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2-9 むりやりな決断

 夷川芳郎は、透の悩ましげな様子に焦燥感をかきたてられていた。

 いつか会社を継ぐかもしれない一人息子が、これほどまでに他人と距離をとりつつ過ごしていることに我慢ならなかったのである。誰にも言えない悩み事がある人間として育てたつもりなどはずないなのだが。

「お前はなぜ、私にそうも隠蔽(かくしだて)するんだ?」

 芳郎は、それでもなおできるだけ透をなるべく刺激しないように注意した。

 以前の家出では、この事件が世間に公開(おおやけ)にならないよう非常に苦心したのだ。戻ってきた時など、透をどう罵っても気がすまなかったもの。だが芳郎は、ある違和感のために、透をきつく叱り飛ばそうとしてためらったのである。

 無論、一家の希望である透に全力で反抗されても困るわけだが、ようやく対面した時、その息子は何かが変わっていた。

 全身から、人間ではない雰囲気を感じ取ったのである。無機物でもなければ、野性と呼ぶべきものでもない、正体不明の不気味な質感が透に憑いていた。

 様々な人間に会ってきてできた勘からだが、異様なまでに『悟っている』人間に透はなってしまったようなのだ。口調にしても、表情にしても、面食らうほど冷静で、悪びれる様子は微塵もなかった。

 単なるあきらめではなく、それ以上に強い精神的なものが透を支配していた。

 一体どういう経験をすればこの透ができあがるのか、芳郎には何の想像も。

 透の『憑物(つきもの)』は、たとえ彼が勉強していても、妹たちと会話している時でも、離れることはない。

 息子を目にするたび、無意識的にそれを感じてしまうのである。

「言っても、どうせ理解してくれないだろうし」

 昔ながらの透でありながら、理屈では理解不能な重さが声に漂う。

 この重さのために、芳郎はどうしても前に一歩話を進めることができずにいる。

「まして世間が知った所で、わけのわからない妄言(たわごと)になるだけだよ。もらすまでもない」

「私だけになら話してくれるだろう?」

 透自身も、やはり不思議だった。

 ――常人であっても、行使者の気配をかぎとる能力をたまに持つことがある、ということだろうか。

 僕自身の精神的な有様(ありかた)をこえて、維光の言う『行使者の自覚』とやらは他者に影響してしまうらしい。

「父さん、前と同じように仕事に専念してくれていいんだよ」

 透は表むき、笑顔をつくって言う。

「これは僕に」

 いいことであるはずがない。しかし芳郎はさらに問い詰めようとして、透の奥底にいすくう化物の存在をかぎとった。


 中庭で花壇を眺めていると、そっぽから声をかけられる。

「最近のお父様は、少し変だと思いません?」

「どうしたんだ、百合奈(ゆりな)?」

 まだ背も短く、物心づいたとも言えそうにない年頃であるが、透の妹はかなりませた感じの少女だった。

 白いひらひらしたワンピースは、母の趣味によるもの。

「だって、お兄様にやけによそよそしいんですから。昔だったらもっと厚い愛情を寄せてくださったのにね」

 百合奈の高く細い声はあどけなさの裏に、ひっそり大人らしさをしこんでいる。

 ――ああ、この子は気づいていないのだな。知らせてはならないことだ。日ごろから透は、妹に切に気を配っていた。

「そりゃ、あんな嫌なことがあったわけだしさ」

 透が頭をかきながら言うと、必死な表情で百合奈は語る。

「私、お兄様を責めてはいませんわ」

 透の両手をつかむと、愛嬌のある上目遣いで、今にも泣き出しそうな繊細さをこめて、

「お兄様の心にもし少しでも傷をつけたなら、私、いてもたってもいられませんもの!」

 百合奈の起伏の激しさにはいつも振り回される。

 透は、百合奈をなんとかして泣き止ませようとして、早口でまくし立てる。

「違う、みんなに迷惑かけたことは死んでもわびきれないから。別に父さんに一日中叱られたって構わない」

 そして沈黙が差す。百合奈は透の言葉には必ず従うたちで、ずっと兄の言葉を待っていた。

「……ただ、それ以上のことがあるんだ。みんなに言うべきか迷う、それ以上の――」

「また百合奈をいじめてるの、透?」

 誰かに首に腕を巻かれていた。その感触に気がつくと、ぎょっとして腕を振りはなし後ろへ跳びのいた。

「お姉さん、やめてくださいよ」

 夷川(あん)が顔を近づけて透の顔色をうかがっている。

 澄みきった絵具で描いたような瞳、すらりとした色香のある体。

 透はそんな姉の姿を見るたび、僕が守らなければ人物だ、と頭の回転が速くなり、姿勢がしゃんとするのである。

「僕は何一つやましいことは考えておりません。ただ、父上が以前より僕に温情をそそいでくださることが少なくなったのではないかと感じたまでのことです」

 杏は、透の悩みは大したことではないとでもいうように笑う。

「それは、ひょっとして役職につけなきゃならないという義務感がより強くなったからじゃないかしらね?」

 非也(ちがう)。そうじゃない。行使者の自覚におびやかされているからだ。たとえ、口にも顔にも出さないとしても。

「あなたは家を継ぐ人間として大変寵愛されている方なのよ。私が生まれた時、男の子じゃなかったということでお父様はひどく落胆(きおち)なさったものだった。でもあなたが生まれたおかげで、私たち一家は活気を再得(とりもど)したのよ」

 杏の話し方は立て石に水、声は一つ一つの音までしっかりとしている。透は歌声にも似た美をそこに見つけていた。

 事実、その手のレッスンを有名な教師に受けていて。

「ねえ、そんな顔しないでよね。あなたはもっと自分の存在を誇っていいのよ。前みたいに家出してまで自分を否定する意味なんてないんですから」

 ――ああ、父さんもお姉さんもいつも僕にそういう立場を要求する。こっちの側にもなってみろよ。

 透が浮かない表情になるのは道理にかなっていたが、杏は全く改善しない弟の薄暗い様子にこりたのか、その頭をやさしい手取りでなで始めた。

 予期せぬ行動にさらされ、一気に紅潮していく透。

「ちょっとやめてください、お姉さん!」

「ほんと、そこだけはかわいいまま変わってないのね」

 ――不思議だ。心のどこかで投げやりな気持ちがする。

 それは、あたかも草むらの中を行きかう影だった。存在は確認できても、実質は何一つわからない。

 姉の腕をふりはらって、両手ではげしく頭をかく。

「でも、だからといって百合奈に驕慢(おごりたか)ぶっちゃ、だめよ?」

 妹は、意地の悪そうな笑顔を兄に向ける。

「ふふ、お姉さまは話が分かりますわ」

 透は叫んだ。

「ですから、僕は百合奈をいじめてるわけじゃないって言ってるじゃないですか!」

「そこが透のいいところなんだけど――実はこれから、会食があるの」

 透は動転した気分のせいで姉の話を聞きそびれていた。

「か、会食?」

「歌手仲間とね。一応、人間関係を広げるためには参加した方が良いのね」

 百合奈がうらやましそうに姉を視る。

「それ、私も往きたいですわ!」

「ふふ、残念。これは内輪以外の人は入っちゃいけないのよね。お酒も出るし」

「もうっ、お姉さまのばかっ」 悔しさで、頬を赤くふくらます百合奈。

 だがすでに、透はその時姉妹の話に聴き入ってはいなかった。

 ――ああ……隠見(みえかくれ)する気持ちがだんだんつかめてきた。

 僕は……こういうことに興味が失せつつあるんだ。


「あれが――君の家族?」

 金蛇が人間の姿をとって、夷川の隣にならぶ。

「うん。僕が物心づいた時からずっとそばにいるんだ」

 百合奈が杏についていこうとして、つっぱねられる情景。

「この世界にはああいう血のつながった、同じ年齢同士の人間がたくさんいるそうだね」

 ほとんど薄っぺらな知識を披露する魔物。

「……どうして?」

 ――そう言えば、魔物は最初からこの人間界に対する知識を持ってやってくるのか? 素朴な疑問。

「いや、気づいたら頭の中でそんな言葉があったのさ」

 そういうことに関心をもつと、きりがない。

「この世界に来る前のことは……」

「いや、何も覚えていない。ただ、ここに来る前にも何かの世界があったということをわずかに記憶しているだけだ。ただ、詳しいことは全然……」

 直感。人間と同じではないか。

 生まれてくる前のことを知らない。自分の意識をいくらさかのぼっても、はっきりとした時期が分からない以上、この世の誕生が全ての始原(はじまり)ではないことは明らか。だが、結局――

「こんにちは」

 そこに男が立っていた。

 まさか、こいつが四条と出くわした……!

「私に、金蛇の身を渡してくれないか」

 歯がかちかちと鳴る。どちらにしても、できない選択。

「で、できない」

「できないだって?」

 肩をすくめて、男は陽気そうに笑った。

 危険そうな様子ではないからこそ、恐怖が倍増する。

「君は行使者だ。行使者は見つけ次第、始末しなければならない」

 ごく普通の会話と同じ口調で、男は言う。

「そこにいる魔物を渡したまえ。さもなくば――」

 金蛇の輪郭が、上からおぼろげになり始める。

「君は僕の敵だよ。逃げるしかない」

 金蛇の意思が、透を途方もなく大きな葛藤になげこむ。

「そんなこと言われたって――」

 ――うそだ。こいつは絶対に僕を殺しにかかる。

 助かるためには。

「まだためらっているのか。君が四条維光の知己(しりあい)であることは筒抜なのさ」

 やはり……本物の危ない奴だ。

「ここは僕にまかせて、逃げるんだ」

 行使者のいない魔物など、丸腰も同然。なんの価値もない。

「そんなことしたら、君は!」

 その様子に佐井は、高笑いしそうになる。

 ――やれやれ、行使者になりたての人間はなぜこうやって甘い奴ばかりなんだ。

「さっさとやるでげす、佐井さん!」

 催促する滑脚。

「……待つつもりはないさ、滑脚。こんな惰弱は排除されてしかるべきだからね」

 異形の靴として下半身を覆うおのが(しもべ)に一言語ってから、

「小僧、ねえええっ!」

 空中高く身をかかげる佐井崇勝。

 透は無意識に金蛇の体にだきつく。

 ――こんなところで犬死すれば、永歌さんが、悲しむ。

 突然青白い光と衝撃波が起こり、不意を突かれ佐井は屋敷の壁に激突。

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