2-17 少女たち
――楓さん……。苦々しい感情が、その名前に対して沸き起こる。
透はやはり部屋にこもり続け、その心の呵責に耐え続ける。いや、打ちひしがれそうになっている。
「僕はやはり、行使者に元から向いていないのだろう」
ベッドの上で自嘲する透。
「透、行使者とは適応していく者なのか?」
金蛇は椅子に座って、主に尋ねる。
「さあ。刺竹の時は何一つ考えてなかったさ。ただ、維光を倒さなきゃならない、という使命感にもえてばかりいた」
「それは、維光を倒せばいいということだけでその時は頭が一杯だった、ということだろう」
金蛇の指摘に、つい頭が痛くなる。まして、その次に来る言葉を考えると。
「だが今は、維光だけじゃない……この世の中にはたくさんの行使者と魔物がいる。決して一筋縄じゃ行かないんだ」
透は、その言葉を出すときの心の痛みを持ち前の精神でなんとかしのぐ。
――ああ。俺は人間としても行使者としても、中途半端な存在なんだな。
維光は、大部行使者の方に偏ってしまっているらしいが。
「維光なら迷わないはずだ。あいつは父上が行使者だったこともあるし、その決心の強さは僕とは比較にならないからな」
透は、維光に対して嫉妬を感じ始めていた。昔ならこんなこと、なかったはずなのに。ずっと、二人の間は対等だと信じていたから。
いや、違う。気づいたのだ。手を伸ばせばとどくはずの位置に維光がいると気づいたからこそ、今まで自分が上の人間であると無意識に思いこんでいたことをさとって恥を感じたのだ、
「しかし、常に狙われているのは、君だって変わらんだろう?」
「お兄様」
「百合奈……こんな晩くに……」
「だって、帰宅なさった時のお兄様の様子が変だったから」
この時ばかりは、もう言い訳する余裕がない。
「……そう」 何か言ってやらなきゃ、こいつは引退がりそうにない……。
心の深くため息をつきながら、透は鍵をあけ、扉を開く。
百合奈は目を寄せて、今にも泣きそうな表情をしていた。同時に、何かのうれしさを秘めた表情を。
透は、ますます辛くなった。自分の閉鎖がちな態度のせいで、妹にまでこんな目に……。
「お兄様!」
いきなり、透の腰に飛びついて泣きじゃくり出す百合奈。極力声を抑えながらも、しかし感情は決して制御できるものではない。妹は、兄に本当のことを教えてほしかった。たとえ、兄がそれをどんなに嫌だと思っていても。
ぎょっとして、透は百合奈の体を分離そうとする。
「ちょっと、やめてくれ!」
「離さない!」
妹は妹で自分の行動を貫こうとする。
「お願い、お兄様はお兄様のままでいてほしいの! もうこれ以上私の知らないお兄様」
心臓がぎんぎんと痛むのをこらえつつ、何とか反論に打ちあがろうと。
「僕が……何か変わったとでも?」
百合奈は、泣き声を交えながら叫び続ける。
「前みたいに、優しくて、温かいお兄様に会いたい! でも……今のお兄様はつめたい。ぬくもりがない」
――この子も気づきかけている。僕が夷川透じゃないってことに……。
真実を教えるべきだ。けれど、それはこの子にとってあまりに過酷すぎる。
「ねえ、あの頃のお兄様は一体どこなの?」
――なんて意地悪で、ひどいお兄様。百合奈はこれほどまでに兄を恨んだことなどなかった。
以前の家出の時から、ずっとこのまま。
最初こそ困りきっていた透だったが、やがて妹の腕をおだやかに執りはじめると、優しげに言った。
「ありがとう、百合奈。君はまだ僕を見捨ててはいないんだね」
――お父様は僕をどう思っているのだろう。結局、会社にとって都合のいい道具として考えてるのだろうか?
楓さんは? 楓さんも、僕を行使者として始末する覚悟だったりして? だとしても。
……僕は当時、恐怖で身動きがとれなかった。楓さんの随意になって、命令に従うしかなかった。恐かったからだ……楓さんに逆らうことが。
楓さんという、大切な人に手をかける覚悟が、あのときの僕には欠けていたのだ。まさに、僕は行使者としては失格なのだ。
でももう昔と同じ気持ちでのぞむべきじゃない。楓さんさえ、今は行使者だ。
だから……その時が及んだなら、いっそのこと楓さんを……
「返事して、お兄様」
百合奈をつかむ透の手が、いつの間にか固くなっている。
「百合奈……僕がいつまでも優しい兄でいられると思うか?」
「えっ?」
急な口調の変化に、戸惑う妹。
透は、罪深さを感じて、
「時間は止まらない……時間が、全てを変えてしまう。僕も……君自身も……」
百合奈は、目を丸くしている。
「お兄様、どういうつもり?」
――ああ、こいつだけが変わらない。ずっと、僕をありのまま慕ってくれる唯一の存在。
「僕は、いつまで経っても不本意な仕事を押し付けられるんだな。会社も、行使者も」
この子以外のあらゆるものが、みるみるうちに変わり行く。
透は立ち上がり、虚空を向いて呼びかける。
「金蛇」
二人以外誰もいないはずの部屋で、第三者の返答。
「ついに私の出番か」
「ああ。自信はあまりないけどね」
――誰? 何が起こるというの?
不審な心、百合奈が透の様子を凝視する。
銀色の鎧めいたものが兄の胸あたりに生じたちまち覆って行く。霧のようにそれは生じ、兄の手までもこてみたいに硬い殻でつつんでしまう。
百合奈は、目の前の状況が、信じられず、ただ立ちつくし震えている。
「百合奈、誰にも言うなよ。僕は人の知らないことをしにいくんだ」
すでにあたりは静まり返り、廊下は薄暗い照明がともるばかり。この日、両親は出張で朝、すでに家を去っていたのである。
透は、そそくさと出るつもりだった。もう、何秒たりとも延長にするわけにはいかない。
「……透? どこに行くつもり?」
後ろで、姉の声がした。心配そうな、真心のこもった声。
いや、感情を飾っているのではない。もう我慢ならないのだ。全てを隠しとおす透に。
透は、振り返りもしなかった。振り返れば、きっと不吉なことになる。
「お姉さん、僕にはやらないといけないことが山ほどあるんです」
杏は、透が明らかにいつもと違う格好であることに気づいていた。しかし、それに対する疑念より、透の理解不能な振舞に対する怒の方が勝っている。
「四条さんちに行って来て……今度はどこに行くつもりなの?」
楓を――止める。確かに、無益な行動であることに変わりはあるまい。
しかし、どうしても行動を起こさなければ腹の虫がおさまらないのだ。少女たちに関しては、こと透は敏感だった。
「申し上げられません。下手にお父様のお叱りを受けたくはありませんから」
透は、姉が起きている時分に飛び出そうとしたことを心底後悔していた。
「その格好は? ねえ、またあの家出みたいな変なことでもしでかすつもり?」
透は、窮地に立っていた。
――楓さんを止めることを選んでも、お姉さんの心をかきみださないことを選んでも、辛いばかりだ……。
「僕をどんな言葉でも罵ってください。僕はみんなを裏切りながら進んでいくのです……」
「……あなたが生まれる前、私がどんなひどい目に遭ってきたか知ってる?」
もう僕は行使者だ。夷川家の人間だからといって、もうその名前にいつまでも縛らせるわけにはいかない。
「僕は……もう……」
――人間じゃない。人間じゃなくて、行使者なんだ。
「ほんっと、あなたったら薄情なのね!!」
透は勢いよく駆け出した。そして鎖を発射して玄関の扉を突き破り、その瞬間の後闇夜の向こうに銷えていた。




