍がもっていたことがよくわかる。
しかし残念ながらそれは前述するとおり「松の枝」の石油の話であり、松根油については一応、作ってみたものの単体では航空機用として扱えないレベルの「70~75オクタン程度」の代物にしかならなかった。
当初より「難しい」という主張をしていた大尉の意見も無視して強引に作ったものだったが、太平洋戦争末期における「大失敗」となったわけである。
しかし全体から見ればこの時の失敗は全てが無駄になったというわけではなく、松の枝によるガソリン製造方法などの一連のものは「バイオガソリン」として発展していくし、技術大尉はその後も石油精製技術の研究に携わり「メタンハイドレード」などを含めた他の代替石油精製分野で活躍。
山陽本線電化が非常に早くなった要因も「海軍が予算を作ったから」であり、関西地方の経済的発展を促した。
また鉄道省はこの時海軍に対して「機関車はまだまともに作れないので輸入するしかないんだけど、計画的に必要な台数確保のために自国生産できたらいいなー」などと巧みに利用して得た潤沢な予算を電気機関車や電車の開発資金とし、それが最終的に新幹線に繋がるなど重要な役割を果たしたことなどを考えると、災い転じて福と成すといったところである。
新幹線や特急電車などの電車の高速化のためのチームは戦前から存在したとされるが、このチームの研究費が太平洋戦争末期に大幅に増えたというのはこの「松根油関係で全国規模で壮大な計画を立ち上げた際の副次的産物」ことがあったためである。
とにかく松根油で言えることは「上層部は技術に対してきちんと理解しろ」という話であり、優秀な現場の人材を上手く扱いきれなかったことがこの時の、そして今日における日本の失敗に繋がっているわけだ。
最後に余談だが、松根油のための松の運搬に使われたトラックの燃料をそのまま航空機に使うと天山5機を半年運用できる量に達していたという。
なんという無駄遣い。




