2-13 意味のない追憶
透は、百合奈や杏にどんな顔をすればいいか分からなかった。
魔物と契約し、そして行使者として闘った情景を二人が目撃してしまったのだ。
この記憶を消す術は、どこにもない。
「ねえ、お兄様」
扉の向こうで、百合奈の声がした。
「どうしたんだ」
――きっと、あの事件についてだ。そんなこと、まるで説明する気にはなれない。
「私、何があったのかさっぱり理解できませんの。中庭に急いで駆けこんだ時、目にしたものを……」
「知らない方が身のためさ」
こんな言葉が、優しさであるものか。
けれど、透はそうとしか答えることができない。普通の人間なら、絶対信じないことだから。
「お兄様しかご存知ないことが、あるみたいですわね」
不満めいた感情をその言葉は秘めていると、透には分かる。
「ああ」
縦使、純粋に理解しようとして兄に回答を求めているとしても、やはり妹に真実をもらすなどできやしなかった。
「やっぱり、教えてくださらない」
妹の恨みには、どうしても胸が痛くなる。
「お姉さんにも心配かけたくないからな」
それでも、透は、自分の黙秘に善意があると信じたかった。それが誰かの負の感情をひきつけるとしても、誰かをこの残酷な真実に巻き添えにすることには如かない。
「お姉さんはもう長いこと僕のことで気を病んでた。僕がいるからこそお姉さんはあんな風に精爽でいられるんだ。でもその僕が何かの悩みをかかえていると知ったら、一層めいっちゃうよ」
妹は細い声でうったえる。
「お姉様じゃなくて、今話をしてるのはこの私でしょ? 私にもお告げなさらないつもりで?」
――やはり、百合奈は昔から兄を独占したい欲が強いらしい。きっと僕がお姉さんばかり気にかけてるせいだ。
「僕は今、とても困っているんだよ」
百合奈にさえ真意を告知らせることができないとなると、重圧は一層たえがたいもの。
「……何を」
「きっと百合奈だって、こんなことを聴いたらおかしくなっちゃうに違いないよ。だから、どうしても言えないんだ」
「なぜ、私がおかしくなるのですか? 私はお兄さまから色々なことをお聴きしましたが、ちっとも気がおかしくなるようなことはございませんでした」
――面倒くさい奴。
百合奈がかけてくれる心配は、本物だ。だからこそ、それを無碍にするのは姉の重荷を受流すより辛い。
「実は……それは……」
腕にはめていた金蛇が急にものを言うそぶりを見せたので、すぐにたたく。
「ちょっと、だまれ」
瞬間の失態。この緊張めた状況で神経がとがっていた百合奈は、その声を決してのがさない。
「そ、そこにどなたかいらっしゃるのですか? 一体――」
「空耳だよ、何も聞こえてない」
透は必死に弁解をはかる。
「お兄さまは、まだ強情をはりなさるの? 私は、お兄様がそんなとじこもった性格のお人だなんて存じませんでした!」
金蛇に文句をつけたい気を抑えつつ、百合奈に最後の抵抗。
「僕には秘密なんてない。いいか、百合奈、これはいつか教えられるようになることなんだ。だから――」
百合奈は、かんだかい叫びをあげる。
「何よ、お兄さまの意地悪!」
少し前も同じ言葉を透は聞いた気がしたが、今回はもっと恨みを押しだした声。
ばたばたと荒い足音がした後、彼女の気配は向こう側から失せる。
「言わんこっちゃない。百合奈を忿懥させちゃったじゃないか」
「僕の言葉が引鉄だったか」
「ああ!」
どれだけ無意しい八つ当たりと分かってはいても。
「百合奈はお姉さんの心労なんて知らないからな。だからああも僕に詰問できるんだよ。だが、お姉さんははっきり言って今回の件でますます落胆んでると思う」
「……なぜ?」
金蛇は、いらいらするほど無感情でぶっきらぼうな口調で問う。
「また僕は秘密を作っちまったってことだよ!」
――ああ、本当に最低だ。こんな状況に追窮んだ誰かも、僕自身も。
「お姉さんがあからさまに言わなくても、相当傷を負ってるってことは分かるんだ。なにしろ一度家出を決め込んでしまったわけだし。でもそれ以前に、お姉さんは元から僕がいないと生きていけない身の上なんだよ」
金蛇はやはりいらつかせる無感情で主の言葉を聴く。
「どういうわけだ」
――金蛇にこんなことを話すのも妙だが、僕はこいつとの間に秘密は持ちたくない。
「お父さんはずっと男の子がほしかったんだ。会社での地位を保持するためにね。会社の繁栄を維持していくのがこの家の役目だとお父さんは信じてるんだよ。でも、その気持ちがあまりに高ぶったためか、第一回の子供が女の子だったことを結構根に持ってたらしい。どうやらお姉さんは僕が生まれるまでは厳しく叱られてたそうだ」
金蛇は、透の深刻な気分にあまり同調していなかった。人間界にはそういう奇妙な風習があるのだ程度に。
「ほう……」 ――幸福のためには、男がいなければならないのか。女では、不可なのか?
「僕が生まれてから、お父さんはそこまでお姉さんにきつくあたることはなくなったそうだけど。でも、これはお姉さんの独言から盗み聞いたことなんだ。お姉さんにとって、僕の不安というのは重荷なのさ」
――主の家庭環境は実に複雑だ。他の人間も似たようなものなのだろうか。魔物には、家族とか血縁とかの問題など、ちっともなかった気がするが……。
「だがそれは、父上の勝手な都合じゃないのか?」
「おい、声が大きい」
透にとって、それは聞くことさえおこがましい禁句。
「主以外には聞かせてない」
だが透にとって問題なのは、別。
「お前、お父さんをあなどるなよ。お父さんの権威には逆らえるものじゃないんだから」
「そこまで自分の環境に自分をしばるのが大切か? その重荷を解いてやるのが人間としての責務ではないのか?」
金蛇の冒涜的な言辞に、透は堪えきれず命令をくだす。
「黙れ、僕の僮僕」
今度こそ、金蛇は拙答しなかった。
――ああその通りだ、僕は既存の権威に循うことしかできない人間だ。けど、そこから逸れたらもう僕は僕じゃない。
「主よ、不思議だが君とはそりが合わない気がするな」
魔物は、行使者に服従しなければならない。
しかし、この世界に来て月日が浅いゆえか、魔物らしからぬ叛逆的な言葉で応えた。
「それで構わないさ」
金蛇は口の両端をわずかに曲げる。笑った、ということらしい。
「私はそれでも主に仕える。『死ね』と言われれば死ぬ覚悟はできているつもりだ」
突然の、意図しない契約であるにも不拘、本気で尽くしてくれるなどという。わずかに走る動揺が透に。
「い、いや、こういう事情に深いりしてくれなきゃそれでいいんだ――」
言葉を畢えると同時に、電話が鳴った。
その電話番号は……。
「永歌さん……?」
こんな時分に何事なのだろう。
「楓に、今電話をかけたの」
永歌の声は、実に緊迫したもの。
「透くん、もしかしたら隠し事、してる?」
実に有意味風。
「な、何をなんだ……?」
透は驚いた。
「俊船くんから聞いたの……私たちの知らない秘密が、どうもあるみたいなの」
「秘密……?」
「すごく、こんがらかった話で、何から言えばいいんだろう……とにかく、俊船くんが言うには、維光くんは何かを隠してるの。なんでも、あの書が関わってるとかないとかさ。楓は、それを追求してた。で、私は、半信半疑で確かめようとして、楓に電話をかけてみて、不本意だけどあえて訊いてみた。すると、楓、きつい言葉で怒り始めたの」
「おい、心配させないでくれ、永歌さん」
透は一瞬目の前がくらくらした。あまりに過酷な展開。
永歌さんまでもが、この非日常に介入してくる。
「永歌さんには関係のないことだから――」
突如鋭い声でさえぎる意中の人。
「透くんも知ってるんでしょ? 秘密のことを」
――悟られている。
「な、何のことだよ?」
透は、永歌を前にしてはとても言い訳などできるものではなかった。
「だって、透くんも維光とだけ話をして、私には何も教えてくれないじゃない!」
合成された音声の端々に、静かな怒りがほのみえる。
「私にならどんなことだって話してくれたのに、おかしい。絶対何かある」
永歌と楓との間に起こったことを、透は知らない。しかし、永歌のいきりたった様子からすると、永歌は確かに透のことが心配なのだ。
配慮ってくれるからこそ、逆に辛さが倍増する。
「おい、それは……」
「ねえ、透くん、あなたに一体何があったの? やっぱり、これだけは教えてほしいんだけど」
永歌に対する言葉を、透は完全に見失っていた。
「どうして、みんなどうしてこうなの!」
そうして電話は切れた。
「永歌さん……」
「嫌われた、のか……」
金蛇はつぶやいた。透は、悔しいながらそれを認めざるを得なかった。
永歌さんに伝えられないのが、ここまで重圧だとは予想だに。
「……らしいな」
行使者になると、こんな苦しみを受けねばならないのか。透は、うなだれた。心の整理などつきそうにない。
けれど、と残っている気力で念を推す。
「でも、うじうじしてたらもっとは状況は悪くなる。それに、維光の元に伝えなきゃならないんだ」
――伝えるべきことが、多すぎる。
「僕はまたもやこの渦に巻きこまれたよ、と」




