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2-19 反逆の意思

「……そうか、奪いそびれたか」

 報告内容がはなはだ不本意なものであったとしても、佐井はさして気にしていない口調だった。

「まだ機会が完全になくなったわけではない。奪おうとすればいつでも襲える相手だからな。憂えるに足らん」

 スマホでの通話を切り、佐井は小川に語りかける。

「あのガキのせいだとさ」

「まさか奴のせいで気分がかりかりしていたのか?」 小川は依然として感情の読み取れない話し方で佐井に応える。

「夷川透の奴が介入してきたんだ。楓が惑書を奪ってそのまま逃げようとした時に、奴は急に現れ惑書を拉し去った」

「度胸があるな」

 肩をすくめる佐井。

「度胸? ふざけるな、行使者となってからまだ月日もたっておらんガキに一撃をくらったのだぞ」

「慢心のしすぎではないかな。そこが貴様の欠点というべき所だ」

「小川、お前はなんと口の軽い奴だ……」

 ――お前こそ、魔物を喪った惰弱であるくせに! 佐井は心の中で小川を見下す。

 とはいえ、小川がそれ以前は一角の、抜群の使役才能のある行使者だったことも熟知していた。

「主よ、小川どのは忠告しておられるのでげすぞ。またもやこの失態が起きぬようにと」

 佐井の下半身を覆う滑脚が『足元で』ささやいた。

「滑脚、以前俺が言ったことを忘れたのか?」

 佐井は僮僕のこういう性格を目前(まのあたり)にするたび、いらつきが生じる。

 ――魔物にとって行使者は従うべき対象だ。

 二人の会話を聞き流しながら片隅に小川はつったっていたが、ふと思い出したかのように、

「ここの空気は悪いな。ちょっと一人にさせてくれないか」

 小川は薄暗い部屋を一度見渡してから、出ていった。

「いいだろう」 佐井は、

 ――そろそろあの男から離れるべき時かもしれん。

 狭い通路にさしかかった際、頭を挙げて空へ目を移す。

 板や煉瓦の空隙をぬい、ちいさな星たちが耿々と闇の中で照っている。数十年前から不変(かわらず)、この流転する大地を見守り続けて来た存在だ。

 魔物も行使者も、空にいる星に比べればごくわずかな年月しかこの地球で過ごしてはいない。

 ――こんな場所に甘んじている時間は、いくばくもない。

 小川はあせっていた。佐井という男に道具として使われ、あるいは逆に道具として利用しながら、ここ数年、『魔物を持たない行使者』として小川は生きている。

 ある意味では、奇跡といっていい状況だ。同時にその状況に対し激しい恥をも感じる。

 かつて行住坐臥をともにしたあの魔物はふがいない息子が所有するようになり、自分と同じような道をたどりつつある。この不可思議さ。

 あれは、決して家族を想っての行為などではない。一般の人間に偽装して、常人と交わって家族を持つなど、行使者が姿をくらますための常套手段の(ひとつ)

 維光も、七海も、一度訣れてしまえば思い出すこともないはずだった。

 しかし、そのままではいられない。維光が、行使者となってしまったからだ。しかも、かつて自分が所有していた魔物、惑書をたずさえて。小川は、危機感を覚えた。惑書があまりにも厄介な場所に存在しているからだ。

 奪還しようとすれば、できなくもない。

 だが、維光と会ったら、維光はその時どんな顔を?

 不思議な葛藤に縛られ、そこから脱することができないのである。小川はその理由を察しかねた。

 ――佐井を、裏切らねばならん。

 方法は? いっそ、あの息子の前に堂々と現れてやってもいい。しかし、何が起こるか。またもや、小川は謎のためらいにひたる。

 その時だった。長いこと聞いたことがなかった、その声が聞こえたのは。

「四条盛永、そんな場所にいたのか?」

 一人の青白い光に身を包んだ少年が、静かに立っている。白いシャツを着て、青いジーンズをはいた現代風の。そこだけ光が当たったかのように、

「……(しろがね)

 小川――いや、四条盛永の体が震えていた。ヘルメットのバイザーがさえぎり、見えないはずの顔が、その時恐怖に打たれていた。

 ぶつぎりの声で。

「お前は、なぜ、そこに、いる」

「五年前のことが記憶にないようだね。あの時、僕は君と惑書に出くわして、そのまま君たち二人を無力化させたんだったっけ?」

「い……いうな」

 不可生(ありえない)と、今でも盛永は断言する。

 魔物は、主に抵抗しえない。主を見捨てて逃走するなど、起こるはずがない。だが、あの時のそれは!

 惑書は、盛永を捨て、銀の元へと去った。

「あらゆる魔物が魔界からやって来て、今もこの地球上にあふれ続けているのは知っているはずだ」

「お前が、惑書をそそのかして、私と奴の契約を解消させたのだろう!?」

 銀は――魔物であって、魔物ではない。

 恐らく、行使者との契約を必要とする普通の魔物より、一段上の魔物。

「勘違いしてくれるな。惑書は元から君みたいな人間風情に従う存在なんかじゃない」

 少年は、脳内に直接響くようなかたちで盛永にしゃべる。

 盛永は、衝撃で言葉が出なかった。

 ――全く、わけがわからない。

「な……に……」 惑書は、誰より行使者に従順な魔物だったはずだ。

「惑書は僕と同じで、この地球における行使者同士の戦争を監視しているんだよ」

 少年の輪郭は、つけば崩れてしまうのではないかと疑うほど、繊細で重さを感じない。

 だがその言葉は、盛永の精神を(ななめ)にゆりうごかすほど、にぶく圧迫(のしかか)ってくる。

虚言(でまかせ)をつくな」

「ついてなんかないさ。惑書は魔界から派遣されてきた調査局の一員だよ。四千年前から休まず調べ続けて来た。僕に比べればずいぶんのろまな労働方(はたらきぶり)だったらしいけどね」

 ――魔界のことを、この魔物は知っている。間違いなく普通の魔物ではない。

 そして、惑書もこの魔物と同級らしいと。いや、きっとだましているに違いない。

 盛永は、全力で銀の語る言葉を否定しようとした。

「佐井は僕をつかまえれば魔物の真実が分かると言っているらしいが……残念ながら意味なんてない。人間たちには関わる必要のないことだからね」

 盛永は、ついにヘルメットをぬいだ。汗を顔から垂らし、眉間を盛り上げるくらいしわをよせている。

「貴様は、我々の内実を知って一体どうするつもりなのだ!?」

「魔界の政府でもこの地球に追放された魔物たちの恩赦を立案しているらしい。彼らをこんな世界に流刑にするのは罰として重すぎた……。すでにこの慣行(ならわし)が一般化してしまったせいで逆に魔界の上層部からは批判も――」

「黙れ!」

 盛永は叫ぶ。

 こんなこと、聴きたくはない。

 惑書を奪ったこと自体が、この銀の罪なのだ。その罪に報うためなら、盛永はどんな苦労だって惜しまない。

「彼らはこの地球に存在している時点でもう本来の魔物なんかじゃない。行使者との契約を必要とする時点で魔物としての権威を半分落としている。

 けれど、惑書は別さ。だから平気で主に逆らえるし、時には暴力だってふるえるってわけ」

 こんな魔物の言うことに耳を貸してはならない。聴覚を遮断しろ!――

「君も魔物と契約した時点で人間の力を半分失っている。魔界と地球の人間に戻れるなら、それはいいことなんじゃないのか?」

「黙れ。黙れ、黙れ」

「やはり、人間風情には何を語ってもだめか……」

 あきれる銀。

「だが、僕はもう言ってやったんだぞ。惑書は人間の下につくような存在じゃないって」

 盛永には、銀の吐気(はきけ)する長広舌などどうでもよかった。

「銀、お前に告げてやろう」

 怒り。そして憎悪。どこまでもたばかり続ける銀に、おぞけさえ催す執着心。

「俺は必ず惑書を取戻し、お前を倒す」

 少しばかりの沈黙。双方の感情が、そこには生々しく現れていて。

「やれるものなら、やってみるがいいさ。どれほど時間がかかろうとも……」

 哀れむような口調さえ示した後で、銀はそこから霧のように消え去った。

「小川、どうした」

 佐井が近づいた時、もう小川はヘルメットをかぶってすっかりこごえた感じでたたずんでいる。

「何でもない。昔のことで感傷にひたっていただけだ」

 小川はさらっと答える。

 あの魔物、どうやら結界か何かの術を使っていたらしい。でなければ、あの口論に佐井が気づいていないはずがない。

「……そうか。しっかり休めよ」

 ――この男を、いかにして捨てるか。

 佐井は、小川を信用してなどいなかった。所詮は、一時的な利害の一致で協力しているにすぎないのだから。

 ――いつまでも飼っているわけにはいかん。捨てるときには盛大に捨て去らねばな。

 小川は、その後姿をながめつつ、いかにして佐井を裏切ればよいか思案にくれる。

 ――あの狐、どのようにしてだましてやるか。惑書を奪うのはそこからだ。

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