2-18 喝
……これで僕は、お父様にまたもや罪を犯すことになるな。
透は胸全体に銀色の装飾を身にまとって、闇夜、道路の上を駆けていた。
透が腕を伸ばし心に念じると、長く連らなった鎖がほとばしって、アスファルトの地面を利くうがつ。その直後、鎖が縮んで刺さった地点にまで透の体を運ぶ。
それを何度も繰り返しながら、遠野山に急いで向かっていた。
「維光を、殺さなかったのだな」
「当然でしょ。私の……」
楓は、そこでふと口をつぐむ。
昔なら、維光を友達を認めることになんら疑問を持たなかったに違いない。
しかし、もう自分は行使者なのだ。人間ではなくなってしまった。すでに、維光も。
なら、今や楓にとって、維光とは何者なのか?
楓は、できるだけ何も考えまいとした。考えまいとしたが、どうしようもない疑問がのしかかる。
――私がすべきことって、一体?
天薙は古びた腕輪の形で楓にとりついている。脇に惑書をはさみ、動かないようにきつく抑える。
「どっちにしろ、私がすべきことは佐井さんに惑書を渡すこと。他のことはそれからよ」
――維光がどうなるかなんて、今の私には問題じゃない。
楓は跳躍した。もはやこの場に用はない。両脚を高く、素早い動きで森の中を駆け抜け、帰ることだけを念じて、道ない道をひたすら突き進み続ける。
――私は維光を本来の姿に復すために闘ってるの。他意はない。
楓は急ぐ。数メートルの距離でさえ、ずっと遠く険しく広がっているように見える。
すぐに帰らなきゃ。楓も人間としての生活を続けている以上、人間的な時限を大切にしていないわけではない。このままじゃ日が暮れてしまう。
その時、一つの叫び声を楓は聞いた。それは、楓がよく見知っている人間の。
予想だにしない事態に、楓は抵抗するすべを知らなかった。
「楓さん、すまない!」
誰かの硬い体が衝突し、楓は不意に動きを止める。襲撃者はのけぞった楓の腕をつかみ、荒々しく何かを取り去った。楓は、反射的に天薙を実体化させ手につかんでいたが、
「これじゃ……また永歌さんに心配を……」
最後まで敵の声を聞くことはなかった。やつは楓がためらう一瞬の隙を突いて惑書を奪ったのだ。
楓が斬りかかろうとした時にはもう暗闇の奥へと。それに、声のせいだ。声のせいで、楓は敵意をほとんどそがれてしまっていたのである。
「透……!」
「小娘、逐え!」
天薙がどなる。
「だめ……姿を見失った」
反対側をにらみつけるが、木々と草むらがどこまでも続く光景をおぼろげに確かめるばかり。
忸怩たる表情、天薙を握る手をがくりと垂らす少女。
「ええい、何をしょげておる!」
天薙のうなりが、楓の無念さを激しく刺激する。
あまりに不本意な事態でありながらも、透が
「透……」
「ふへへへ……僕は何者でもない……」
維光はけたけた笑いながら、がくりと膝をついている。
維光はあまりに永い間そこで狂ったみたいに座りこんでいた。それが急に、正気を奪還したのは――
「え?」
目の前に、黒髪の美少女。
丸顔で、金の模様が走る紫色の衣に身をつつみ、蛾のような眉に瞳。
「お覚醒ですか?」
維光は茫然としたまま。実際、自分の魔物とは分からなかった。
「ぼ……僕は……」
惑書は奪われたはずだ。そいつがここに立っているなんて理に合わない。
「夢、なのか……?」
「夢じゃない。現実だ」
はっとして、視点を横に移すと、やはり黒髪の角ばった顔で、目つきもさほど良くない、気のしれた奴の顔。
「これは本来、行使者としてあるまじき行為なんだろうな。行使者が行使者を済けるなんて」
透は、後ろめたい口調で語りかける。
維光は二人の顔を繰り返しながめながら、ふたたび問う。
「ど、どういうことなんだ……こりゃ」
――こんな状況、ありえるわけがない。これは幻想なんだ!
惑書は思いきり馬鹿にした声をあげ、
「しょうがないわね。よーし」
維光の胸へと飛びかかった。
「がっ!?」
惑書の指が維光の胸にのめりこみ、心臓を全力で殺しにかかった。
魔物なみの力のせいで、その痛みは、拳で殴られるより数十倍。
「うあああ!!」
アスファルトにばたりと倒れこむが、維光は、やはり悪夢の中に自分がいると錯覚し続けた。
「どう?」
――惑書さん恐い……。透は武者震いと思いこもうとした。
「こんなこと……あるわけ――」
「維光。僕は、君を見返してやったまでだ」
透は、しゃがみこみ低い声で言いきかせる。
「と……透?」 うそだ、こいつは楓におどされてるし、そんな生意気なまね、できるわけが。
「だってって、僕は君に一度魔物を倒されてるからな。だからその時の復讐をしてやったつもりでいるんだよ」
「復讐……?」
まだ残る激痛で、よく聞き取れない。
「透様は決して正義とか友情を重んじる方ではないのですね。気に入りましたよ、あなたの性格」
「別に、もやもやした情があるから素直に感謝できないだけですよ」
透は、惑書を女性として扱った。
「これは、現実なのか」
現実を虚妄としてしか受け止めない維光。
「僕は、君に嫉妬してるんだ」
親友からすれば、実に透らしからぬ言葉。
「君は昔から僕より強い。永歌さんを助けた時も君が初めに助ける気を起こしたんだろう? 加之、お父上をついで、行使者の責務をつとめている。とても、僕の及ぶところじゃない」
――むかつく。
お前は永歌にも楓にも好かれているし、契約したばかりの魔物を精細に使いこなしている。
「……好きでこんなことをしてるわけじゃないんだよ……」
維光は、透を心底ねたましいと意った。
「僕は、君みたいに私情を棄却ることなんてできない。あの時、楓さんを倒すこともしようと思えばできたろう。だが僕には、君みたいに一線を越えることなんてできやしない」
「なんで俺が、一線を越えただなんて言える?」
「そりゃ……君には、失うものがないからだろ?」
「は……!?」 ――俺は、お前がうらやむほどの、大きな器じゃない。
透に対するいら立ちが加速していく。
「いや……僕の妄念かもしれないが、君には、僕がないものがたくさんあるってことさ」
――こいつは隠してやがるんだ。こいつは、俺を小馬鹿にしてやがるんだ。
維光がきれて気炎を挙げようとした時、
「……帰りましょう」 惑書が知ってか知らずか割って入る。
金蛇も口(?)を開く。
「ああ。芳郎さんに心配をかけるわけにはいかないからな」
そこでようやく、透の全体的な体つきに目をやった。明確に、普段の透とは違う。
両肩から胸に至るまで、銀の鎧のような衣装。両手は機械のように角ばったつくりで、手の甲には何か出し入れする穴。
これが、透の魔物。あのどこか力にとぼしい青年とは大異。
「かけ続けてるよ……ずっと昔から……」
急に、気力の抜けた感じでつぶやいた。
直後、金蛇は煙をあげつつ急に小さくなって、透の首をなぞる灰色の線になる。
維光の手をつかみ、
「さあ、行こうか」と小さな声。
「誰が、お前なんかと……」
維光はどうしても透とともには立ち上がる気にはなれず。
「主よ、それは僻みですか?」
ぎょっとして、悶絶した表情になり片手で顔を隠す。
「うああ……」 ――くそ。この野郎は、いつだって俺の一歩前を進んでやがる。
「維光くん、僕は見返りを果たしたまでだからな。何か恩を要求するわけじゃない」
透の声は、いやでも維光には響いた。
「ただ、君が追窮められているのを観ると、どうしても何かをせずにはいられなくなるんだ」
「……ふざけるな」
「主よ、もうおやめください。家で七海様がお待ちですよ」
維光は、しぶしぶ惑書の忠告に遵った。
「あなたがこんな結果をまねくのは最初から分かっていた」
透に対する悶々とした感情がおさまりだすと、次第に惑書に対する罪責感、そして恐怖にとってかわった。
「何しろあなたは……こんな惰弱なんですからね?」
叫びと同時に、惑書の両手が首をすさまじくしめつける。息が絶え、体がけいれんしだす。
壮絶な苦しみに維光は、一瞬死んでしまいたいとしか思わなかった。指が心臓を衝いた時の比などでは。
「やめ……やめ……」
目玉をひんむきながら卒倒しかける維光。
「これが、あなたの現状なわけよ。」
少年がぴくぴく床で震えていると、
下から七海の声がする。
「維光も、惑書も、もう寝なさい。夜なんだから」
七海はひどく落ちこんで帰ってきた維光に、口づけしただけで、何かなぐさめることはなかった。
維光の理解不能な悩みに下手によりそおうとしてはいけない、と知っていたのだ。その気遣いが少しだけうれしかった。
同時に、誰にもなぐさめてもらえないという孤独を。
「はい、分かりました」
惑書は下に向かって叫んだ。人間とは違い、張り切った様子もなく大きな声を出すのが魔物。
「さて。明日何があると思います?」
死にかけの主を見下ろして、元気そうに質問。
維光は、またもや絞首の憂き目にあうのではとひやひやしながら、
「文化祭の……役割決定だな」
――次あれを食らったら、本当に終焉だ……。
「そう。普段通りの様子で登校してくださいね?」
そして、白い霧で体を覆い、机の上に書物として自分を置く。主が寝ている間、ずっと惑書が書の形をとってそこにいる。
維光は、あの第二撃がやってこなかったことに安堵すると同時に、深い寂寥を覚える。
――惑書でさえ、俺のことを分かっちゃくれない。過近ぎるからこそ、逆に、見えてないんだ。心の奥底が……。
俺は孤独だ。惑書はただの下部であって、対等に奥底を打ち明けられる相手なんかじゃない。
これからずっと、一人ぼっちか……。




