2-5 消えない傷
家に還った後でも惑書は無言のままだった。
維光は、無理に惑書の心を撹乱したくはなかったから、同様に黙りこみ、たがいに内面を秘密にしあった。
暗くなり始めた時に出てきた雨風は次第に強まり、外ではすでに大雨が降っている。
感じの大人しい母は、死人のように維光には見えた。実際、母との会話がめっきり減った。惑書と話すことの方が、今ではずっと多い。
それも行使者に自分が奪われつつあるのではないかと想像すると、どうしても生々しい悪寒が。
――僕の方が母さんを見捨てているんじゃないのか。
維光の疑念は、強烈な不快感へと。そして、その不快感を抹消したくて、
「母さんは……まるで以前とは違う人みたいだ」
維光はさびしそうに言った。
「そう? ずっとこんな感じじゃなかったのかしら?」
今となっては、自分をことあるごとに叱りつけていた母の姿がなつかしくさえある。それは、父親が行使者であることを、息子まで行使者の秘密に巻き込ませないための必死の気遣いだったのだろう。
維光は、孤独を感じていた。その孤独を隠しとおすのに忍びず、母に思い切って告白けたのだ。
「……その通りだよ。僕はもう惑書と契約してしまったことで、人間ではなくなってしまった」
維光は、感情をどう説明すればいいか、どうしてもらちがあかなかった。
「僕はかつての父さんと同じ行使者だったんだな。父さんが感じてたさびしさも、こんなものだったのかな……?」
「もうお母さまは聴く耳を不有と意うわよ」
机の上に置かれた惑書が辛辣に横槍。
「何を言ってるの。私はずっとあなたを、同じ風に愛してるんだから」
そんなはずはない、と維光は叫びたかった。母は、もしかしたら大変深い傷を負っているに違いないのだ。自分の伴侶と訣れた、まさにそのことで。
そして僕もが、その傷をさらにえぐりとっているのかもしれないなら。
「違う。もう何も知らなかった頃みたいには、僕を愛してはくれていない」
「おかしなこと言わないでよ……」
溜息をつきながら、七海はソファへと歩き、維光の横に座った。
「私はあの人のことを何一つ恨んでなんかない。これは、ずっと前から定められていた運命だったの」
「僕も母さんをちっとも悪いとなんか思ってない……。だから教えてほしいんだ。」
心の奥底を無理やりはぎとるようにしか相手の真意を追求できない自分に、罪を感じる。
「……訊きたいの? 私の気持ち」
穏やかに七海はたずねる。表情は一見静かなようでいて、だが裏で荒波をたたえている。
「知りたいよ……どうであっても」
維光は覚悟を決めていた。
――僕は親不孝な人間だ。行使者になったら、もう罪をあがなう手段はどこにも残されていないのだから。ひょっとしたら、僕は親殺しをしたも同然なのかもしれないな
「私が何も答えてくれないからって、すねて、お母さまに八つ当たりするんじゃないわよ」
傷心に満ちた惑書の声。
「ねえ、維光。あなたに父さんがいなくなったわけを、私はずっと教えてこなかったわよね?」
「行使者に……させないために?」
それこそが、維光がずっと真実として思いこんで来た理由。
「いや。私が傷つかないためなのよ。私にとって住みよい世界を、保ち続けるために」
母の顔が、次第に罪悪感でひきつってきたらしい。
「私は決して行使者のことを知らないし、ただ盛永から一言二言聞いただけなの。でも、それは私の世界を完全に破壊してしまうに足りるものだった。私は誰かにその世界をこわしてほしくなかった。だからそれを、誰からも秘密にしたかった」
歯が鳴っている。腕がおびえている。
「でも一度知ってしまった人間は、二度とその世界から離れることなんてできない。あなたが惑書と出会ったのは、私が盛永を知ってあなたを生んだ瞬間からずっと決まっていた。私はあまりに甘すぎて……痴愚だった!」
頭をかかえこんで、慟哭しだす。
「あなたが行使者になってから私はもういなくなった。私は死んでしまった。もう私は誰でもない。私はあなたの母親でもなんでもない、ただの赤の他人!」
維光はこらえきれなくなり、無意識的に立ちあがる。
「違う!!」
それでは、自分がこの人生をたどってきた意味は何なのか。なぜこの境地にあってとどまり続けるのか、道理が立たないではないか。
母がたとえ知らずに行使者に関わっても、何も知らずに行使者の子として生まれ育っても、それは何ら自分が行使者であるということに関係はない。そう信じたかった。
でないと、ここで頭を割ってしまう。
「父さんは行使者だった。父さんの魔物を僕は継承いでいる。でもそれがどうしたんだ? 僕は行使者だ。でも確かに、普通に生きてる一人の人間なんだ!」
「……維光さま」
と意外そうに惑書。
――今さら人間であることを強調して、何になるというのか。
「人間だよ。もちろん行使者としての本能が覚醒めそうになることはある。けど、母さんは今でも母さんだよ。僕を育ててくれる恩人なんだ。今だって僕を見守ってくれている!」
七海の表情に生じる揺れ。
「僕には母さんが必要だ。それなのに母さんはあたかも僕が一人でもへっちゃらなみたいに落ち着きはらってる。でも、僕は母さんがいるからまだこんな風に、一人の人間としていられるんだよ」
維光は目の奥に強烈な熱を帯びるのを感じる。
「……実際、僕が母さんを自らほっておいてたという所もあるけど」
またもや母を責め立てようとする身勝手への情けなさに、ついついうなだれてしまう。
母もまた、目を細めて、複雑な感情をたずさえつつ息子を黙って見つめていた。
「でも、あなたは行使者よ。惑書と契約して確かに人間を越えた身になってるのよ」
二人の間に、割れた溝。
それは乗り越えるにはあまりにも大きくて、埋めようとするにはあまりに深い。
維光は母の瞳に、決して譲ることのできない認識を見た。
たとえ維光にとっては納得しがたいものであっても、七海からすればその気持ちになるのは当然のこと。
「……ごめん。僕は全然母さんの孤独なんて分かってなかった」
維光はだんだん悲しい心に圧され、母の顔をそろそろ正面から察れなくなっていた。
「僕は母さんに分かってほしかっただけなんだ。僕が行使者と人間の両方であって、決してどっちかに偏ってるわけじゃないってことを」
何度かそででぬぐいながら、なおも続ける。
「でも僕は母さんのことを全然理解してなかった。そりゃ無理もないよな。夫も子も同じ運命に巻きこまれちまったんだから! 自分が一番信じてた存在が二度も同じ目に遭ったんだ。こんなの、普通の人だったら絶対に首くくってるさ!」
実を言えば、母を責めたい気分はいくらでもある。もっと芯のある人間じゃないのか。
行使者なんて、死ねば塵になるくらい普通との人間なんだよ。そこからすれば二つの区別なんて大ごとじゃないだろ。
目を大きく見開いて、母の顔を凝視。
すでに母が感情に負けてうめいているのを聞くと、自然とえみがこぼれる。
「母さんは強いと以為う。だってこのことを僕に言わずに来たんだろ? こんな重くて苦しい事実をかたくなに守り続けて来たんだから。でも、もう大丈夫だよ」
すぐに、両手でその胴にからみつく。
「もう僕は秘密を知ってるんだから。後退はできないんだから、さ」
――結局、それでも母さんの共感を引き出すことなんてできやしない。
行使者としての自分が、心の奥底でささやく。
気づくと、母も維光以上に強い力で息子をだきしめていた。
「ちょっと、痛いから!」
母はやや早口で言った。
「私、自分の気持ちがよくわからないの」
まだ動揺が続いている。しかし、どこか憑き物がとれたかのような明るさをともなう声。
「でも、なんだろう、ちょっと安心したかも」
その時でさえも、七海はまだ不安をとりのぞこうとして維光への抱擁をとかなかった。
だが維光はすっかり赤子だったころにもどって、母のぬくもりにひたっていたい気分だった。
惑書はつくづく、
――甘いな。
と内心主をなじっていた。




