結果は事実は小説より奇ナリ……だが実際には確かな裏づけと確信があった。
昔からこんな格言がある。
島などの空間においての上陸作戦では敵軍の5倍の戦力が無ければ占領など不可能。
これはいかに島という存在が防衛能力的に優れているかを表している。
バトルオブブリテンなどの状況を見ていても、航空戦力自体は常に攻撃が可能だったが、歩兵戦力の侵攻は非常に遅かった。
基本的に戦争においてもっとも重要なのは、いかにその地域に歩兵戦力を投入できるかにかかっている。
そうならないと泥沼になるのはWW1で証明したことだった。
当時は歩兵戦力が基本。
故に侵攻は非常にゆっくりしたものとなり、思った以上に戦線拡大が難しくなる。
大陸という戦線拡大がしやすい場所ならいざしらず、限られた空間内においては展開する方向性もまた限定的なものとなり、激戦による消耗は避けて通れない。
1945年の終戦後における日ソの戦闘、占守島においてもその状況になるのはまた必然であった。
後にフルシチョフなどが失敗だったと決定づけるこの戦い、実はスターリンはあえてそんな「馬鹿みたいに消耗する戦い方を選んだ」のは知られていない。
スターリンは揚陸艇などはかなりの数を用意した一方、戦車など占守島へ上陸して展開する戦力については見積もりを甘くとっていた。
この原因については今でもわかっていない。
だが、信じられないことに歩兵戦力は1:1.1とソ連と日本の戦力差に殆ど開きがなかったのは事実。
唯一大幅に戦力差が生じていたのは航空戦力であった。
ソ連が持つ航空機は総勢42。
対する日本は6である。
この状況だと通常の人間ならば「敗北不可避」であると考えるが、当時指揮を執る佐藤少尉は数はそれほど気にしていなかった。
それには理由がある。
1.15日の終戦日から2日過ぎてもソ連はまともにこちらに偵察機を飛ばすことすら出来ない錬度。
(一方の日本はこの2日間で敵戦力状況を確認できるだけの偵察を複数回行ったが、この偵察機の迎撃すらソ連にはできていなかった。
2.偵察した状況から敵は離脱する民間人に対して「射撃」による虐殺だけを考えており、「制空戦闘」は全く考えていない。
3.極東ソ連軍は、いや当時のソ連は、54戦隊が最も苦労した「B-29」に相当する高高度爆撃機など保持していない。
これらの理由により「防空戦闘において日本国が負ける要素が見当たらない」というものである。
それは佐藤少尉の慢心でもなんでもなかった。
54戦隊のこれまでの戦果を見てみると一目瞭然である。
B-24などの爆撃機を幾多もの数を落とし、米国や英国のエースを「共同撃墜」しながらこの地を8月15日まで守りきった猛者達にとって最も強敵なのはB-29だった。
それも「性能限界ギリギリまで高高度を飛ぶB-29」こそ最大の敵だった。
今日、米国と日本が同盟関係になって様々な米国の資料が閲覧できるようになって判明したことがある。
それは3つ。
1つは、元々B-29はそこまで高高度で爆撃しておらず、精密爆撃を行っていたが、この状況下では日本の戦闘機のカモにされた。
2つ目、届かないなどと批判された高射砲は実はちゃんと届いていた。
3つ目、上記2つの回避のために性能限界ギリギリの超高高度で飛ばさざるを得なくなり、またこの超高高度でも陸軍の二式戦闘機は体当たりによる撃墜を可能とし、しかもそれを可能とする優秀なパイロットが「何度も脱出して文字通り人間ミサイルで落としてくる」ということから、大量の爆撃機を引き連れての無差別爆撃でなければ効果を出せなくなった。
B-29による無差別爆撃の背景には、ある意味でそれを正当化しようとする米国の姿がある一方で、生半可な高度では落とされるほど日本国の戦力は「そこまで過小評価されるものではなかった」ということがわかる。
無差別爆撃の際に大量のB-29を用意したのは少数だと本気で落とされる可能性があるからであり、事実大量に用意したB-29もまた高射砲などによって落とされ、その尋常ならざるコストの消耗に上層部は頭を抱えるほどであった。
それでいて終戦後に「殆どインフラを破壊できなかった」ということについて晩年のマッカーサーやニミッツらは「ベトナム戦争」での敗戦に至る「無差別爆撃の穴」というものを認知しており、
無差別爆撃が決して戦争の決定打になるものではないと考えていたが、アメリカ空軍などはそれをきちんと理解することが出来ずにベトナム戦争では敗戦したわけである。
実際、ベトナム戦争では当初こそインフラの破壊は顕著だったが、ある程度破壊されると防衛部隊による「集中と選択」が行われ、橋などを破壊することが困難になったという経緯がある。
ベトナムに行くとわかるが、いくつかの橋や建造物は信じられないほどの爆撃や攻撃をされながらも尚2018年現在においても「橋という機能を維持したまま使われており、戦勝記念として保存されているもの」がいくつかあり、そこでの戦闘はまさに日本の末期の状況と類似していた。
所謂「壊してもすぐに復活するし、簡単に壊れないし、壊れたと誤認してしまったし」といったことである。
1946年の朝鮮戦争の段階でそれに一部の者が気づきながらも、それらの情報がきちんと後進の者に伝わらなかったのは真に失策であった。
話がズレてしまったが、佐藤少尉自体は上記の状況から現時点ではむしろ「隼」の方が他の戦闘機よりも適任だと考えていた。
それには陸軍による非常に優秀な先見性の高さからくる戦術的思想が影響している。
実はここ最近見つかる陸軍の資料では、明らかに「陸軍の方が海軍よりも最先端技術に対して全体論で理解できていた」ことがわかっている。
陸軍が二式戦闘機を建造する際にはスピットファイアやBF-109を意識したというが、真っ先に導入したのが「防弾タンク」と「防弾装甲」であった。
1937年の時点でこれらの「必要性」を理解し、戦闘機に導入する傍ら、当時、切り札として考えられた「隼」については実は「後の改修」を意識して隙間などが意図的に設けられていた。
1式Ⅲ型の隼において防弾性能が向上したのは、これらのフィードバックによるものであり、二式自体はB-29に対して十分な戦闘力を発揮していた。
特にアメリカ軍は終戦後二式を雷電を越える防空戦闘機として認識しており、雷電の日本国における性能評価は機体よりもパイロットの能力によって生じたものと述懐している。
実際に二式はかなりの数がB-29の迎撃をしているが、B-29の当初の脅威は他でもないコイツだったわけである。
そして陸軍は当初よりこの二式などに代表される「一撃離脱戦法」についての有用性は理解できており、1式Ⅲ型というのはこの「一撃離脱戦法」を他の隼よりも特化させたような性能に仕上がっていた。
その上で1式Ⅲ型というのには隼の特徴である「低高度での圧倒的加速力」というものがあった。
これは米軍がとにかく警戒していたものであるが、WW2の連合国と枢軸国の中で「最も低空での加速力」を持つのは実は1式Ⅲ型の隼であった。
佐藤少尉は極東ソ連軍のもつ最新の戦闘機については独ソ戦の情報から断片的なものしか得てはいなかったが、この戦闘機が「高高度での高速巡航性能」には優れていた一方で「低高度での運動性、機動性」と「加速性能」については話にならなかったのを理解していた。
その上で彼らが「高高度からの一撃離脱」ではなく「低空飛行を続けながらの対地、対物への攻撃」に拘るならば「むしろ小型で敵の目をかいくぐって一撃離脱が可能」な1式Ⅲ型が最も優れているはずだと考えていた。
今現在現場に残るパイロットは皆占守島の悪天候の中を離着陸できる腕をもったパイロット達、その中でも池野曹長に関しては「準エース級」の人間であり一撃離脱戦法についての前線指揮などに向く人物であった。
佐藤少尉はこれらの状況から「10倍差の戦力などひっくり返せる」と本気で考えており、パイロット達と綿密に協議した上で、97艦攻も含めた波状攻撃で揚陸艇や魚雷艇などを射撃攻撃で落としつつ、迫りくる戦闘機をひきつけて彼らが行いたい民間船などへの攻撃を萎縮させる戦法をとることにする。
佐藤少尉にとっての脅威論は「ソ連が80機に戦闘機を増やして多方面から攻撃を行う」ことであったが、その可能性が無いことは偵察で予想できていた。
また、こちらの防衛対象である占守島と南樺太から必死で離脱してくる日本国民については「魚雷や機雷を避けるために集団でまとまって航行する船団を形成しており、バラバラに活動していない」ため、敵の進行方向がある程度予測でき、「より一撃離脱戦法に適した状況」となっていると考えていた。
その予想は見事に的中することになる。
翌日8月18日。
ついにその日が訪れた。
天候の回復を待っていた極東ソ連軍は濃霧などがないことを確認し、8月14日から4日間も吹き荒れた「真の神風」が消滅したことを確認すると、42機の戦闘機を飛ばし、一路占守島へと向かった。
目標は現在続々と集まる占守島にいる北海道本島へ避難しようとする民間人と、占守島の陸軍基地などへの攻撃であった。
しかし航空部隊は占守島に近づいた際、突如として謎の航空機に襲撃される。
上空より飛来せしその航空機は他でもない1式Ⅲ型であった。
La-7などで構成された極東ソ連軍は当初こそ「数が少ない」と楽観視していたが、すぐさまその状況に氷つくことになる。
それは「隼にいとも簡単に追いつかれる」ということだった。
La-7は1850馬力のエンジンを装備するソ連の最新鋭の量産型戦闘機。
しかもこいつは「低高度~中高度」向けの仕様であり、わりと得意な高度で飛行していた。
本来なら「パワー差で確実に引き離せる」状況において隼は真後ろからけん制しつつ部隊をかき乱すという行動をとった。
すぐさまソ連の航空部隊は気づく「ただのガソリンではない」「加給機も積んでいる」と。
実はLa-7。
エンジン性能こそ隼を大きく上回るが、いくつも弱点があった。
・加給機を搭載しておらず極めて加速が鈍く、高高度での戦闘は不可能
・機体が半木製で焼夷弾などに極めて弱い
・元々一撃離脱戦闘を重視した機体だったので運動性などは元より日本の航空機に劣っている
・極東ソ連軍のものはガソリンの質が劣悪で本来の性能を出せていない
これらの悪条件が重なった上に1式Ⅲ型には「100オクタンガソリン」が満タン状態となっていた。
この時の1式Ⅲ型はあえて増槽を装備していなかったがこれも速度向上に寄与していた。
防空戦闘においてはよほどの距離を飛ばない限り増槽は必要ない。
一度着陸して補給してしまえばいいのだ。
一方で攻める側は長い距離を飛んできて戦うため、増槽は必須であるし、戦闘可能時間も限られる。
そんな状況で極東ソ連軍は事前情報より「稼動する隼は1機」と聞いていたので、他に2機もいたことを知らなかった。
事前偵察に来ていたのも1機の隼のみ。
「やつらは見回ることしか出来ないだろう」と勝手な予測をしていたのだった。
この原因には未だに佐藤少尉らが大本営からの撤退命令を回避するために「稼動は1機」と虚偽申告をおこなっていたからだが、実際には8月15日の日、3機の隼は玉音放送が周囲にこだまする中、「そんなの知るか」とばかりにエンジンと翼を暖めていたのだ。
「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」とはまさにこの北端にいる54戦隊に当てはまるような言葉であった。
あのガソリンも凍りつく極寒の地で静かにその時を待っていた1式Ⅲ型は完璧に整備されており、この日の隼はまさに「桁が外れた」状態であった。
そこには偶然にもバトルオブブリテンでブリテン島を守ったスピットファイアに使われた燃料と全く同じものが使われており、この時の隼の最高速度は米軍が終戦後に試験で出した570kmに到達していたと予測される。
その状況において低高度だと最も状態が良くて580km程度が限界のLa-7に対しては「完全に対等ないしむしろ優位」に戦えて当然であった。
水メタノール噴射装置と二段式スーパーチャージャーの本領発揮であった。
本来はオクタン価が足りない状況でパワーを向上させる目的のものをオクタン価が足りる状況で使うと恐ろしいことになるというのは終戦後の米国による評価試験で判明している。
この状況で戦う隼3機に極東ソ連軍の航空部隊は完全に翻弄されてしまった。
何しろ追いつけない。
そして高高度に逃げられると手も足も出ない。
B-29の時に苦汁を舐めさせられた展開とは真逆である。
現在の日本の航空機には負ける要素がないと考えていた極東ソ連軍の上層部は混乱した無線通信の話から「何が起こったのか理解できない」状況となっていた。
一方その頃、海軍は別で行動している。
彼らがソ連の航空部隊を引き付けつつも揚陸艇などへの攻撃を行う一方、制空権をとった状況で97艦攻はソ連軍への艦艇への攻撃を慣行した。
当初は警告射撃であったが、警告射撃を無視して砲撃してきたための報復である。
97艦攻は正規のパイロットではなかったもののこの時に積載された燃料がやはり92オクタン以上だったのか軽快に動けたのだった。
それだけではなく、魚雷などを装備できない97艦攻は本来よりも機敏に動けた。
そのため、民間の船団に迫りくる者を中心に激しい射撃を試みたのだった。
信じられないことに10倍の戦力差であったにもかかわらず、極東ソ連軍は見事に制空権を失い、本来ならば簡単に撃墜される97艦攻は、97艦攻が必要とされる「制空権を収めた上での艦攻としての役目」を果たしてしまうのである。
それは連合艦隊などが望んだ本来の艦攻としての役割であり、本来の運用法はこの形であったものの、対米軍においては殆ど機能せず占守島にいたものは事実上の箪笥の肥やし状態のものだった。
それが戦時中何度も仲違いしていた陸軍の隼によって再びもたらされるのはなんとも皮肉なことである。
ところでこの時の97艦攻、実は夜間戦闘用にレーダーが搭載されたモデルだったりする。
殆ど情報は残っていないものの、夜間偵察などを目的にしたためと思われるがこのレーダーは対米軍では殆ど役に立たなかったが、対ソ連においては非常に役に立った。
97艦攻は敵の飛来する方角が判明しており、その情報を逐一隼に伝え、連携することが出来たのである。
無論それはいくら制空権を得たといえどもLa-7に追撃されれば即落とされる脆弱な97艦攻の防御兵装として機能しており、ここに来て占守島の戦いにおいて日本連合軍が優位な状況に立てた要因の1つとなっていた。
さて、この状況についてはスターリンもすぐさま知ることになるが、スターリンはトルーマンに対し「米国が補給か支援を行っている」と非難することになる。
無論米国及び米軍はそれを否定。
まさか支援をしていたのが、英国であるということはこの時のスターリンには予測できないことであった。
それは普通にチャーチルはそのような事はしない人間だと思っていたからであるが、チャーチルとは別にロンドンにはチャーチル並に支持される勢力と人物達がおり、それらの手引きによって英国が支援したことなどスターリンの想定範囲外のことである。
再び話を戦場に戻すと、8月18日の午後再び天候が悪化。
極東ソ連軍の航空部隊は殆ど何も出来ないまま撤退することとなってしまった。
42機の戦闘機に消耗はなかったものの、襲撃を受けたパイロット達は精神的に衝撃を受け、かなり疲弊した状態であったという。
実戦経験も殆どなかった兵士にとってゼロを超える戦闘機などそう簡単に相手にできるわけもなく、全方位において最終型である52型の零戦を超える性能を誇る隼を相手にするのは米軍ですら恐怖する状況こと間違いなく、それと戦い生き残っただけでも奇跡ともよぶべきものだった。
一方で隼部隊は殆どが「戦闘機は散らして艦艇を叩く」と最初から決めていたため、戦闘機への攻撃が局所的なものだった。
彼らが生き残ったのはただ「見逃された」だけであり、一方で揚陸艇などは甚大な被害を受け、上陸部隊は航空部隊に対して強烈なまでの批難をしている。
この時点で占守島の戦闘が泥沼化するのは避けられない状況となっていた――