戦後の混乱期の戦いの裏に存在したスタンバックの行動
8月15日に実質的金星をあげた54戦隊。
しかし97艦攻は対空砲火で1機を損失してしまった。
パイロットは無事脱出したものの大きな犠牲である。
が、97艦攻には部品取り用の予備機があったため再び3機体制となって翌日も出撃した。
翌日の16日も極東ソ連軍による航空部隊が飛来するものの、悪天候により殆どが引き返す。
結果97艦攻と隼は上陸を目指すソ連の艦艇への攻撃に集中することができた。
一方、上陸を目指している極東ソ連軍は昼夜と問わない姿勢での突撃により続々と占守島へ到達。
大本営は「撤退戦」を命令する。
この時、極東ソ連軍の混乱する無線より隼が実際には3機が稼動していたことを把握していたため本部は佐藤少尉へ理由などを問い詰めるが、佐藤少尉は持ち前のひらめきを生かして難なく質疑応答を回避したのだった。
一方、地上戦においてはそれまで全く活躍できなかった戦車などが大活躍していた。
理由は簡単で、当時の状況では重戦車などを海運、空輸することが非常に難しかったからである。
海運の場合は港の占領が必要不可欠であり、鈍足な貨物船は簡単に落とされかねないので容易ではないのだが、
特に空輸においては制空権を獲得し、その上で飛行場まで占領して輸送機またはで運ばなくてはならない。
つまり、「上陸作戦が成功して初めて運べる代物」なわけである。
ソ連はこういった状況から本気で「空を飛ぶ戦車」などを一時期開発し、後年インターネット動画サイトなどでネタにされたが、戦車を空に飛ばして戦地に投下するという話であればアメリカも一時期本気で考えていた。
冷静に分析してみれば、あの空飛ぶ戦車も「車両が通行できない閉鎖的な空間や島などへ投入する」ということを想定した場合は割と現実的な運用方法である。
しかもあの空飛ぶ戦車においては「試験飛行は何度も成功し、その可能性は十分に証明したが、飛ばす輸送機が当時のソ連に不足していたのと、この輸送機が鈍足すぎて制空権を取らねば運べないという根本的矛盾が完全に解消できなかったから」というのが不採用な理由であり、システム上の完成度としては「100%完成されてはいたが」という状態だったことを書き加えておく。
米国もまたその必要性には早期に気づいており、1950年代には開発がはじまった、かのシェリダンはこの「拠点を占領する上で必要戦力となる戦車が、島という閉鎖的状況では、占領しなければ持ち込めない」というジレンマもとい最悪の矛盾を解消せんがために開発されたものである。
水陸両用という点も「島に上陸する」といったことを本気で考慮した設計であり、浅瀬に投下して島に上陸するという真の意味での万能戦車を目指していた。
実際にキューバ危機ではカリブ海の無人島などに「本気で投下して」配置したというのは有名な話で、実戦投入とはならなかったが、そのような運用はソ連、米国の双方が「日本を攻める際にジレンマとしてトラウマとなった苦い過去が存在していた」からである。
インドネシア諸島での上陸作戦の実質的失敗や、
太平洋戦争末期に九州地方の無人島などにまともに上陸が出来なかったというのは本土決戦に進んだ場合は米国もタダでは済まないということを認識させ、核の使用を踏み切った要因の1つとなったとされている。
ソ連もBMD-1というアメリカと似たような空飛ぶ戦車よりも、より現実的なものを開発して実戦投入しているが、その双方が「日本」という国で得た経験を基に開発されたということはあまり知られていない。
実際問題、米国においてはこのシェリダンが間に合わず、かつ運用方法も固まらなかったためにベトナム戦争で苦戦したと言われている。
特にベトナム戦争においてベトナムの密林は戦車泣かせの代物だった。
戦車はぬかるみに強いといわれているが、それはバイクでいう「フラットダート」や「砂漠」「ガレ場」といった所までである。
実際にはその重量から沈み込んでしまい、「沼地」においては殆ど役に立たない代物である。
つまり大陸であったとしても密林だらけとなると「まともに戦車を運用できない」状態となる。
だからこそ一部では「すでに時代遅れではないか?」といった考え方がなされ、今日では日本の自衛隊も含めて「早期展開型戦闘車両」と称してタイヤを装備した水陸両用型の戦車が開発され、投入が予定されているわけだ。
これらは「平地での高速性」もさることながら、軽量でこういった沼地でもものともしない走破力をウリとしており、日本もまた「防衛」という意味合いにおいてこういう車両を必要としていた。
「え?防衛ならば予め運んでおけばいいんじゃないの?」と思うかもしれないが、自衛隊においても少子化の波はすさまじく、また現地住民との摩擦や予算問題などから「常設できない」なんてことは当たり前で、だからこそ「緊急事態に早急に展開できる」存在が求められたのだ。
攻める側も守る側も、占守島などの戦いにおいてこういったものの必要性を感じるほど、この島での戦いはすさまじかったのである。
上陸したソ連兵は当初次々と日本の軽戦車や中戦車に蹂躙された。
結局、隼などの活躍によってソ連は占守島への戦車の投入が見送られ、その結果想像以上の被害を出すことになる。
陸軍が所持する戦車は計60機。
それはソ連にとっては脅威となる数字であった。
しかし一方のソ連は日本の戦車の装甲が薄いという利点を生かし、対ドイツでは役に立たなくなった存在を大量に持ち込むことで対処する。
PTRS1941とPTRD1941であった。
計100丁を超える14.5mmの対戦車ライフルを横に並べて射撃するという、「お前らは織田信長か!」と言わんばかりの「歩兵戦力を文字通り犠牲にすることも厭わない」戦法で日本軍を苦しめたのだった。
狙撃能力はそれなりに高かったソ連軍は14.5mmを陸軍の士官を中心に向けて狙撃することで大きな戦果を出すものの、一方で日本軍は「戦車を盾にキャノン砲などによる長距離射撃の雨を降らせ、その中をかいくぐるように突撃部隊を駆使するという戦法」によって戦線は完全に膠着状態となった。
一方、陸軍の歩兵部隊などが死に物狂いでソ連軍を押さえつける中、正規パイロットでなかったことも影響した97艦攻のパイロット達は池野曹長などに二つのお願いを申し出た。
1つは97艦攻の乗り方の指南。
もう1つは隼の操縦訓練である。
97艦攻は今後も消耗が予測されたが、隼は消耗する可能性が低い。
一方パイロットは消耗する。
そのため、24時間体制で飛ばすことも考え、隼の搭乗訓練を申し出たのだ。
特に97艦攻のパイロット達は「夜間偵察」と「夜間爆撃」のスペシャリスト。
池野曹長ら隼のパイロットと異なり、夜間飛行の能力に突出していたのだった。
池野曹長はその話にすぐさま首を縦にふると、まずは97艦攻に乗ってその特性を理解したとされるが、数少ない記録では完璧に乗りこなせていたとされる。
97艦攻のパイロットらは元々大型機や爆撃機のパイロットであったため、やや大型といえども戦闘機としても使える97艦攻を振り回すのに慣れていなかったが、
特段特長もない無難で乗りやすい仕様から97艦攻の操縦方法よりも97艦攻の飛び方、立ち回りの方に問題があると感じた54戦隊の面々は海軍に「連携飛行」の重要性を説き、その上でそれを想定した飛行訓練を急遽行うこととした。
実は海軍、編隊を組んで飛行するという基本中の基本は重視していたが、共同撃墜など「共同で攻撃や回避する」といった飛行には慣れていなかったのだ。
海軍式では現場でのパイロット任せの判断が基本であり、ある程度までは連携するが、実際にはサムライのようの1対1に持ち込むような戦い方が重視されていた。
しかし陸軍では元より「多対1に持ち込む」というのが基本戦術。
よって「多対多」においても戦術が考案されており、それによった戦果は少なくなく、米国や英国のエース級をかなり落としていたりするのだ。
この戦術は極東ソ連軍にも有効であったため、54戦隊は海軍に対して付け焼刃的にその戦術が運用できるよう施そうと考えたのである。
そして信じられないことにこの「占領されるかされないか」の状況において、彼らは飛行訓練に望むのである。
しかしそれは「生き残りをかけた戦いの中でこれ以上航空戦力を消耗させない」ためには必要不可欠なものであったため、97艦攻は隼などと相互に乗り換えて連携飛行の訓練を行ったとされている。
翌17日においてもソ連軍は侵攻、16日に続いて航空部隊は出撃を続けた。
ソ連軍の航空部隊は全く歯が立たないまま引き返すという状況を繰り返す。
そして18日。
これがソ連最後の「航空機部隊」の出撃であり、第二次世界大戦最後の「空中戦」である。
スターリンの歯軋りする音が聞こえそうであるが、スターリンは18日を最後に航空部隊に対して「撤退命令」を出す。
理由としては「まるで役に立たないから」であったが、実はもう1つ理由があった。
本来の狙いは北海道を占領することであったスターリン。
しかし1式Ⅲ型という旧来の戦闘機のたった3機程度の活躍で虎の子の航空戦力が抑えられたスターリンは北海道占領作戦について見直さざるを得なくなった。
理由は、北海道に集結中の54戦隊にあった。
ここに集まるのはその殆どがエース格であり、グラマンのF8FやP-51と本気で1:1で戦う猛者。
しかもこの時札幌に集結中の54戦隊は「すべてが5式戦闘機に乗り換え」していた。
総勢75機もの5式戦闘機は今か今かと待ちわびる状況が札幌において存在した。
5式戦闘機は、乗り手をして「P-51でようやく対等」といわれるぐらいの高性能戦闘機。
米国においてもWW2においては枢軸国で最優の戦闘機と評価されている代物だった。
しかしそれだけであればスターリンが見直すことはしなかった。
スターリンが作戦見直しにまで至った原因はスタンバックにある。
無条件降伏により、実質的に米国に占領されることが確定化していた8月15日過ぎ、
スタンバックは「すでに戦争は終わったものであり、戦時下においての石油業態を定めた石油業法は形骸化した」と判断して陸軍に向けて平然と100オクタンのガソリンを再び供給しだしたのである。(米国政府自体が裏でそれを許可していた)
後にGHQがタンカーによって運び込む前に、「業として」そのような行動を起こしたのだ。
これには当然裏がある。
「ドイツやイギリスと違って日本はちゃんとお金を払うからな」と、日本人の誠実さを理解したうえで現在の経営者も強烈な反共主義者であったスタンバックは、対ソの侵攻が今後の商売に大きく関わるということで、独断でそのような行動を起こしたのだ。
特にそれに関しては「満州鉄道」がほしかったスタンバックにとって、ルーズベルトのせいでそれを「確実に中国かソ連に奪われる」ことが確定していたために「ルーズベルトへの腹いせ」としてそのような行動を起こしていたりもする。
おそらく「日本経済が破綻」状況にあったならばそのようなボランティアはやらなかったと思われるが、あの戦争において日本は「戦力がなかった」のであって「経済が破綻した」わけではないという重要なエピソードを確定付ける話である。
実際問題、財閥系企業などはGHQの理不尽な政策に振り回されて一時的に停滞するだけなのを考えれば、いかにこの時の日本経済が強固なものであったかがわかる。
今日の日本の教科書においてはまるで「戦後から日本が経済的に復興した」とか書かれているが、それは厳密には正しくない。
「戦後から日本がさらに経済的に成長した」というのが正しく、企業の内部留保はそれなりにあったのだ。
54戦隊の5式はこういった米国企業の手ほどきなどもあり、最高の状態を維持して待機していた。
それはスターリンにとっては最悪の状況である。
スターリンの認識では「日本国はまるで資源が足りないから、混乱した今の状況なら勝てる」という算段で戦力を展開していた。
だが「その資源が足りている」という状況において北海道を占領するのは簡単なものではない。
後にスターリンは朝鮮戦争の際に「韓国と北朝鮮」を利用してまで再侵攻を企てる。
この時には「航空戦力もないし海軍戦力もないから楽勝」とタカをくくっていたら、前作で触れたように「マッカーサーが密かに戦力を復活させていた」ということでまさかの侵攻失敗。
ただしあの時は進軍する前の段階で中止命令を出すことができた。
それが出来たのも、この時の経験があってのことである。
(一方で、この姿勢によって自衛隊が整備され、さらに航空戦力においては当時の米国の最新鋭ジェット戦闘機であるF-86セイバーを配備されるという失態を犯した)
逆を言えばそれらの戦力がなくして初めて「日本が取れる」ぐらい日本国といのはまた防衛力的に攻めにくい地形なのである。
18日の最後の空中戦においては当初より「戦闘機」への攻撃が重視されていた。
ここにきて極東ソ連軍はスターリンの命令により、この「たった3機」の日本の翼に照準を合わせたのだった。
この時稼動したのは38機程度といわれている。
資料はないが、おそらくスターリンは「この結果」を基に作戦見直しに至ったと見られ、見定めるためにあえて「航空戦力をたたけ」と命じたと思われる。
18日の天気は相変わらずいいものではなかった。
しかし隼の部隊はそれをものともせず、上空からの一撃離脱を仕掛けてくる。
極東ソ連軍はついに彼らをまともに攻撃することも出来ず、午後には全軍撤退をすることになる。
この時の隼は通信状況や敵の展開状況から「こちらを狙っている」ということを知っていたため、当初より「撃墜する」意識でもって戦いに望んでいた。
10倍の戦力差を前に通常ならばしり込みしそうな状況。
しかし池野曹長含めたパイロット達は臆することもなくいつもどおりの戦い方で翻弄したのである。
高度上昇能力の差を生かした速度差(保有運動エネルギー差)を生かした隼の前には成す術もなく、3機の隼には結局傷1つつけられないまま、極東ソ連軍は撤退した。
それが第二次世界大戦最後の空中戦であったが、その最後の空中戦が「たった3機の旧式戦闘機の前に敗走する大部隊の戦闘機軍団」という構図であったことは、ソ連にとっても恥ずべきものだったようで、この時の極東ソ連軍の航空部隊の者たちがその後どういう扱いがされたのかは「資料すら残っていない」
残っていないということはおそらくその命すらまともに残っていないと見られ、激怒するスターリンがどのように裁いたかもわかっていないのである。
戦時記録についてもまともな記録が残っていないが、ソ連にとってこの状況は「記録を残すことすら空しいもの」であったようだ。
ソ連が投入した戦闘機は決してWW2の時代において劣るものではなかったが、ロックフェラーやマーカス・サミュエルの予想通り、戦争は「石油の質で決まる時代」をまさに証明し、
「米国が勝った理由」「英国がバトルオブブリテンで勝った理由」「日本が敗北した理由」「日本が占守島で実質的に勝利した理由」がハッキリとすることになり、そしてソ連と米国は双方共にその結果を教訓とした戦力を整えるようになるのである。
その後、19日以降に航空部隊が飛来することが無くなったことで、54戦隊には21日に撤退命令が下された。
しかしここからが悲劇であった。
池野曹長の機体はしんがりを勤めたために燃料不足などで不時着。
このため、彼はシベリアに抑留されることになってしまう。
戦後一応日本に戻ることはできたが、占守島の戦いでソ連軍を苦しめた隼の戦闘機部隊の隊長とあり、かなり酷い扱われ方がなされたとされる。
他の2名のうち1名は行方不明となり、最後の1名は方角を間違って北に向かってしまった。
そのまま樺太に不時着したが、民間船にまぎれてなんとか北海道に戻ってくる状況であった。
無事に北海道に戻ったのは97艦攻2機であるが、武勲をたてた隼の方は北の大地にそのまま果てたのだったのは皮肉なことである。
佐藤少尉らは別働隊と合流したものの、占守島に残った者たちの殆どはスターリンの怒りを買ってシベリア抑留されてしまう。
彼にとっては北海道侵攻を実質的にここで食い止めた者たちには地獄に合わせるのがお似合いだと思ったに違いない。
日本政府はシベリア抑留から戻った彼らに対してねぎらいの言葉を送ったが、政府内では「それだけでは足りるものではない」といった意見も当時から存在するほど、彼らの決死の覚悟は今日の日本国が成立する上で重要なものである。
にも関わらず歴史の教科書にて殆ど語られないのは、筆者としては理解しがたいものであり、語り継ぐべき歴史だと考えている。