2-8 とどかない応援の言葉
不可だ。できるわけがない。透は失意に打たれていた。
――維光の頑強さに、僕は遠く及ばない。あいつは僕に贏った人間なんだから……。
放課後、維光はすぐに帰る支度をしていた。当然ながら、行使者という秘密を彼は誰にも明かしてはいない。そんな秘密を一度でももらせば何が起こるか分かったものではない。
しかし、楓がすでにその事実の一端をかいまみてしまった以上、これは維光や透だけの事態ではなくなっている。直に、学校の他の面々にも知れ渡るかもしれない。想像するだけでもぞっとする。
誰かに談したくても、談せない。たとえ永歌にでも。このあまりに重大な真実に透は永歌を関わらせたくなかった。竹屋町や御池相手なら話は別だが。彼らなら、眉唾で終わらせてくれるだろうから。
あの会議以降、透は維光に一切口を利かなかった。終始、あきれた感じだった。
僕らは、もうあの頃には戻れない。僕らは行使者となり、人間ではなくなった。維光が念を推して語る情景を頭の中で再生するたび、
僕はあいつに先を越されてばかりだな……。
荒涼とした空気を吸いつつ、自転車小屋へと足を運ぶ。その入口にまでたどりついた時、
「透くん!」
後ろから声をかけられる。
「うわっ!? 永歌さん!?」
振り返ると、透が深く慕う人がいた。急な出来事にあっけにとられながら、すぐあきらめた心が忍び寄る。
もうその少女とも、今は深い溝ができてしまったのだ。
しかし少女は、透が当惑の中に憂愁を含んだ表情をうかべているのに気づくと、
「ねえ、透くん、やっぱり教えてくれないの?」
しんみりとした口調で問う。昔ながらの口調にうれしさを感じつつ、この上なく複雑な感情。
――僕はもはや、永歌さんのそのやさしげな言葉を受ける資格はないかもしれないのに。
「……何を?」 どう答えようが、僕は永歌さんにたいして弁解が立たない。
罪の気持ちで今すぐ消えてしまいたい衝動に駆られつつも、その場にとどまる。
永歌は、透の顔を見つめていく間に、ますます目を細めた。
「維光くんとの間に、一体何があったの?」
どうすればいいか分からず、沈黙。――そんなこと、永歌さんが信じてくれるわけないじゃないか。そもそもこんな秘密に彼女をまきこむわけにはいかない……。
「やっぱり……訊いちゃだめかな?」
口は動くが、結局言葉は出てこない。永歌の純粋に気にかける目つきに、顔を背けたくなった。
「ねえ、何も言ってくれないの?」
永歌が決して恨みや怒りを持っていないことは分かる。心配してくれているし、思いやってくれている。だからこそ、余計に辛い。
「……ごめん」 透はとうとう、意を決して返事に入った。
「僕はとても難しい局面に立たされてるんだ。このことを告白けるべきか、それとも隠匿すべきか……。そのことで心がどうにかなりそうでさ」
二人の間には壁ができてしまったのだ。どうにも打ち破りがたい壁が。
永歌はあちら側にいて、決して手がとどくことはないだろう。
「昔の永歌さんにならしゃべれたかもしれない。けど、僕にはもう色々ありすぎて、大切にするものを見失ってしまった」
楓が新たに、こちら側に加わってしまった現在、ますます状況は錯綜としたもの。
次にこの壁を渡る人間など、まして予想がつかない。
「私、絶対秘密は守るよ。だから、私だけには教えてほしいの!」
永歌はこらえきれなくなり、走り寄って顔を近づける。透も、いよいよ精神的に追いつめられ目をつぶって顔を上に。
「いや、永歌さんを護るためなんだ。この選択は……僕のためでもあるし、永歌さんのためでもある」
――永歌さんは怒ってるに違いないな……。もういいや、どうにでもなれ。
永歌にさえ寄り添えないみじめさで、ひどく慙愧にうちひしがれる。
「ねえ、こっちくらい視てよ」 永歌は、懇願するような調子でたのんだ。
透は、泣きたい欲求をおさえながらおそるおそる永歌の方に目を寄せた。初めは、きっとつりあがった目だと。
しかし、永歌はちっともにらんだ顔ではなかった。むしろ、とても悲しい顔つきだった。
そして、いつも以上に永歌らしい表情。
「透くんが何を知っているのか、私は知らない」
なぜか口元は笑っていた。そして水がほおに垂れている。
「でも、何があっても私は透くんの味方だから。いつだって透くんのそばにいてあげるから」
難耐い罪悪感。――これじゃ、まるで僕が永歌さんを泣かせたみたいじゃないか……。
「だから……お願い。離れないで。見放さないで……」
永歌は透の片腕をにぎりしめ、そう言った。一気に激しくなる心臓の鼓動。
透は、これ以上自分の心に残る甘さに惑わされたくなかった。永歌と無邪気にたわむれられる時代は完全に去ったのだ!
「透くん!!」
透は行使者としての力を振り絞って、自転車をこいで遥かに懐人から離れ去った。
――永歌さん、僕は君を恨まない。その代わり、永遠に僕への哀歌を吟じ続けるがいいさ。
「母さん?」
維光は母がやけに活発した顔でいることに面食らった。
「昨日ので少しふっきれたの。やっぱり、何を悟って、それで全てをあきらめた気分でいるなんて健康によくないんだから」
透のあの惰弱な様子を目の当たりにした今は、母の生き生きした所作など空元気としか思えなかった。
むしろ以前みたいに、言葉少なで消極的に接してくれる方が気楽な感じさえ。
「ねえ維光、今日何か変わったことは?」
何を訊きたいかはすぐに分かった。だが維光はそれをはっきり迷っていた。
「透と話をしたよ。あいつは一度行使者になったのに、その宿命から逃れたがってるみたいだった」
「あなたは、透くんと闘って一度勝ってるのよね? 透くんの魔物はどうなったの?」
維光は一応透との事件を母に語ってはいたが、会話が少ないこともありあまり詳細に話してはいなかった。
それに七海が知らないことを、維光が必ず知っているわけでもない。
「魔物は……倒したよ。もうこの世に戻ってくることはないと思う」
惑書にこのことを一度質問したこともあるが、魔物も死後の世界について知識があるわけではないらしい。さして興味を持っている様子もなかった。
ただ、復活はありえないという事実は確からしい。
「けど、行使者になったらもうもとの人間になれない。他の行使者に相変わらずねらわれるし、生き抜くために他の魔物を探さなくちゃなくなる」
これに関しては、契約した時から無意識的に理解していたことだ。まさにこの事実で、維光は深く気をもんでいるわけなのだが。
母は、やや不安定な抑揚で
「ええ……覚悟はしているわ。じゃあ、透くんはやっぱり次の魔物を……?」
やれやれ、やはりこの事情を説明しなくちゃいけないわけだ。面倒くささはあるが、切迫した現状の前では弁解にならない。
「うん……。実際、そいつと会ったよ。まだ契約するかどうか決心はついてないらしいけど」
七海は落ち着きはらおうとつとめた口調で、
「でも、行使者としてはやっぱり魔物を持つことが一番優先すべきことなのよね。ということは……」
不安な顔で、冷や汗をたらしながら、
「もしかしたら、透くんとまた闘うことにでもなるんじゃないの?」
不意にのけぞりそうになる維光。
「それは……」
維光は言葉を失った。実際にありえることだ。ところが、透を友人としてばかり見ていたあまり、ついにその視点を持たずに来てしまっていた。
少したどたどしい、なんとか状況を説明しようとする。
「で、でも、他の行使者も実はこの街にやって来てるんだ。敵は他にいるんだよ」
利害が一致するのだ。共通の敵がいるうちは、透とも矛を交えずにすむ。
バイアスをかけた観方だとしても、維光はそんな風に透を扱いたくはなかった。私情をかけたとみなされても。
「そいつが、誰か知ってる?」
「佐井崇勝という者ですわ」
惑書がいつの間にか人間の姿で床に立っていた。
「知ってたのか?」
どうして教えてくれなかった、という不満がこもった質問。
「主が動揺なさっていましたから、あの時は申し上げても聴かれぬものと存じたのです」
惑書は二人とは違う、異様なほどにはっきりとした流暢な発音で具申する。
「彼は数百年行使者としてこの日本にいる男で、かつて盛永様と争ったこともあります。先代の主は評しましたね――狐のような男、と」
維光は、その時例の疑問を心の奥底から取り戻していた。しかしやはり、惑書に面と向かってたずねることなど全く。
「父さんと渡り合って、生きぬいた奴なんだな」
それでも、あの時佐井から感じた殺気は、本物だったと確信する。銀という謎の存在以上に、あの危険な力の方が脅威なのだ。
「はい」
透の時とは、全く違う。透は話の通じる相手だった。
今回はそうではない。
「そんな強敵に、立ち向かえってのか?」
七海は、うなだれていた。
弱弱しい声で、なげくばかり。
「……維光。私にはやっぱり、どうすることもできない。私なんてしょせん無力な存在。行使者と魔物がいる世界の中では……」
維光はかっとなった。七海の嘆息など必要ではない。
――相手が行使者なら、僕も行使者だ。何の不足もない。
「いや。心配なんてしてくれなくていいよ」
維光の心に、行使者がよみがえりつつ。
「僕は惑書を父さんから受け継いだんだ。父さんの名に恥じないだけの抵抗はしてみせるつもりだよ」
七海は、怖気づいた顔で、維光の姿を目に留めていた。




