1-4 自分の仕事を果たすため
「それ、何の本?」
楓はすぐ、気にする顔で問うた。
「分かんないんだよ。母さんに訊いても知らないって」
実際にはそうではないとしても、維光にはそう答える他ない。
「見てくれよ。ページは全部白色で、何も書かれてない」
「じゃあ、元からそういう風に造られた本だったりして」
「でも、それじゃ何か用途がある?」
結局楓も推測がつかないらしい。
「うーん……どうかしらね」
だが、楓には言わないことが一つ、維光にはある。
父親が、似たものを持っていた――ということだ。ひょっとしたら、関係がある物かもしれない。ただ、ここまで来るとさすがに信じられない説話になるので、ずっと言うことにはためらい。
それに、昨日の夜、突然聞こえてきた幻聴。
一体、あれは誰だったんだろう。外から誰かが話しかけて来たものとも思えない。頭の中に直接響いてくる感があった。そして、初めて聞いた声だ。まるで、引きこまれるような奧深さがあった。どうしても、気にならずにはいられないような。
幼げでさえあるのに、同時に大人しさ。いや、あれが本当に人間なのか、という疑問。
二人は、朝の教室で語りあっていた。
「そういえば……透は?」
楓はそこで陰を帯びた顔つきに。
「電話かけたけど、つながらなかった。ご両親にかけたら、昨日からずっと家を出たまま行方が分からないって」
「ちょっと待って、それってまずくないか?」
危機感を覚える維光。
「ただでさえ様子が元気じゃないってのに……」
楓も似たような心情らしい。だが、維光のようにやたらうろたえることはしない。
「まあ、放っておけばいいと意う。透はいつも気が変わりやすい奴だし」
非常識だな、と心の中で。だが、そういう冷静な対応につとめようとするのもこの子の質だろう。
「つまり……今日の夕方くらいにはもう正気に戻ってるって思いたいんだな」
「そう。何しろ、まさか透が変なことに巻きこまれるって云いたいなら、それこそ映画の過観よ」
だったら、いいけどな。
いや、待てよ、と直前の言葉を打ち消す。
いつの間に僕はこんな日常を好きで暮らしていたのだろう。もう、こんな日常を嫌いで嫌いでたまらなかったんじゃないのか?
さっさとこんな場所から脱け出したいと欲して止まなかったはずだ、僕は。
もういい加減、この日々にすがるのはよしたらどうだ? 何の益もないのに。
「すげえ。おい、その本察してくれよ。俺にも読ませろ」
はっとして、維光は声のしたほうに目。
珍奇なことに興味をしめす好事家たちが、いかにもそれをほしがっているようなそぶり。
「ちょ、ちょっと待てよ」
「維光、それって本屋で見つけたのか? 値段とかは?」
「知らないよ、そんなの。拾ったんだよ」
ただ一人だけではない、二人三人と、維光の振舞に注目し始める。
やれやれ、僕がこんな変なものを手に入れたからと言っていきなり好奇心を揮い起こすのか。これまで教室で浮かないように努力してきたってのに。
「拾った? おいおい、交番とかにとどけでなくて可いのかよ?」
「知らないよ。そもそもこんな怪しいものに手を出す奴なんていないさ」
女の子がこれに反論。
「でも、維光君が現に持ってるじゃない」
「めんどくさいなー……」
維光は席から立ち上がり、本をクラス一同に向かって突きだした。
「なあ、よく分かんないけどこの本はどうもこの世の中にあっちゃいけない気がするんだ。というのはこの本、ものすごくページが多くて……」
流れる勢いでめくりだす。少年の両手におさまる程度の本であったが、そのサイズに反して何十秒経ても読み終わる気配は。
「ねえ、もしかしてそれってページが本の裏に隠れてるって構造なの?」
永歌が知的好奇心を刺激されたような笑顔できく。
「いや、なんだか怖くなって来たんだけど」
まさにそういう言葉と同じものを維光は感じていたのだ。だが、それよりも言いたいことが別にある。
「別にこの書について知ってるわけじゃない。昨日出会ったばっかりなんだから」
おかしいな。なんでこいつらにそんなことを言わなきゃなんねえんだ。
「でも……とにかく、嫌な予感がするんだよ。この本は顕らかに怪しい。それを手にしてしまった僕も、間違いなく何か起こりそうな気がするんだ」
「おいおい、維光、お前は何かの主人公でもきどってるのか?」
ことさらに嫌味な口調で、最初に介入してきた生徒が。
「その奇な本を手に入れたからと言って、お前も何か異った人間になるとでもか?」
「もう、いいよ」
何をばかなことをしているんだ、と我ながら恥ずかしくなる。
どうしようもない、と維光は心のどこかで思っていた。
「僕は別に何か不思議なことが味わいたいだけじゃない……ただ、こんな日々が続くのが嫌なだけなんだ」
頭はうつむき加減になり、すでに深い影が差している。
僕は元から特別な存在でもなければ選ばれてもいない。そんな風に思いあがっちゃいない。
この糞尿みたいな悪夢は、まだまだ。
「だから、何でもないんだ……とにかく、構わないでくれ」
「何だよ……自分から教えてきたくせに」
本を自分の机に置き、そこにつっぷしてしまう維光。楓はため息。こいつったらいつも引きこもりがちなんだから。要するに、自分だけの世界に充足するのを厭うてはいるが、なかなかそこから身を乗り出そうとはしない。
だが、クラスの中でも先頭に立とうとする義務感から、みんなに言ってやった。
「こういうことよ。維光はまだ自分に何が起こってるか理解していないってわけ。私たちにもよくわからないけど……維光はそれを語るのにおっくうってわけ。無気力な態度から察するに」
「違う……無気力なんかじゃない」
実のところ、誰かにたてつきたいだけなんだとは思う。けれど、それをはっきりとは言わないのがせめての矜持。
「ただ……自分がどんな状況にあるか知らないから、じっとしているしかないだけなんだ……」
校舎の東側には自転車小屋が隣接している。細長い形をした建造物の中にはびっしりと自転車が並んでおり、たまにどこに駐めたのか分からなくなるほどだ。
維光は放課後すぐに学舎から出て、自分の自転車がどこか探していた。きつい作業だ、とぼやく。いくら学年ごとに分けられているといっても。
もう数人が小屋に入り、たわいもない雑談をあたりに聞かせた。
あの番組がどうとか、最近出たゲームがどうとか。
俺にとって重要なのはあの書の処分だ、と言い聞かせる。
これ以上かばんの中に入れている奇ッ怪な何かに心を煩わせている場合ではないのだ。こんな日常を解決しないままにして置いていいのか。
いや、でも確かに書を持ってからというもの、母さんはあんな変な態度を取ったし、透は姿を消してしまった。何かがこいつにからんでいるんじゃないか――と、かばん越しに『それ』をたたく。
その時だった、再びやつと再会したのは。
「なあ、維光」
目の前に透が立っていた。視線を外していた時、真正面に現れた。
「おい、お前どうして……」
維光が訊く前に、透がさらに。
「いや、昨日は色々あってさ。一言だけじゃ語り尽くせない」
「じゃあ、何が?」
維光は怖気づいていた。何かがちがう。透は、変に上気した面持ちでこっちを観てくる。
「でも、その前に、ある書を探してるんだけど」
「はあ?」
首をかしげる。透の背後からこともなげに通りかかる一人の生徒。
「最近、この街に最近やって来たらしくてさ。それを見つけ出さなきゃならない」
やけに、顔つきが明るいのだ。いくら時間が長いといっても、ここまで気分が変動することなどありえようか。
まさかこれのことじゃないだろう、とは測う維光。あいつがこれのこと知ってるわけがない。
「なんで、それが必要なんだ?」
「うーん、さすがここじゃ話しにくいかな」と苦笑の透。
だがそれさえも維光にはよそよそしい。
「裏で話した方が可いかもな。まだ部活も始まっていないようだし」
それで二人はその場へと。十メートルはある高いフェンスが三方をかこみ、黄色い砂で覆われた校庭が目前に広がり、背後をコンクリートの壁一面が塞ぐこの場所には、まだ数人もいないようだった。
「大体、今日出席しなかった理由は?」
維光が気にしたのはまずこれ。
だが透にはそれは無関心のことらしく、
「なあ、それより大事なことがあるんだ」
と一方的に切りだす。
維光はこの時点で、透がどうかしてしまったのではないかと不安だった。
「維光だから言ってやるんだよ。その本は、最近ここの本屋に現れたらしい。で、どんな本かというと、見た目はいかにも堅苦しそうで、難しそうなんだ。ところが中身は全部まっしろで何も書かれていない」
うそだ、と心の中で言いかえす。
透は、そこで声をだんだん低くしてゆく。
「でも、どうやら変な本というのはただのまやかしなんだってさ。本当は、それはもっと危ない、危険なもの。だから今すぐにも、見つけなきゃならない」
無意識のうちに、したたる冷や汗。
「『らしい』ってことは、つまり誰かから聴いたということだよな? 誰から知った?」
透の表情が、一気に冷たく。
「それを知るには、僕についていく必要がある」
不安はもはや恐怖だった。
こともなげに手を指しだして、
「頼むから。やってくれるだろ?」
維光は、顔をそむけて体を後ろに向けようと構えた。
「いや、ことわるよ」
不満気に鼻息をもらす透。
「……なぜだ?」
こいつが何を知っていようとも、それが僕にとって有害であるのは間違いない。そうだ……、間違いなくあれのことだ!
「別に、やっかいなことには関わりたくないだけなんだ……今だってもうすぐテストがあるってのに」
口が無意識に笑いかけている。
「そんなことを僕は訊いてるわけじゃない。さもないと」
透の口調は、あきらかにとげとげしく。
そして、腰から何か、銀の延べ棒にもにた何かを取りだそうとする様子に。
だが、一瞬の間を置いて、維光は急にその距離を遠く離していた。
「待て! 逃げるな!!」
なんで俺はこう逃げ足だけは速いんだろう、と自嘲する。
維光は、脚を大きく挙げて、自動車小屋へと韋駄天みたいに直行した。
運動能力は決して上でもないのに。そうか、僕は逃げることばかり考えてたんだな。何から?
逃げろ。逃げろ。
もうこれ以上、こんな日常に構っていられない。
誰もが、いきなり小屋の中を突っ走りつつ奇声をあげる維光に奇異な視線を向けた。しかしそれに気づく暇さえ持たないまま、維光は自転車にまたがるとこの細長い通路から急発進し、ペダルを回してぐんぐん外へと。
維光はその時、笑い声を上げる。
一体、僕は何をしてるんだ。あいつに何かしてやれないのか?
やはり空は無表情で、色を持たない様子。
「やれやれ、逃げられてしまうなんて」
懐中電灯を片手に持ちながら、一人の少年が歩道を踏みしめている。
「あいつなら話が通じると――」
「あんたは思っていた。しかし、奴はいきなり怖気づいて逃げ出した」
不思議なことに、かたわらに人がいる気配はない。ただ少年一人が冷たい顔つきである方向にむかっているだけ。
「おかしいと意うだろ、刺竹。いつもの維光なら僕のことをあんな風に排斥はしないはずだ」
では、この少年に返答を為るのは誰なのか。
「加之、なんだか書のことを知ってそうな雰囲気だった。何言ってんだって小馬鹿にするより、愕いてるって顔だったしな」
維光の野郎は、めったなことでは感情を激変させたりしない。何せいつも無表情で、表情筋を少し動かすだけでも嫌そうな奴なのだ。あいつが感情を一気に明白にする時といえば、楓さんに会話を持ちかけられ、それが永く続きそうになる程度だろうか……。
「わざわざ言うまでもない。俺はもうその気配を感じていたさ」
透のすぐ近く、というより透自身からそのもう一人の声は発せられている。
「……じゃあ、やっぱりあいつが?」
となると、始末しなきゃならないってことか? 少年は、悪寒を禁じ得ない。
もし契約するような事態に至れば、もっとやっかいだ。その時は異能を持った者同士の闘争に発展するとしてもおかしくない。
「お前はまだ行使者になったばかりだから、理解できなんだってわけか? 甘いな」
「いや、確かに維光と向かい合った時から妙な空気は感じたよ。今、僕は決して後ろに引けないがけの上に立たされてるんだって」
「いつでも行使者というのはそうだ。死ぬか生きるかの境界線を歩きながら生きてる。たとえ、結婚して、こどもつくって、息災に生きようとしてもな」
声の主は、透に対して容赦のない口をきく。
「お前があの四条維光とかいうガキとことを張りたくないんなら今の内だ。あの書を無理やりにでも奴からうばう……もっともできるだけ穏やかにせにゃならんってのが癪に障るが!」
最後の方で、少年の奴僕たる魔物は急に大声を張り上げる。
「よせ、刺竹。怪しまれるぞ」
しばらくもだあってから、刺竹は再び低い声。
「何しろ俺は、あの書には個人的に怨恨があるんでね。我が主がそれを希まないなら強いるつもりもないが」
けど僕には、やらなきゃならない仕事があるじゃないか。この下らない世界に一泡をふかせる。それが、この魔物の話にのった最初の理由だった。
しかし魔物は、僕に一つ使命をつきつけたのである。
すでに刺竹以外の魔物がこの街に忍びこんでいること。
そいつを自由にしていたら、より大きな社会の害にならざるを得ないこと。
僕はぜひとも奴を懲らしたいと言った。
けど――なかなか運命は身勝手じゃないか。
よりによって、その書を維光が持っている!
透は、しばし動揺から抜け出せない。
「たとえあんたがその本をぶちのめしたいと意うが意うまいが、僕にどうやら選択の余地はないらしい」
本当のことを言えば、闘いたくないに決まってる。しかし、行使者という身になってしまった今、個人的な情に流されてはいけないのも、また。
すぐに、あいつを元に戻してやらなきゃ。
「その時が来たなら、僕は維光を手にかけなきゃならない」
だが魔物はどこまでも妥協などしなくて。
「というより、その時はもう来ている。魔物に触れたというまさにその事実によって、奴は始末しなきゃならんよ」
激しい電流が透の心を打って、感覚を麻痺させてしまった。
しばらくして、再び強い苦しみが雑念として横からのしかかる。
僕はやはり、こんな世界に入ってしまうべきじゃなかった。
お前には勇気がないんだよ。この臆病者!――
「まさかそんな優しさが通用すると思ってるのか? あいつは一見勇気もなければ強さがあるようにも見えない。だがそういう奴が実のところこの世界じゃ一番あぶない人間だ。この世の旅で何度も遇った」
刺竹は静かな、しかし情けのかけた声で説得する。
勧告というより、強制。
「あいつを生き延びさせれば――お前にとってなかなか脅威。俺の立場もあやうくなる。これ以上あの悲惨な目に出くわすつもりは俺にだってないんだから。
だから、あとは分かるな?」
維光は立ち止まった。長い間、その場に立って静止していた。
やがて、懐中電灯をしまいこみ、代わりに銀色の延べ棒をポケットから取り出し空にかざす。
初めは小刻みに揺れ動いていた腕。それも左右を何回か反復した後、ついにほぼ震えをやめ、とどまる。
透が口を開いたのはその直後だった。
「ああ。だよな。僕の運命は最初から決まってたんだから」
延べ棒が光を放ち、そのもやの中で急に虚空へと伸びて行った。
もやが煙のようにあたりに散っていき、その中から一つの形状が姿を明らかに。
透が握る柄から生えた、長く太い銀の円錐。
さながら、中世の騎士が馬上試合で用いたランスを彷彿とさせる。
これこそが、魔物が行使者に尽くすためのあるべき――『戦姿』。
透はわずかによろめいて、槍を下に降ろす。地面にぶつかり、わずかに亀裂をつくった。
「おい、返事は?」
武器となった刺竹は、やはり人間そのものがしゃべっているとしか思えない声で、透に問うた。
透は槍をもう一度虚空に挙げて、前方につきだす。
「あの書を手にした人間と、断固として闘う。それが今のところ僕の決意だ」