2-15 優しさの陰
「天薙」
命令的にその名を呼ぶと、
「小娘が、私に生意気な口をたたくな!」
行使者の下僕である魔物とも思えない辛口。
「ええ、まだ私はこの世界のことについては何も知らないし、あなたが教えてくれることはたくさんあるからね」
「何を教えるというのだ」
楓はそこでやや言葉に詰む。行使者についての知識と言っても、まだ楓には想像がつかない。
ただ、なかなか壮絶なものであろう、という空想だけ。
「……さあ? 私にもさっぱり」
主人としての威厳のために、あえて分からないといいきる。
「先代の主はもっと物を考えて発言していた、と記憶しておる」
楓は道を歩きつつ、独言に打ち暮れていた。
「そもそも――何をするつもりなのだ? お前は」
楓はふと頭を挙げる。空はすでに暮れかかっていた。あと数時間もすれば真暗闇になってしまうはず。
「維光を止める」
虚偽のない真意。
「止めるのではなく、討つのであろう」
けれども天薙は、主とは完全に逆の立場で物を発した。
「討つ?」
「あの盛永のせがれを討って、惑書の呪わしい系譜に終止符を打つのであろうが!」
――確かに、それも一つの事実。惑書が倒すべき魔物であり、維光もまたその対象であるということ。
考えたこともなかった。友達に『その』手を向けなきゃならないなんて。
絶句の楓。
「どうした小娘、お前の頭はうつろか?」
天薙の容赦ない追及で、すぐ我に返る。
「私の頭はうつろでもなきゃパーでもない。ちゃんと現実を監る視点はある」
けれど、楓は葛藤していた。自分は、人間としての情を捨てねばならないのだ。
同時に、その葛藤から抜け出つつもあった。――これこそが、真実を知った人間がおこなう、最初の使命なのだから。私は、あの人の言葉に従う以外にない。
透は茫然として楓の顔を見つめていた。
たとえ顔色は以前と同じでも、行使者の空気を体はまとっている。
楓はずかずかと歩み寄り、透の肩を無作法につかんだ。
「私は、やらなきゃならないことがある」
目は、猛禽類のそれに近い。手の力は、まさに鷹の爪そのもの。
「か、楓さん……!?」
おびえている透の首筋をつかみ、楓は天薙の刃をその寸前で止めた。
透の体は、がたがたと震えてやまない。
「主よ、抵抗するんだ」
金蛇は危機感のかけた声で透に伝える。
「残念だけど、あなたに構ってる時間はないの」
楓は冷たい声で、透に語りかける。
「うそだろ……なんで」
「状況を突破える手段を、みつけだせ」
「あなたの僮僕は情けない言葉しか吐けない魔物なの?」
金蛇が、透の腕にはまったまま霧のように紊乱れる。二人とも、恐怖で理性を失いかけている。
「か……楓さん……何がしたい……?」
――楓さんのためになら僕は何でもする。けど、いくらなんでも死んでくれってのは……!
目をそむけようと頭を向けたがるが、動きをさえぎる恐怖が何よりも。
「安心して、透を手にかけるつもりはないから」
言いながらも、語調はおだやかになるどころか逆に険しくなるばかり。
「……スマホは?」
「ぽ、ポケットの中……」
天薙を空中に差したまま楓は透の腰をまさぐり、チャックのついたズボンのポケットからスマホをとり、電源をつける。
――ああ、一秒という時間さえ長い! 楓も透と同じくらい、感情にしばりこまれていた。
「維光。維光、聴きなさい」
極力感情をおさえた声は、かえっておどろおどろしさのこもった異形なもの。
「何、透か――いや、楓!?」
楓と分かった瞬間の維光の、激しい動揺。
「おい、お前何様なんだ! よくも僕の書を――」
透はこらえきれなくなり、力一杯叫ぶ。
「維光、聴いてくれ! 楓が……、行使者に……」
維光も確かめるため同じくらいの声で、
「楓! どういうことだ」
竹馬の友であった維光の怒りに感じて、心苦しくならないわけではない。
それでも楓は使命感から、心を鬼にして一つの意思を脳裏に烙刻ける。
――維光から惑書を奪わなきゃならない。それが、あいつのためになる。
「時間がない。手短に言う」
「黙れ! こっちはお前のせいで――」
「私はあなたを倒す。今夜、遠野山に来なさい。そこで決着を」
だが維光は怒鳴り散らすばかりで、決して訊く耳を
――ああ、頼む維光くん、それじゃ僕が困るだけなんだ。
「ぼ、僕に回してくれ、楓さん」
ひどくにらみつけて、楓はスマホを渡した。再び、天薙の刃を透にぎりぎりの間隔であてる。
「透、しっかりしろ! 一体何が起きてるんだ」
維光のきりきりした様子では、とても状況を理解させることなどできない、となかばあきらめながらも、
「楓さんが、今夜遠野山に行けって……そこで」
「闘えってのか……」
維光の方でも、一応冷静になろうとはつとめているらしいが。
「そう。全てはあなたの惑書を奪うために」
「おや、私を部屋にこめすえて手籠にしようとでも?」
惑書のソプラノボイスが突然スマホから響く。
「そんなばかばかしい話じゃない。こっちは維光のことを考えて言ってるの」
一瞬、スマホが沈黙。
その一瞬に、どんな隠れた感情がたまりきっていたことか。
「考えて、言ってるだと……」
維光は、ごく低い声でつぶやく。
「そう。あなたをこんな宿命に巻きこませたくないから」
惑書が、沈黙におちいった維光に代わり返事。
「主を怒らせたようですよ、楓様は」
楓はその発言を最後に、通話を切って電話を落とす。
楓は、ほとんど青白くなっている透の顔を、後味わるげにながめつつ、
「ごめん、透。あなたをこんな目に遭わせるつもりはなかった……」
「いや、別に、なんでも、ない」
透は断絶気味にしか語ることができない。
楓は小さなため息、天薙を虚空にけつ。
「私は維光を憎んではいない。私が憎んでいるのは、魔物がいて、行使者が存在しているという、この事実だから」
「楓、さん……」
透の体から一気に力が抜け、地面に臥しそうになる。いそいで楓は助け起こして、
「透、私がこの決着に勝ったら維光をさとしてやりなさい」
静かに、耳元でささやく。
顔の距離がずっと近くなったので、間近に透の顔がほてり始めた。
「う、うん、ああ……」
様子は、あの永歌にも似て優しげでさえ。
しかし結局、さきほどの荒涼とした表情に復り、
「でも、もしその中に介入して来たら。――分かるわね?」
透はその全く対照的な気分にこごえそうに。
「そんな……うそだろ……」
頭をかかえこむ維光。
「愚かな人……そんな覚悟で行使者がつとまると思って?」
惑書は冷汗をたらしている――といっても、それは自分の肌の一部を凝固させて意図的につくりだしたものだが。
「楓まで行使者に……」
「彼女が単独で魔物と契約したとは思えません。恐らく裏があるに違いないでしょう」
「佐井か」 あの日、一戦まじえた不気味な行使者の顔が勝手に浮かび上がる。
「彼が楓をそそのかし、今回のような行動に至らしめたものかと……」
七海も、どこか遠い目で二人を見やる。
「楓ちゃんも、もう昔の楓ちゃんじゃないのね」
維光を肩をすくめ、
「行使者・千本楓だよ。いや本当にかっこいい名前じゃないか」
「私たちはもう名前を必要とするほどの身でもありませんが……」
やはり動揺するところがあるのだろう、コップで何かを飲む仕草を見せる惑書。
「遠野山、と言ってたわよね? 危ないところでしょ?」
町を少し離れた、森が一面を覆う小高い山。以前、そこから熊が降りてきたという事件も伝わっているいわくつきの場所。
「あんな人気のない山……どうやって行けっていうの?」
七海は心配そうに答える。
「行使者の力を使えば、何とかして行けなくはない」
維光は、抑揚のない返事をして、しばし沈黙。
維光は、楓をこれほどまでに恨んだことはなかった。
なんであの野郎は、自分からこの世界に首をつっこんで、そのまま住人になっちまったのか。
維光は、楓をその瞬間亡者にしたくなった。
あんな優等生ぶって、生真面目な奴ならぶんなぐっても元には復らないに違いない。何よりそんな奴と今から、逢いに行かなくてはならない。
解決しがたい懊悩にそえて、これからどうなるかと恐怖も少々雑じりつつ。
「維光、私はどうすることもできない。ただ、あなたが進む路を見送ることしかできない」
維光は深くうなだれ、腕は分別を持ったみたいにわなわなとしびる。七海の辛抱強く堪えようとする態度があまりにも辛い。
「盛永がそうだったように、他の行使者もみんな生きるか死ぬかしかないのね」
七海に対して、いかなる言葉ものどを伝わって出てこない。
――楓は本気だ。もしかしたら、殺しにかかることだっていとわないだろう。あいつがおどしているせいで、透があいつに立ち向かう気力があるとも不可思。維光は、姿勢を正したい欲求に駆られ、しかしうなだれ続ける自分に拘泥した。
「維光……」「主よ……」
どれだけの時間が過ぎたか分からない頃に、維光は急に何もかも裁決ってしまった。
僕は行使者だ。この運命は、僕が生まれる寸前から定まってたんだ。何も、不平を鳴らす意味なんてない。
僕は運命に身を委ねる、歯車。
「維光!」
七海が両腕をつかんで、少年に顔を挙げさせる。
「私は……行かないでほしいの。やっぱり、私はあなたが惜しい!」
涙を浮かべた顔に、維光はまたもや目をそむける。
――結局こういう風にして、僕は母さんに罪を犯しつづけるわけだ。
「恕矣。僕には決定権がないんだ」
「違う、それはあなたの意思よ! あなたが決めることなの!」
七海が冀んでいる選択肢は、火を見るより確実。
けれど、維光はもうそんな温情のほだしで自分を縛りたくなかった。
「これは、僕以外のもっと大きな力が決めることなんだ……」
七海の血走った顔で、はらわたはぶちぶちとちぎれそうに。
――いっそのこと、行使者としての自分に心をゆだねきったら、どんなに楽か。
七海の腕を、やさしく、しかし冷たく腕で分離す。
そして、下僕に向き直り、
「行くぞ惑書」
思いきりすごんだ顔と相反して、声は後ろ向き。
少女は返事の一もなく、黒い表紙に金の模様が走る書物として維光の脇に収まった。
腕をすっぽり使いきってしまうほどの大きさで、重厚感にしても少年が持ちこたえるものとは思えない。
しかし、行使者はそんなものは一切気にしてはいなかった。惑書をせいぜい薄い文庫本一冊ほどに感じていた。
「 」
――僕は、使命を果たすために、おもむくんだ。




