1-3 闇の中、静かなささやき
「ただいまー……」
玄関に入った時、維光は力のない声で叫んだ。
「おかえり。晩かったわね」
七海は少しなじる感じで返す。
それが維光の母親の名前だった。
「まさか、また本屋にでも立ち寄ったの?」 すぐ正面に現れて訊く母。
「う、うん」
維光はその時、妙な違和感を覚えた。一体、何なんだろう。何かが見過ごされている。
「その口からすると、今回も何も買わなかったのね?」
「別に……」
家の中にあがると、テーブルの上にかばんを置き、部屋のそばにあったソファに寝転んで、腕を後ろに回す。
やれやれ、つまんない日常だ。
透はだだをこねているみたいだし、楓もその対処をしかねている。だが今気にかかるのは、一つの忘却。
ええと、僕は何を忘れているんだっけ? 確かさっき――
「あっ、そうだ!」
しまった! 維光は飛び起きる。
万引きだ! さっきあの本を立ち読みしていたら、そのまま正体を確かめようと思ってかばんの中にいれ、そして、何のおかしさも感じることもなくここに来てしまった。
まずい事態になった、伝えなきゃならない。
「あら、どうしたの?」
「え、ええとね」 これは母さん間違いなく怒るな……。無意識の冷や汗。
わずかな間覚悟を決めてから、できるだけ冷静に告げ始める。
「本を探して、一つよさそうな物を見つけたら、いつの間にかそれをかばんに入れて、そのまま……」
途中でためらっていたが、やがて七海の方から口を開く。
「つまり、そのまま家にまで持ってきたというのね? なぜ、レジに行かなかったの?」
「わ、わかんない。本を買うというか、手に入れた気になってたのかも」
「手に入れた、ですって?」
けげんな顔を浮かべる七海。
維光はテーブルの中のかばんに、緊張した目つき。
「とりあえず、それを見せなさい。話はそれからよ」
七海は維光がどうしても動かないのを観ると、自分からテーブルの方に行き、かばんをまず持ち上げた。
「まあ、かなりかさばってるじゃないの」
それからチャックをあけて、中身をのぞく。
「これが――本?」
その本を見ると、七海の顔がどんどん変わっていった。
かつての仇敵を目にして、復讐心が蘇った時のような、それにも近い衝撃が母を襲った。
ああ――まさかこんな所で再会するなんて。ずっと、あれには係わるまいと決意してたのに。
「……母さん?」
明らかに、母の様子がおかしい。
母さんが、この本と何のつながりがあるというのだろう。
だが、まず情報を。
「そうそう、その本、すごくおかしいんだけど中身全部まっしろなんだ。メモ帳って感じでもないのに」
七海は、維光の方に向き直った。あたかも、何か言いたげな。
「あと、何ページ読んでも読み進められないんだ。いつの間にか最初のページに戻っちゃう。明らかに、本のような何かなんだ……本そのものじゃない」
「あのね、維光」
七海は、維光の肩に手を置き、静かにさとす。
「そもそも、これをどこで見つけたの?」
母の体が震えている。それは、明らかに恐怖から来るものだ。声もややうわついている。
「本棚から……だけど。趣味の棚から」
「そうなの」
陰を受けるように七海はうなだれた。
「いや、本屋さんに連絡なんてしなくていい。その本は、あなたが持っていなさい」
「ど、どうして?」
維光の方にも底知れない何かが忍び寄る。本当にここに自分が存在しているのか、あやしい心地に。
「嫌なら、もとあった場所に返すのもいい……けど。いや、やっぱりここに置いとくべきね」
少年は、どうすればいいか分からず、こう問うた。
「その本について、何か知ってるの?」
しかしやはり、微妙な返答を母は保った。
「何も。そうね……昔、この本について教えられたことが一回あるだけ」
分からないことばかりが増えていく。
「一回? いつ、誰から……?」
七海は黙って、本をかばんから掲げ、維光に見せた。
「この本は、ただの本じゃない。人に対して売るものじゃないってこと」
維光はもうそれ以上のことを母から聴きだすことはなかった。それを自分の元に保管しろと忠告するばかりで。
なぞが逆に増えてしまったことに、維光はどうしようもない気持ちになった。母さんは、明らかに僕に対して隠し事をしている。
寝るしたくの間にも、その悩みはとけない。最初に本を見つけた時の、あの既視感は何だったのだろう? 父さんとの関係は?
自分の部屋で、本を勉強机の上に置いて、ベッドに寝転がる時も、その考えはやむことがない。
これしきのことで悩んでいる自分がおかしくもなってくる。頭の中の現実をこねくり回した所で、目の前は何も変わらない。愚にもつかないことだ。
消灯。
透は一体どうしたんだろう? 楓は今頃何を? 永歌は?
もっと楽しいことを考えるべきじゃないのか。明日にでも。もう今日は休もう。時間は限られてるんだから、無駄につかれるのはよさないか。
うん、僕は眠いぞ? ねむい。
……それから、維光はなんとかして寝ようとした。
けれど、いきなり妙な束縛に襲われ、寝付けなかったのである。金縛りにも近い感触だった。
これは、何だ? 動けない……! 維光は戸惑った。そんな、まさか疲れがこれほどにたまっているなんて? 無意識にためこんだのか?
ねえ、あなた。
突然、頭の中に別の声が割りこんできた。維光の声ではなく、別の声が。
誰の声とも知らない。まるで頭の中で音楽を再生するときと同じ要領で、知らない『声』がかかってきた。
あなたは――それで十分なの? そんな弱い姿で?
女の子のような声。
何だよ、お前! 維光は叫ぼうとしたが、口がきけない。
いつまで現状に甘んじているの? 何一つ、変えようとしないままで?
どこにいるんだ? どこからしゃべってくるんだ?
あなたこそ、自分がいる場所を知るべきなのよ。今、あなたはその場所で満足してるの?
維光は、必死でそれを聴くまいとした。なんなんだ。悪霊にでもとりつかれてしまったのだろうか。こんな幻覚に、惑わされてはならない。
知るかよ、僕にとっては生きるだけで精一杯なんだ。それが満足かどうかとか、評価するひまなんてない。
本当は、何一ついいなどと思っていないなのだ。誰が望んで、こんな境遇に身を委ねる?
ふざけんな。維光は少女に対して、激情を顕した。
その時、金縛りが急にとけ、少年はぐっとびくつく。闇が、四方から包囲んでいる。ベッドの感触は、やわらかいまま、変わっていない。
感覚が急に返ってくると思いきや、再び少女の声が脳内に飛びこんだ。
それなら、あなたはだめ。このままでは、だめなのよ。
維光は、恐怖と嫌悪感のあいなかばする感情を初め持った。だが突然の異常現象に、理解するよりただ驚いている方がよいととっさに判断した時、じわじわと虚脱感。
続いて睡魔がやって来て、維光の後味わるい気分はどこかにいってしまった。
透は、繁華街の一角であてもなく徘徊。
「何なんだよみんな……僕にあんなよそよそしい態度とりやがって」
立ち並ぶ看板の電光がきらめいて、あたりを明るくする。上を向くと、黒一面の空。コンクリートかアスファルトでぬりこまれたかのように殺風景。
こんな夜中でも客足が街から絶えることはない。どこを向いても必ず店の出入り口――光り輝く文字で、あやしげな文字を描いている――を往来する人がいる。どうも、中年から年配の人が多いらしい。
何一つ、心の癒されることはない。
透が目にするもの、みな荒涼。
そもそも親と口論になった時、ことを収めようとして下手に出てしまったのが始まりだったのだ。最初こそまだとりつくろうための言い訳をする余地はあった。だがあらゆる言葉が複雑にこじれあった結果、透はついに家を飛び出してしまった。
テストが悪かったからだろう、と最初は推測。だが、もしかしたら社会に嫌気がさしていたからではないだろうか。要するに、気にくわないのだ。この社会が求める人物像を、言われるまま構築していくのが。
中二病だ、と自嘲。今さらしょうがない。僕がそこまですねた人間とは、少し認めたくないけども。
透は、ある小さなレストランの窓を遠くからのぞき、中で騒いでいる数人の男女を観た。外にまで漏れてくる言葉。どうせ、乱痴気騒ぎになるのが関の山。そもそもこんな時間帯に外出する人間にろくな奴はいない……。
「あの陰気な連中が……」
透は鼻で笑ってから、方向転換しようとして足を後ろに向け――何者かに衝突。
「いたっ……」
不意に後ろへとしりもち、透。
次に目を見開いてぎょっとする。体格の大きな人間なのだ。髪も逆立っている。服は、少し色の黒いトレンチコートとおぼしいが、やや獣の皮みたいにざらざら。
しまった。こんな所で逃げなきゃやばい。
男がいまだ横を向いているのをいいことに、透はすぐ立ってその場を去ろうとした。
しかし数歩を数えたところで、
「ちょっと待て、少年よ」
透をまじまじと、声を発する。
実際危険だったのか、危険と感じたのか分からなかったが、少年はすぐ停まる。
透は動揺していた。こういう時、相手の声には耳を傾けた方が良い。下手に逃げるよりは。
「はい……何ですか?」
この男、もしかして金を要求するつもりか。財布は……くそ、こっちは丸腰だ。
半分観念しながら、まだ機会をさぐろうと身構える透。
「ああ、俺がそういう奴に見えるか。何しろマブツ一つ一つにそういう特性があるんだし、当然だよな」
危険どころか、明るい調子でさえある男。
マブツ? 聴きなれないな。
「だがこっちには分かるぜ。お前は人間。それにコーシシャではないってことくらい」
透が意味を探ろうと知りかねている時、そばで自動車が何回か行き交った。
「ど、どういうことですか」
「お前、いかにも陰のある姿してるな」
男は透に近づいて、あっけにとられている姿を見下ろした。
「ひょっとして家で何か嫌なことでもあったか。それとも、学校か」
透にはすでに、恐怖よりは不審の方がまさる。
「ど、どうしてそんな方向に持っていくんです。何か所望のものがあれば差し上げますよ」
男は笑って左手を横に振る。
「いやいや、俺たちにとって人間が持ってるものなんて全てむなしい。そうではなく、お前が考えてることだ」
『人間が持ってるものは全てむなしい』? 物質的なことだろうか。『考えてること』……?
透がその心をとらえるために脳を働かせていると、男はため息をつく。
「分かりやすく言うぞ。俺が求めているのはお前らの持ってる冨とか、名誉とかじゃない。お前らの中で、も、俺が従おうと思うだけの『権威』を持ってる人間だ」
ますます、こんがらかる。『権威』とは何か。この人は、何を探しているのだろう?
「お前は、今何を考えてる? こんな夜の中さまよわせるくらいに満たされてないこと、それは何だ?」
腕を組んで、まごつく透を静かにうかがう男。
透は、ひとまずこう理解する。この人は、どうやら僕の考えが知りたいらしい。そして、そのことがこの人自身に大きく関わっている……。
「そんなの、簡単なことですよ。僕は全てに嫌気がさしてしまったんです。学校の奴らは世の中を何のかいもなく生きてる。父さんも母さんもただいい成績を上げろと言うだけ。僕自身がやりたいことには目もくれない」
自分のふんまんを、ありったけこの男へ。
「……その『やりたいこと』って何だ?」 つまらなそうに返す男。
「えっ?」
「お前には何かやりたいことがあるが、それがみんなのせいではばまれてるって意味か」
透は少し迷う。確かにどうしても納得できない部分があるのは事実だ。しかしその不満が取り除かれた先に何があるかと尋ねられると、どう答えれば。
解決したところで、何がある。そもそも、どうやって?
「そ、そうかもしれませんね」
男はうたぐるような目つきになっていった。透の心の中にある物を、今にでも取りだしそうな勢い。
その時、透にはふと男が人間とは違う何かに見え始めた。
「いや、お前が言う『やりたいこと』はこの世の中に反逆することだろ」
『何か』は、はっきりとした声で。
「忌まわしい奴らを、その手でうちたおす――そういうことだ」
透の中のもやもやした気持ちが、それで雲散霧消する。
ずっとその欲望に彼は憑依かれていたのだ。だが、それを固まったものとして思考することはできなかった。それを、今他者から告げられた。とりとめもない気分は、今や確信に。
目の前の『何か』は、それに対して乗り気の表情だった。透には、『何か』が急に頼もしい存在に見えてきた。
「お前はずっとこの世界に不満を感じてきた。それをただ心の中の幻想をいじくるだけで済ましてきた――だがそれではいけない! お前は自分がまさに転機にあることを知れ。残された時間は決して多くないんだからな」
そうか、僕は奴らに目に物を見せてやりたかったんだ……自然と口角の揚がる透。しかし疑念はもう一つ。
「でも……そのための手段が、何かあるのですか?」
「よし来た! 俺はまさにそのためにここにいる。この世界の中で一つの『道具』として活動するためにね。俺は人間の下で使われるために存在する。お前の『道具』になれるのなら、喜んでこの身を献すよ」
透は、とっさにこう訊ねた。
「『道具』とはどういうことなのでしょうか」
すると、下半身をおろし、立膝をつく形になって、静かに。
「つまり、お前は俺の主。俺はお前に仕える奴僕。お前は俺に命令し、俺はお前に服従する。だがその前に、一つやっておかねばならないことがある」
「……え?」
動揺する透。だが、立ち上がった『何か』は道の前後を見回してから、その耳元にささやく。
「さすがこんな所で長話はまずい。裏路地に回るぞ」
はっとして《何か》の向こうに目をやると、数人からなる集団が、遠くからけげんな視線。
「臣従関係なら、当然両者の間で約束しておかなきゃならないわけだ。行ってしまえば一種のサービスの提供。――分かるな?」
二人は、人気のない場所、二つの建物の間に走る通路に隠れていた。
透からは『何か』の姿がはっきりと見え、逆に《何か》からは街灯がまぶしく見える位置で。
「はい」
「じゃあ、お前がこの儀式を遂行するために俺に忠誠を誓うよう質問しなきゃならん。俺はこの日本じゃ『刺竹』と呼ばれている。一つのあだ名と思ってくれればいい」
「つまり、本名じゃないんですね?」
心臓の鼓動がだんだん速まっていくのを感じる透。
「本名は、お前ら人間には発音できんさ」
意味ありげな口調、低い声。
「さあ、時間はない。俺に訊くがいい、『お前は我がしもべとなる覚悟はあるか』と」
もうここまで来たのなら、もう後戻りはできない。
心の中でわずかに後悔はある。しかし、自分がした選択をなぜ否定できるだろうか。それらは総全、自分の本心から出たこと。
透は、おそるおそる言った。
「じゃあ……行きますよ。刺竹さんは、僕の言うこと全部、聴き従いますね?」
「ああ」
再び、立膝をつく刺竹。
それからはもう、黙っている。まるで透に催促するかのように。
透は、思いついた言葉をとっさに口にする。
「もし、僕が刺竹さんを危険な目に遭わせることがあっても、恨んだりしませんよね」
「異存はない」
一体、僕はどうなってしまうのだろう。そしてこの人は、僕にどうやって復讐の手段を提供してくれるというのだろうか。だが、もう後戻りはできない。
「そして、もし僕自身が危険な目に遇ったら、刺竹さんはどんな状況であれ僕のために身を挺してくれますよね?」
「そうだ。よし、こっちから行くぞ。俺はお前の約束を理解した。今度は俺がお前にその報いを与える。お前は今、俺を道具として行使する権利を求めた。その権利を正式にするために、俺は今からお前にその権利に見合うだけの権威を認める。ここに手を置け」
右手を伸ばして透に差しだす刺竹。
反射的にその手をにぎる透。
これは明らかに、人間の手ではない。『物体』のような肌触りだ。骨も血も、通っているようには思えない。なるほど、さっき感じた『何か』なわけだ。
「今から知ることになるよ。もうお前は『権威』を持つ存在だって」
透の体が一瞬ひきつった。得体のしれない力が、全体に流れこんでくる。
もう自分は、これまでの僕じゃない。
もう何も怖くない。
「刺竹さん――いや、刺竹。お前は僕のものだ。これからはお前は僕に従わなきゃならない。僕はお前にあらゆることを命じるだろう。やってくれるな?」
自信に満ちた口調で、したり顔をうかべる透。
「よく言ってくれた、我が主。我が頼んだ人」
痛みにも似た感触が頭を打ち、透はめまいがした。直後、手がくだけた幻覚に襲われ、歯をくいしばる。
人間と魔物がつながる地点で光の爆発が起こり、あたりをまきこんだ。
透は、何も見えなくなった。