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蘇れ。陸軍の翼

1945年7月。

日本にとって運命の時が近づいていた。

すでにこの段階において当時の日本国は本土決戦を決意。


特に帝国陸軍においては「戦力の温存」がとり行われることになる。

様々な舞台が本土に引きこもる形で終結し、静かに米国が全力で攻めて来るのを待ち望んでいた。


そんな状況な中、日本列島の北に位置する北海道においては一部の戦力が樺太などより引き揚げてきていた。

「航空戦力」である。


この極東の地における当時の陸軍においての記録資料は少ないが、来るべき本土決戦においては「日本列島を全力で防衛する」ということが当初より決定されており、「航空戦力」については北海道の本島にまで戻す命令が大本営より出ていた。


ようはフィリピンやインドネシアなどで展開していた部隊などを日本列島に再配置したのである。


そのため極東を担当する航空部隊はその殆どが一時的に北海道に集結することになる。

この極東を担当していたのが「陸軍第1飛行師団54戦隊」の「一部」である。


54戦隊。

やや特殊な迷彩柄を纏うこの部隊の殆どは1945年初頭まではフィリピンなどで展開していた。

しかし損耗が激しく3月頃に一時的に日本国内まで撤退。

以降は北海道本島に鎮座する。


その中で唯一、54戦隊がフィリピンで活動中の1944年8月より日本の北端にて防空戦闘を行っていた部隊がある。

「北千島派遣隊」である。

当時の日本国の領土の北端を防衛する部隊として米国の爆撃機などの迎撃にあたっていた。


実は当時彼らが防衛していた地域は夏でも春でも極めて天候の悪い場所であり、高い錬度を必要としていた。

その影響もあり、彼らに「特攻命令」は下ることがなく、通常の迎撃任務を1945年7月20日まで続けることになる。


1945年7月20日に大本営にて下された命令は「北海道本島での防衛」である。

問題はここからだ。

当時陸軍内においても「ソ連侵攻の可能性」については60%以上の確率を認識していた。


その裏でなんとしてでも「外交的に」彼らの侵攻を遅らせるよう日本の外交官は1944年末より活動している。


一方で米軍は樺太などへの爆撃も辞さない構えは崩しておらず、普通に考えれば「本島での防衛」のために札幌に54戦隊を集結させる理由は不明だ。


あるとするならば「元より樺太などを防衛できることなど大本営は考えていなかった」ということだが、この極東における大本営の認識についてはあまりにも資料が少ない。

歴史の教科書の中には「ソ連の侵攻などない」と楽観視説を挙げるモノが多いのだが、それは違う。


そうであるならば外交官がわざわざ釘を刺しに行くような真似はしない。

ゴールポストを破壊したのは他でもないソ連側であり、北方領土返還において最も摩擦が生じている部分である。


興味深いのはここからである。

陸軍が決して楽観視などしていなかったことは下記に述べる部分をみれば理解できる


「大本営より全部隊撤収」の命令を受けた北千島派遣隊の隊長である竹田勇大尉。


しかし竹田隊長はこの時、後の日本の運命を左右する行動を起こすのだった。

「機体不良により全機撤退不可能ナリ」「飛行可能ナ機体ノミ撤退ス」


極東の状況をある程度予測していた竹田隊長。

当時の北千島派遣隊の部隊内でも賛否両論であった撤収について、自身を含めた3分の2の戦力のみを撤収させ、残り3分の1を残すことにするのだ。


後任の指揮にはなんと陸軍第54戦隊本部副官である佐藤少尉が選ばれた。

彼が後任に入るということはつまり「54戦隊は極東にて残る」という意思があることを本部が持っていることを意味している。


54戦隊はこの時点で対ソ連のために「大本営から厳しく叱責されない最小限度」の戦力を残すのである。


その戦力とは1式戦闘機3機(部品取り用の予備機1機で4機)

この隼のうち2機は実際に稼動不能であり、実質的には1機ではあったが、大本営に対しては「3機すべて稼動不能」と虚偽報告を行っていた。


この時に残された隼はすべて1式Ⅲ型である。

フィリピンなどで展開する54戦隊はすべて5式戦闘機に機種転換していたのだが、北海道の部隊は1式Ⅲ型に機種転換していた。


コイツは旧式と言われるが実際には単なる旧式ではなかった。


1式戦闘機「隼」

対中露を見据えて陸軍が開発した翼は日中戦争開戦時こそオクタン価100の燃料を潤沢に使い、その性能を遺憾なく発揮していた。


だがそれも束の間の出来事のように時は過ぎていく。

軽戦闘機と揶揄されるように零戦と同じエンジンを搭載しながらも小ぶりな機体は強力な機銃が装備できず、慢性的な攻撃力不足を抱えていた。


攻撃力を増やそうにもエンジン出力などの兼ね合いから難しい。

航空機で重量を簡単に増やせない事は筆者の別の小説「航空機用エンジンを作れなくなった世界で最高の航空機を作ろうと思った」で書いた通りだ。


航空機には増大係数という存在がある。

簡単に言うと機体の重量を1kg増やすのに機体自体の剛性などを合わせると10倍に膨れ上がる。というものだ。(増大係数が10となる場合の話だが、主に現代の超音速型のジェット戦闘機の話でありれ視プロ戦闘機時代はもっと増大係数が低い)


現在の世に存在する軽戦闘機がやたら軽くて小型の割に重武装が可能だったりする反面、そこからさらに性能を突き詰めようとすると途端に非常に機体が大型化する原因はここにある。


この重量バランスの兼ね合いにおいて最も重要なのが「エンジンパワー」であり、エンジンパワーがあればある程度誤魔化せるというのが戦闘機における常識だ。


しかしである。

隼は開戦時こそその異常なまでのスペックを発揮でき、そしてその信じられないほどの運動性を示した映像すら残っているぐらいだが、開戦以降は燃料のオクタン価がどんどん低下し、最も重要なエンジン性能についてはお話にならないレベルであった。


このような状態で「重武装」にするなど言語道断な話である。

しかし進化、発展する米国や英国の戦闘機を前にして何も対抗手段もなく戦うわけにはいかない。


そこで一式戦闘機は改良が施されることになる。

まず改良されたのはエンジンをハ115と呼ばれる零戦21型が装備していたものと同等のものにすることだった。


これにより速力が上昇。

燃料による性能低下分を「別の方向性から補う」手段を講じる事になる。


速度は時速換算で500kmを超えることになるが、それでは足りないということで海軍などが速度向上に装備しはじめた推力式集合排気管を装備。

速度はさらに向上し最高速度520kmをオーバーした。


機銃も初期の改良型こそ7.2mmのものだったが、これも12.7mm+焼夷炸裂弾に変更。

攻撃力不足もかなりの面でカバーする。


これがよく知られる「1式Ⅱ型」と呼ばれる状態の標準形態である。

しかし後期になると「推力式単排気管」を装備することでさらに速度を上げた。


しかしこの頃になるとガソリンの劣化はさらに顕著になり、試験飛行で仮に530kmをオーバーしても実戦ではそこまで出せることなどなくなるのだった。

これには次回以降に説明する理由が大きく関係している。


「何か低下したオクタン価をカバーできる何かが必要だ」


この状況において陸軍の開発者達はさらに低下したガソリンの性能を補う方法を探り出し、そして答えを出す。


陸軍は海軍より先んじてあるモノに目をつけたのだった。

それは「水メタノール噴射装置」である。


詳しい説明はwikiなどを見てもらえばいいが、エンジン内にメタノールを噴射することで加給機のように用いるものである。

これによって「ある程度までオクタン価を誤魔化す」ことが可能なのである。


軽く、小型であった影響でただでさえ加速性能が連合諸国の戦闘機より高かった隼はⅡ型の時点でも「侮れない敵」とされていたが、この「水メタノール噴射装置」を装備したハ115-2をベースにして1式Ⅲ型と呼ばれる「究極の1式戦闘機」が生まれるのだ。


水メタノール噴射装置と推力式単排気管、そしてそこにさらに二段式のスーパーチャージャーまで装備した1式Ⅲ型は、開発者と乗り手をして「零戦などには負けん」と豪語するものであり、実際にすべての性能において零戦を上回っていた。


その性能たるやエンジンパワーを生かして20mm機銃を装備した機体も存在するぐらいで、当時から一部の者からは「1式Ⅲ型が最強の陸軍戦闘機」と叫ばれることがあったのだが、そんな1式Ⅲ型の中でも最強の1式戦闘機三型は「54戦隊」のそれも「北千島派遣隊」の3機である。


独特の迷彩を纏う54戦隊の1式Ⅲ型。

20mm機銃こそ装備されていなかったものの、仕様としては1式Ⅲ型としてすべてを満たす状態であった。


部隊の殆どが撤収した後の1945年7月。

稼動する1機は訓練用に用いられ、荒れた天候の中を飛び回る。


そして運命の時。


1945年8月10日。

広島に続く長崎に原爆が投下された翌日、大本営より占守島残った部隊に打電が入る。

「ソ連が侵攻中」という情報であった。


すぐさま迎撃準備に入る54戦隊占守島守備部隊。

しかしここに来て状況は最悪だった。


稼動する機体は1機のみ。

基地に存在するガソリンは微量でまともに飛行を行えるほどの量もない。

豊富にあったのは20mm機銃の弾丸のみという状態である。


ガソリン自体も質が悪く、残った1機もエンジンが不調気味であった。


この状態で占守島に残った54戦隊はとある行動を開始する。

3日ほどかけて島内の状況を確認し、そしてついにガソリンの在り処を見つけたのだった。

54戦隊の残りの部隊の者は停泊中のタンカーに目をつける。


そして「ソ連侵攻に鑑み、占守島に停泊中のタンカーよりガソリンならびに潤滑油等を接収する」


その際にガソリンの提供を行ったのは他でもない「ライジングサン」である。

本来ならば軍への提供を許されていないライジングサン。

しかしライジングサンは陸軍がガソリン等を求めているという話を聞くと快く提供を引き受けた。


この時提供を受けた54戦隊は知らなかった。

この黄色いホタテが側面に描かれた巨大なタンカーが一体どこから来て占守島に停泊中だったのかを。


それがまさか「パナマ運河を渡ってはるばる大西洋よりロンドンからの長旅を終えて1945年5月末に到着してからずっと停泊していた」ことなど知る由もない。


接収したのはガソリンに留まらなかった。

民生品向けと称された潤滑油なども余すことなく手にした。


1945年8月13日の出来事であった。

続く1945年8月14日。

日本国がポツダム宣言を受諾した日。


54戦隊はパイロッドも総動員し、隼の復活を試みる。

13日から夜を徹しての作業であった。


不思議に思うかもしれないが、実は陸軍のパイロットは基本的にパイロット自体も整備にあるのが基本である。

海軍と異なり「整備要員」だけに任せきりにしない。


太平洋戦争末期において陸軍機がやたらと稼働率が高い理由は「オクタン価75でも稼動できるエンジンだったから」とか「水メタノール噴射装置」であったからとよく勘違いされがちであるが、それは違う。


「パイロットも整備能力があり、そしてそこで得た知識から航空機の扱いにおいては海軍よりも陸軍パイロットの方が丁寧だったから」という理由が大きい。


そもそも1式Ⅲ型の隼においては実は稼動率はそれほどまでによくない。

二段式スーパーチャージャーを搭載し、さらにその上に水メタノール噴射装置まで搭載した最強の隼は、とにかく「整備性は劣悪」そのものであり、整備班泣かせの代物だった。


54戦隊においてもその状況は変わらない。

いや、だからこそ8月14日未明時点で1機しか稼動しないわけだ。


劣悪な質の潤滑油やガソリンは隼を蝕み、そして運用不能にさせたのだ。

だが戦力が復活しない限り、日本国の防衛的勝利などない。

大本営は前線部隊からの情報より極東ソ連軍が「100機近くの航空機で侵攻中」との情報を伝えており、占守島防衛においては少しでも多くの航空戦力が必要なのは間違いなかった。


この状況下において整備班は入手した民生用のガソリン、そして潤滑油などの質が極めて上質であることに気づく。


この時の整備記録に残っているガソリンのオクタン価「96以上ないし96」

それは当時、現場で計測できる限界の95を遥かに超える純度のガソリンであった。


戦時記録においても「96」と主張されているがほぼ間違いなくそれはRDシェルがロンドンにて精製した「100」オクタンのハイオクガソリンであった。


しかしこれまでの酷使により2機は復活しなかった。

通信によりすぐ近くまでソ連が来ているという情報が届き、占守島の54戦隊のメンバーはいつ敵に蹂躙されるかもわからない恐怖の中、必死で作業に明け暮れる。


「お前たちはあの極寒でも音を上げることはなかったはずだ」


きっと整備にあたったものはこんな会話をしていたのかもしれない。

54戦隊の中でも占守島に所属する者たちはとにかく冬に苦労した。

猛吹雪の中での離着陸、1m以上の積雪の中での除雪作業。

-15度を下回る環境下でのエンジン始動。


ここに残った3機はこの厳しすぎる冬までは稼動していたが、2機は春を過ぎた頃にパッタリと稼動しなくなったのだ。


そんな厳しい環境の中で生死を共にした相棒にパイロット達は並ならぬ感情を抱いていた。

54戦隊の隼に特攻機はない。

54戦隊に特攻命令など下されていない。


他の部隊と違い、この迷彩柄の隼は常に命を預けて飛ぶための翼であり武器だったのだ。


それを置いていくことなど出来ないということで残る者を募ったときには多くの者が志願した。

竹田は本土決戦と大本営との兼ね合いからエースを撃墜した腕利きのパイロットを中心に札幌に撤退はしたものの、実は占守島に残ったパイロット達もまた熟練の者たちばかり。


B-24なら殆ど被害を出さずに撃墜できるような者たちであったし、本気でマスタングと1:1でわたり合える者たちが平然といた。


だが現実は非情だった。

2機の隼は復活せず正午を過ぎる。

それでも諦めずに復帰を試みた。


1機だけの隼が第二次警戒態勢のまま無残にも時が過ぎていく。

「ここで引くわけには行かぬ」

「諦めてなるものか」


そんな彼らの思いは天に届いてしまう。


「真の神風」の到来であった。


早朝より濃霧に覆われた占守島。

上陸はそう簡単ではなく、ソ連側は「上陸作戦は翌日以降」と判断したのだった。


しかし上陸作戦の事前の段階に航空戦力を展開し、爆撃などを行って制空権を確保する予定だった。

その予定は見事に「真の神風」によって狂わされる。


占守島の上空は信じられないほどの気流の乱れ。

それは1機残った隼ですら出撃を躊躇うほどであった。


結果、42機いた占守島方面への攻略部隊はその日の出撃を取りやめる。

濃霧により「偵察も不可能」という状況であった。


一方、占守島側の54戦隊の飛行場においてはこれまでの経験から対策が行われており、さらに度重なる訓練の影響もあって飛び立つこと自体は不可能ではなかった。

飛ばなかった理由は「天候不良」ではあったが、もう1つの理由としては「1機での戦闘行為は無謀すぎる」からである。


そしてついにその時が訪れる。


ソ連がその日の上陸作戦を諦めた後、日が沈む前であった。

2機の隼は注ぎ込まれた新たな血により雄叫びをあげ、3機の隼が出揃う。

帝国陸軍最後にして史上最強の1式Ⅲ型の防空戦闘部隊が復活した瞬間である。


パイロット達は翌日の出撃のために休養に入り、整備班達はそのまま各部の調整へと移った。


指揮官の佐藤少尉は8月14日を何とかしのげたことに安堵しつつも今後の状況を見据え、海軍と密接に連絡を行うことにする。


海軍の戦力を確認すると、海軍側にも航空機が残っていることが判明した。

それは97艦攻であった。


こちらも1機しか稼動できない状態であったが、8月14日の朝方にもう1機が復活。

迎撃体制に2機が入っておりいつでも出撃可能とのことだった。


かくして占守島においては翌日にさらに97艦攻1機が復活し、総勢6機での攻撃態勢が整う。

ただし97艦攻のパイロット達は正規のパイロットではなくどこまで戦えるかは未知数であった。


また97艦攻の攻撃武器の1つである魚雷が現時点で確保できておらず、基本は機銃しか使えないとのことであり、戦闘の要はやはり1式Ⅲ型の隼にかかっていることが判明する。


しかしながら連携の必要性を感じた佐藤少尉は海軍側と調整し、航空戦力の共同運営に乗り出すことにしたのだった――

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