1-6 予期せぬ再会
維光が一心不乱にペダルをこぎ回し、家にまで全力で直行していくと、点滅するパトカーが家の前に駐まっているのが見えた。
ぎょっとして、サドルから降り、おそるおそる家の入口に向かって行く。
と、そこでは灯りの元、七海が警察官と何か話している光景。とても、深刻な様相で。
しまった、と維光に襲う罪悪感。あんな道草をしてしまったせいで、母さんにとんでもない迷惑をかけた。どう釈明すればいいのやら。
維光が次の動作に出る前に、七海は息子に気づくと、警官を通り越してすぐこれに歩み寄った。
「維光!」
七海はまさにしかる時と同じ調子で名を呼ぶ。
「一体こんな晩まで何をしていたの! 心配していたのよ!?」
強い力で維光の双肩をつかむ。そのままそばに倒れこむ自転車。
維光はしばし茫然。
「ねえ、もしかして何か考えこんでることでもある? まさか昨日の出来事で気が動転してるとか? とにかく、何かあるなら私に言ってよ!」
顔が一気に紅潮していく。
ああ、これが母さんなのだ。一度自分の伴侶を失っている。僕まで失ったとなったら、それこそ母さんはそのままじゃいられないだろう。
だから僕にこんなに重くあたる。僕は母さんにとって、単なる家族の一人なんかじゃない。
でも――母さんに、絶対訊いておかなきゃならないことがある!
「なあ、母さん、どういうことなんだよ!?」
「何よ! 私にたてつくとでも言うの!?」
声を荒げる顔つきに一瞬ひきそうになる。だが勇気を取り直して、維光は喚んだ。
「あの書が云ってた! 父さんは行使者で、他の魔物を操る奴らと闘ってたんだ。あの書は、ずっと父さんにつきそってた魔物だったんだよ」
七海は、維光のわけのわからない言葉に、しばし憮然とする。
「一体何を言ってるの? あなたは……」
しかし維光はそんな態度で気をくずすつもりはさらさら。
「母さんは知ってるはずなんだ! あの書を見た時の愕いた顔をよく覚えてる。何か隠しごとをしてるんじゃないかって。母さんは僕にその書をずっと保ってるように言ったよね。普通にそれが万引きなら、絶対返してこいとか言ったはずなんだ。じゃあ、なんでそれを見逃した?」
「あの、七海さん」
そっちのけで談す二人に、警官は横から低い声。
「万引きとはどういうことでしょうか。その書を保っていたという件は――」
眉をつり挙げ、必死にまくしたてる七海。
「この子は、ただ少しおかしくなってるだけなんです。書なんて何のことでもありませんから」
維光は母に対して、ほとんど金切り声でわめく。
「頼むから聴いてくれよ!? 僕の父さんはこの世にいて可い存在じゃなかった。だから、僕たちがその、分明からないことに巻きこまれないように姿を消したんだって。全部書が僕に告げたんだよ」
七海の表情が少しずつ、恐怖に近くなっていった。なぜそんなことを知っているのだと、訊きたくて仕方ないかのように。
「だから、教えてくれ、僕が正気なのか、それとも狂っているのか」
事実、維光自身も相当追いこまれていた。あの惑書と名乗った少女は実在するのか、それとも妄想か?
あの幻聴のみならず、その声の主さえ目にしたのだ。もう間違いなく、後戻りできない。
本当に僕は悪霊にでも憑かれてしまったのだろうか。それとも、まだ悪夢が?
確かめるためには、母に訊くしかない。
その母――七海は、心の中で一つの感情を反芻しつづけていた。
「なぜ……そんなことを知ってるの?」
七海の、肩をつかむ力がだんだん弱まっていく。
「僕があの書を見つけた時から、ずっと異常なこと続きだ。友達はおかしくなるし、知らない女の子の声が寝るときに聞こえた」
どうして、この子がこんな目に遇わせねばならないだろう。
盛永からずっと、約束を守るようしつこく聴かされたのに。
「今日、帰る時にあれを捨てようと想って田圃に寄ったんだ。そしたら急に悪い奴らがたかって来ていじめようとしてきたんだよ。僕はあいつらから逃げようとして……川に墜ちた」
維光は、信じてもらえないかもしれないことを承知で話し続ける。
「そ、それで眠っている間に変な夢を見たんだ。自分のことを書の化身とかいう女の子に会った。その子は父さんの名を知っていて……」
「もういい、やめて」
七海は大きく首を横に。
維光は肩の力を一気に抜く。やはり、こんな妄想を垂れ流している僕を信用するわけがないか。
「こんな日が至るなんて思ってもみなかった……あの人のことはもう忘れてしまったはずなのに」
「……七海さん?」
警官は意味不明なやりとりを前に、困惑う他ない。
しかし七海は、息子に対してそれまで抱いたこともない感情に襲われていた。それは不安、さらにいえば恐怖。もう二度と、あの非日常に接する機会は来ないと信じていたのに。
意志と反して、その日の記憶が七海の脳裏に鮮やかに再生されていく。
「僕はあまりにも長い間ここに存過ぎたらしい」
「……どういうこと?」
コーヒーを一杯飲み干した後、背もたれに思いきりあずかりながら、
「行使者たるものがこんな生活に甘んじてはいけない。本来あってしかるべき姿じゃないんだ」
世を虚無むような表情で、その人はつぶやいた。維光がまだ、寝室でぐっすりとねむっていた頃。
「もうこれ以上こんな生き方は許されない。そろそろこんなところから脱けなくちゃな。お前も思うはずだ、惑書」
脇に抱えた、あの書に語りかけつつ。
その眼は、まるでいつもの優しい盛永とは違う。
幾分かの閑寂を添えながら、荒々しい力に満ちた光が奥に満ちていた。小屋に一匹さびしくつながれながら、いまだ若い頃の野望を捨てない老馬のような……
すすり泣きながら、七海は維光をなかば抱きしめている。
「か、母さん、どうしたの?」
今度は維光が困ってしまう番。
「絶対に維光にそんなこと教えてやらないつもりだった。まさかあなたが自分でそれを知るなんて思っても見なかった。……でも、これも運命なのね」
「それは、どういうこと?」
ひょっとして、妄想ではないのか。母さんがそれを知っているということは?
まさか、まだ幻想の内?
「ええ。あなたの父はまさしくそんな風に名告ってた。この世にいすくう悪い魔物たちをやっつける人間だって。私、あの時は全然信じなかった」
「じゃあ、僕の言ってることは事実?」
七海は維光から少し離れると、気分を落ち着かせて、ちょっと笑顔に。
「あの人はいつも一冊の書を肌身離さず保ってた。いくら訊いても、その中身は教えてくれなかったけどね。でも、あなたが家にあれを持ちこんで来た時、直感で分かったのよ」
自分の世界が音も立てず崩れ去るのを、全身に感じる維光。
「つまり、父さんの書と僕の書が一緒ってこと?」
「多分、そうかも。でも――もうこんな時間ね。家にあがらなきゃ」
いまだもやもやした気持ちが収まらない。それどころかますます剛くなっていく。
維光ははやる気持ちを抑えて、その場にじっとたたずんだ。
「あの、すみませんが、お子さんは……」
僅前からほとんど置いてけぼりにされていた警官は、ここぞとばかり割りこむ。
七海は揚がった調子ではあるが、なんとか平静をたもちながらこれに、
「ああ、大丈夫です。もうここにおりますので、事件は解決した、ということで」
警官はやはり釈然としない様子である。
「はあ、分かりました……。ではたった今の会話は、聞かなかったことといたしましょう」
台所のテーブルに、二人は相対して座った。
「一体父さんから、何を聴いたの」
何を訊けばいいか分からないまま、維光はそれしか言えなかった。
「ちょうど、さっきと同じことよ」
七海の顔もややうわついている。
「私も本当は、正気なのか確定じゃない」
少しずつ、その表情には薄暗さがただよい始める。
「けど、疑ってもしかたがない。だから、私が知っていることを打ち明けるしかないのよ」
「父さんが行使者だってこと、最初から知ってたの?」
「いいえ。ずっと、そんなものとは関係のない人間だと意ってたわ」
「じゃあ父さんは長い間それを匿してた……?」
「ええ。私たちみたいな、普通の人には教えるつもりはなかったみたい。『この世に属する者ではない』ってのが理由らしかったけど」
『この世に属する者ではない』――あの少女も、言っていたな。どうやら、これは現実なのかもしれない。信じたくないけど。
維光は迷う。
まだ情報が少なすぎる。魔物とは何だ? 行使者とは?
あの少女は自分のことを行使者である父さんに仕える書と名乗っていた。その父さんは、何かの目的で他の魔物たちと闘っていた。
行使者は複数いる。魔物にしても。父さんや惑書以外にも行使者がいるわけだ。としたら、まさか……?
「でも、たった一度聴いただけよ。あの人の言葉が事実かなんて今さら証拠だてようがない。だって、もうあの人は私たちの前に顕現はしないんだから」
七海はうつむいて、悲しげな眼になっていく。問題なのは、盛永が行使者であったかどうかではなく、平然と母子の前から姿を亡したことなのだ。
再び、あの時の情景と感覚がありありと思い出されてくる。心から感じるしかない、苦痛をともなって。
「ちょっと待ってよ! 全然信じられないわよ!」
七海は盛永の肩をつかんで、叫ぶ。
しかし、盛永の顔は変わらず、冷酷でさえ。
「大体、あなたがいなくなったら維光はどうするの!? 私一人で一体どうさせるつもり!?」
けれど二人の視線は全く別の方向にすれちがっていて。
「こんな所で惰弱な生活に甘んじて、子供さえ為ってしまったのは失態だった」
夫は、ごく事務的な口調でつぶやく。
「何も知らない人間を巻き添えにするなんて、到底許されないことだ……」
それからどんどん外に出ていこうとするので、無理やりこちらへと引き寄せようとする。
「ちょっと待って!」
直後、盛永はその体を越えるくらいの力で向き直り、七海を反対側にはじいた。
「もうこれ以上構ってはいられない……私情に動かされている場合じゃない!」
七海は復一度盛永の背中にとりすがろうとする。だが、良人は、以前の温情をもう備えてはいない。
「きっと僕以外にいい相手なんていくらでもいるはずだ。また幸せにしてくれる人がまたいるだろう」
そんなはずない。私にはあなた以外誰もいないの。
だが、衝動が極まったのか、時間ががつりとえぐり出されたかのように途絶える。
気づくと、七海はその場に一人でとり残されていた。
急いで玄関の外に出るが、あの人の姿も吐息も、何も残されていなかった。
がくりと膝をついて、衝動に駆られるまま。
「いやあああ……」
「お母さん!?」
七海がまたもや泣き声をあげて両手で顔を覆うや、維光は身を乗り出して叫ぶ。
「違う、泣いてなんかない!」
けれど、やはりその感情を隠し徹すことなど、できるわけもなくて。
「あの人にもあの人なりの事情があったのよ……私には分からないけれど。でも、やむにやまれぬ事情が、あったはずなのよ」
母は、手で何度も涙をぬぐいながら語り続ける。
「けど、その書が口に開いてもらわない限り、私は何も知ることができない。維光、あなたは書が語りかけるのを聴いたんでしょ?」
「気が正確なら」 この言葉以外にどう答えれば。
「だとすると、あの書はあなたに心を開く余裕があったってことだわ。中途半端にしか『非日常』を知らない私とは違って、あなたは少しも聞かされてなかっただろうから」
「然而、僕はそんな、そんな大層なこと……」
大都真実だとしたら慄えるしかない。
父さんが遵えていたあの『人ならざるもの』が僕に心を開いた。それが――そんな特別なことなのか? 父さん、そして僕だ。なぜ僕まで巻きこむつもりなんだ?
理不尽に対する維光の感情は、次第に肉体的な反応をともなって来た。
僕はこんなこと、ずっと知らずに生きていた。父さんが異世界に生きた人間だなんて、方今でも信じられない。『魔物と契約して闘う』だ? そんなアニメか漫画のような講釈……
七海はすっかり落ち着きはらって、真剣な面で維光を見つめる。もはや哀愁に縛られて漂うことなんてできない、とでも言いたいかのように。
「あの書に、一度真剣に語ってみなさい」
七海の皮膚にはまだ赤みがついている。
「自分がその世界に身を投げていいのかどうか。答えは、あなたにしか知ることができない」
維光は、ここがどこか理解できなくなっていた。夢か現実か、それを問うことさえも無意味な領域。
「……それ、本気で言ってるの?」
「維光が、私の正気を信じてくれたらね……」
望んでいるものとは、真逆な言葉。
ただそれしか母にとって口にできないことであるのも、痛いほど心にしみた。
全く、どのような気分で生きていけばいいのだろう?
維光はもう、昨日までの虚無感にひたっている余裕はなかった。すでに少年は、日常に生きる人間ではない。
例の書――惑書を机に置いて、何か質問の辞をかけようとはしてみた。けれど、いまだ自分が悪夢に惑わされているかもしれないという可能性――そっちの方がより妄念であると感じ始めてはいたが――が邪魔をして、なかなか行動に出れないのである。
それから、しばらく硬直。書を前になかば石像と化した維光は、とうとう耐えきれなくなってある場所へと向かった。
家から少し離れた、丘の上にある墓地。数十段陟った頂上に墓標が所狭しとならび、そこに母方の墓もある。
基本的に維光には祖先を敬う心情は希薄だった。霊があるなどという思想に対していささか軽蔑していた節さえあった。だが、この異常事態にあってはどうでもいい。とにかく、わらにもすがりたい情況だったのだ。誰でもいいからこの僕に同情してくれ。こんな意味不明な世界にほうりこまれた僕を!
あたりには他の人影はない。ただ維光だけがさびしく、ぽつりと墓標の前につったつ。
空気はやけに乾燥しており、少しばかり暑い。
少年はしゃがむと、目をつむり、重々しい拝んだ。
こんな手段でしか感情を発散することができない自分が無様。
「ああご先祖様、なぜ僕はわけの分からない世界にいるのでしょうか」
答えは返ってこない。ああ、もしかしたら本気出して書に言ってやれということなのか。
別に期待してたわけじゃない。期待すること自体がおかしなことなのだから。
「一体何に祈っているの?」
どこかで聞き覚えのある声だ。
「そこにあるのはただの花崗岩とカルシウムの結合よ。そんなものに祈祷って、何になるの?」
維光の口元に笑いが浮かぶ。そうだ、僕はしょせんこの程度の行動しかとれない惰弱な人間。教えてやるがいい、お前がどれほど無力な人形であるかを。
ほぼ底辺に近い気分をいだきつつ立ち上がり、後ろに向き直る。
「え?」
その姿に、何も考えられなくなる維光。
紫色のころもで身を包み、隅々を金色の光輝がまとうように飾る。腰まで伸びた髪の色は星々をかこう闇より深く、唇は薔薇の花から抜き取ったように赤い。
目はつやに満ちた桃花眼で、一度でも捉えられれば離さずにはおかない力がそなわっている。
少女は少年の視線を認めると、軽く微笑を見せる。
「おや、ここにおいででしたか、維光様」
口角を揚げただけでも、一つの城砦を傾けるほどで、さらに目を笑わせれば国が傾いてしまうほどの。
けれど維光は、何よりもまず、恐懼。
……正夢?
そのまま、がたりとひざを地面につく。
次の瞬間には上半身まで転がってしまい、意識は誰も知らない所に逝ってしまっていた。