1-2 見知らぬ古書
一時間目が始まる直前に、一人の女の子が透に話しかけていた。
「透くん、何かあったの?」
少し背の低い、やさしげな顔の持ち主、寺之内永歌が、荒い動きで教科書や筆箱をとりだす透に。
「私、透くんが元気じゃないと何もしたくないの」
透の机に両手を置いて、向かい側に立っている少年に説く。
そのまま黙ってやりすごそうとしたが、女の子が相手では無視するわけにもいかないと判断したのか、
「これは、僕の内面の問題だよ……」
永歌は、やや語気を強くして、
「さっき楓さんに尋ねられた時もそう答えたじゃない。これ、あなた自身じゃなくて何か他にあると思う」
透は、怒りにも似た表情に変わりつつある。
「さっきも言ったじゃないか……誰にもこのことで気をわずらわせたくないんだよ。そんなことをしたら僕の疾患が悪化する」
「で、でも!」
しかし、背後から楓がその肩に手。
「今の透にはどんな言葉も効果があるとは思えない。下手に怒らせるよりはまし」
永歌は、楓の硬めの挙措に畏怖にも近い様子を。
「か、楓さんがいるなら……」
透から離れると、いすの上ぐったりとした維光に向き直り、
「ねえ維光くん、透くんに何かあったの?」
よりによってなぜそれを僕が答えなくちゃならないんだ……?
維光は静かにかっと。
「僕も知らないんだ。何しろ、僕の方でも自分の身の周りのことでせいいっぱいだったからさ」
「四条君っていつも身の回りのことでせいいっぱいね」
楓は両腕を組んで維光を視すえた。
「人間誰も、そこまで人のことなんて気にしてられないってことかしら。特に、いつも自分の身の上を嘆いてばかりいるって人は」
ぎょっとして、維光はすぐさま姿勢をととのえ純ました顔。
「いや、そんなことないよ」
弁明しようとする少年。
透はわずかにこれに向いて、その過失を責めるような眼光になった。
「なあ。そろそろ僕のまわりであることないこと言い立てるのは、止めてくれないかな」
恐怖ゆえか、ひきつった面持ちの永歌。どのようにその心を探るかに窮し、口を箝ざす楓。
「そうじゃないと僕の方も何をしでかすか分からないからな」
そして、友人までもがたとえようのない闇に落ちてしまったという事実に、ただただ茫然とするしかない維光。
なぜ、こんな下らない日常なのだろう。
ましてや、それがもっとくだらなくなっていくかもしれないという不条理。
維光は、楓から眼をそむけ、窓の向こう、外の光景をながめていた。
雲ばかりの、やけに白い空が、さした風情もなく広がっている。
ようやく授業が終わった時、維光は透と一緒に還るつもりにはなれなかった。
透は、「僕はいい。一人で帰るから」と、いつもの誘いをつっぱねたのである。道理で、今日の透は様子がおかしい。
維光の虚無感はいつも異常に深刻な症状を呈した。やれやれ。いつも誰かと話していなきゃ、このむなしい気持ちは抑えられようがないってのに。
そうだ、とこれをいい機会に。行きつけの本屋に行こう。まだ日はそう暮れかかってはいないし、漫画を一冊くらい立読する時間はあるに違いない。そこで気を紛らわそうじゃないか。
もちろんそれは一種の現実逃避。目に見えるものは何一つ化わらない。
本屋は、学校から十分近くのところ。住宅地に向かう道路の途中、工場や会社が並ぶ中に腰をすえており、忙しい生活の間、休みを作って訪れる人が少なくない。
維光は別にここに行ったら必ず本を手に入れる、というわけではない。むしろ、本とか雑誌とかゲーム機が並ぶ中をぶらぶらと歩きまわるのが好きなのだ――いたずらに時間をつぶしている内に、心の中の要素が静かにととのえられ、思考が規則的に並んでいく。これを感じるのがこの上なく好きだった。
彼は『趣味』ジャンルの棚を横切った。
そのうち一つをのぞいた時、書道に関する本が並んでいるのを目にする。
書道か……。一応、授業で書道を習ってるから、役に立つことはあるかもしれないな。
だが、いくつか高そうな参考書が並んでいる中、一つ妙なものがはさかまっているのを。
背は黒色で、何も書かれていない。他の多数にはちゃんとタイトルがつけられているというのに。
材質にしても、革でできているのか、見た目からしてこの棚の中では異質だ。
「これは……?」
維光は気になって、すぐさまこれを手に取った。両手でかかえなければ支えられないくらいの大きさ。表紙にも同様、何の文字もない。
だが、さらに驚かせるのは――最初のページも、次のページも、真っ白な紙が続いているという事実だった。
「父さんが持ってた奴と同じだ……」
維光は思わず感嘆。
少なくとも、それに驚くほど似ている。
「でも、まさか、たまたま似ているだけかもしれないし」
維光はそのままめくり続けた。しかし、そこでふと不思議にであう。
いくら読んでも、読み進まない。たしかに本の内容は有限だ。
けれど、いざそれがどれくらいあるか確かめると……それが分からない。いくら次のページに進んでも、本が終わる気配が見えない。気づくと、初めの部分の二ページを開いている。
「な、何で?」
天の方に目をやった。やはり、本の中ぐらいには進んでいない。
こんなおかしいことが、ありえるだろうか。
「父さんの本もこんなだったっけ……?」
記憶を求めたが、そういう証拠は見当たらない。
維光はこのなぞに対する疑念にとりつかれ、その本を両手に持ったまま店の中を歩いた。
他のことなど何一つ頭にはないまま。誰の注意も受けずに外へと。
「何だろう――ただこのまま置いてはいけないものかもしれない」
もう空は藍色に染まりつつあり、地平線近くが赤色を保っているばかり。
維光はそれをかばんの中にしまいこみ、そのまま帰路についてしまった。