2-3 不退転という義務
楓はある建物の中に案内されていた。窓がなく、四方を白い壁が囲む殺風景な部屋に。
四角いテーブルをはさんで、男と楓はさしむかっている。
「行使者というのは……そういう奴だ。本来なら一生関わらないはずの存在。ところが君はこの世界をかいまみてしまった」
男のありえなさげな説明に、楓は夢ではないかと疑ったものだ。魔物と言うこの世ではないものたちがいて、行使者という人間であって人間ではないものがいる。
けれど、気ははっきりしている。なぜ夢なのか。
「もう君は僕らの世界の仲間なんだ。後退はできない」
男は静かな笑みを浮かべている。楓の眼には、それが一層不気味な何かに映った。
「あの……四条くんの父親があの書の前の主人だったというのは、事実ですか?」
彼の父は小学校の時、授業参観などでたびたび目にしたことがある。
筋骨のたくましい、まさに非凡な感じのする男だった。であっても、そんな裏のある人間とはつゆ知らなくて。
「ああ。僕らの間では知らない人間なんていない。惑書といえばあの男だ」
惑書。名前の通り人を惑わせるやつだ、と楓は思う。
よりによって、どうして身近な人間の秘密に気づかなかったのだろう。末恐ろしさときたら、ない。
「行使者になると一切年をとらなくなる。たとえ魔物との契約を解除したとしてもな。僕もこう見えて実は数百歳も生きている。自慢じゃないけどね」
楓は再び幻覚かと疑った。どう見ても、目前にいる人間は、二十歳のなかばくらいにいる、熱気を帯びた伊達男ではないか。
「いつまで経ってもそのままの姿なんだ。だから同じ所に長くとどまってはいられない。だから四条盛永は秘密を隠すために自分の家庭を捨てた」
「そんな過去が……」
楓は、盛永の選択をさほど残酷とは感じなかった。それよりも、行使者が世間から離れて生きているという事実に、生々しい寒気。
維光も透も、同じ宿命を背負っているのだ。
「僕らの目的は、惑書を奪うことにある」
佐井は椅子から立ち上がると、意気ごむように腕を鳴らし始める。
「なぜ奪うかというと――銀の行方を知るためだ」
「――銀とは?」
次から次へと新しい単語。覚えるのにも一苦労。
「魔物だ。だが、他の魔物と違って、自分の意思でこの世界にやってきたらしい」
「魔界から――ですか」
楓は、自分の入りこんだ世界の大きさに、押しつぶされそうな圧迫感を受ける。
「魔界。ああ、僕も実際にそこに行ったことなんてないから詳しいことは知らないが、どうもあいつはその魔界では上層にいる存在だそうだ」
佐井自身の来歴、推測の根拠、質問したくてたまらない。だが、佐井の話を中断したくもない。
「四条盛永も僕と同じく奴を追ってたんだよ。のみならず、奴と遭遇したんだ」
楓はますます耳を澄ませる。
「遭遇して……」
「遭遇して……闘った。だが、それっきり、消息不明だ」
楓の心が重荷が解き放たれ、一気に軽くなる。そのまま別の疑念が荒々しい気配で楓の感情を刺激する。
「死んだ……のですか?」
「その可能性も否定できないが……気になるのは、奴の僮僕である惑書が生存しているってことだ。もしかしたら奴としめしあわせていたのかもしれない」
すぐにわきあがった疑問を即座に口にする。
「銀の行使者は?」
「銀に行使者はいない。行使者がいないのに力を有っている。それが、僕の根拠だよ。あいつは魔物だが他の魔物とは格が違う」
そして、気がかりな表情で席につく。
「加之、惑書も数千年を越して生きている最古参の魔物だ。やはりそれなりの事情があるとしても不可不疑」
「その惑書を……今、維光がもっているのですよね」
真実を聴いたことで、楓はあらたな使命感に囚われていた。
維光を何としてでも、この戦いの輪廻から済いたい……。
「そこで僕は刺竹を透くんに派遣して、惑書を奪わせようとした。だが、失敗に息わった」
心の底から残念がっている声だ。楓は、喜ぶべきか、喜ばないべきか、反応にこまった。
「魔物はそう素直じゃないからね。『手元に残される』なんてことはあいつらにとってなかなかの屈辱さ。こっちにはあと一匹しか備蓄がないんだぞ」
手元を見て、わらにもすがりそうな顔。しかし楓に視線を転じた時は、歯を見せてなぞの笑い。
「どうだ。君が奴から惑書を奪うのは」
楓は動揺した。それが自分の義務となると、とてもやれる仕事ではない。
なぜなら、命がかかっているのだから。
「で、できません。私はただの女の子です。そんな危険な仕事、できるわけない」
維光は単に惑わされているだけではない。誰も知らないこの世界で一つの存在として活動しているのだ。惑書はあやしげな書ではない。想像を絶する長い時間、この世界に鎮座している怪物。自分一人の力でどうにかなるはずが。
「できないだって?」
佐井の顔も声も、見違えるように変わっていた。
楓は、ひきつった顔を浮かべ、鳥肌を立てていた。
「私、帰ります。学校に今すぐ帰らなくちゃ――」
「俟てよ」
服のすそごし、首をつかまれ、楓は拘束される。
背後で佐井は、恐ろしく不機嫌そうな声でまくしたてた。
「忘れたのか? あともどりは、できない」
と当たり前の言葉を繰り返させられる時の、あの腹立ちようで佐井。
「逃げようとしても無駄だ。維光が惑書を使役し、行使者の道を突き進んでいるという事実は!」
完全に激高している佐井。
「そして、惑書を始末したところで、維光は行使者であり続ける。もうあの日常は二度と回復らない!!」
楓特有の勇敢さも、この際何の役にも。
「離して……ください」
しゃれにならん小娘だ。かりかりした顔つきのまま、佐井はその手をゆるめる。
ようやく振り返った楓は、まるで何十歳も老けたかのように、すっかり委縮してしまっていた。
震えの停まらない、その頭。
「そう恐がらないでくれよ。本当に恐がるべきものは僕ではなく四条維光の方なんだからな」
四条維光。彼から惑書を奪う。この男の目的に沿うために。
行使者という、わけのわからない現実の前では仕方のないことなのだ。
たとえそれが肝胆相照らす友達であっても。
「どうだ……協力してくれるか?」
その間は、想像以上に長いものだった。ついに出た楓の回答もやはり、実に不安定な態度だった。
「彼から惑書を奪えばいいんですね。分かりました……協力します」
佐井は、楓を安心させるため両肩をやさしくたたいた。
「決意が固まったら……明日ここにこい。お前の活動に適した魔物を用意してやる」
「随分らしくないやり口だったな、佐井?」
天井に四角い穴があき、そこからはしごが出て着ぶくれした小川が降りてくる。
「長い間行使者としか話してこなかったからな、あまり普通の人間に対する口の利き方に馴れておらんのよ」
佐井は肩をすくめ、苦笑。
「しかしまさか、いともたやすく維光の知己に接触できるとは……」
「俺自身も意外だったね。まさか内側から都合のいい動きを展開してくれるなんて」
「千本楓……か。書いておかないと忘れそうな名前だが……ああいう奴は返って御しやすい」
小川はそこで冷静に指摘。
「思い出せよ。この街には惑書がいるだけじゃない」
「そう。金蛇がいる」
彼らの計画において、金蛇はどう動くか分からない不確定要素だった。
いまだに契約しておらず、今なお街をさまよっている。
「あれはごく最近現れた魔物らしいな?」
小川はそれと分からないくらいのかすかな動きで、うなずいた。
「一年にどれくらいの魔物がやってくるのか知らんが……」
小川にしても、魔物の現れる原因を知悉しているわけではない。何しろ、大半の魔物がこの世に来る以前の記憶を失っているのだ。知っていそうな魔物は、接触することさえ難しい。
「あれを探すのは骨が折れる。力のない魔物だからこそ、気配を探知できない」
「行使者にも同じことが言えるな」
小川の言葉には概して感情が淡泊で、意図がつかめない。それでも佐井の困った調子に同調しているのは明確。
しばし沈黙がさす。
佐井は、彼がかぶっているヘルメットの向こうに隠れているものを、凝視してつきとめようとした。
けれど、ついにつきとめることはできなかった。小川はある部分を外に見せながら、それ以外の全てを一切穴のないベールで覆っている。
結局二人は、たがいをさほど信用しているわけではないのだ。
「俺は四条維光を探しに行くよ」
佐井は椅子から起ちあがってドアノブをにぎる。
「どうして?」
「奴にあいさつしに行くんだ。まだ真正面から奴に会っていないからな」




