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2-1 崩れていくだけの生活

「一体、あの頃の主はどこに逝ってしまったのでしょうね」

 惑書の言葉も、今や維光の心情を揺るがしそうにない。

「私が初めて会った時の主はもっと雄々しい方だったというのに」

 維光はベッドの上に横たわり、ゲームをしていた。

 しかし、一向に面白くない。深くに沈んだ感情は、到底癒えそうにない。

「ふざけるなよ。楓があんなに作色(きりきり)してんのに、元気なわけないだろ」

「おかげで永歌さんもすっかり心配気味ですわ」

「その心配は透に(まか)せとけ」

 完全に維光の口調は投げやりで、何の思慮もない。

 理性では知っているのだ。今の自分は、前よりも遥かに堕落し、うぬぼれている。

 けれど、どうすることもできない。

 刺竹を維光と惑書が滅ぼしてから数週間が経った。

 透はすっかり元の状態に復り、生徒たちと仲良くやっている――ように見える。

 だが維光は、ますますやつれていた。もう自分の悩みにも無感覚になろうとしている。塵埃(つちくれ)にでも作ってしまいたい状態。

「あなたと来たら、どんどん気力を喪っているみたいね」

 惑書は机の上にページを開いた状態で置かれていた。維光はページから情報が飛びこんでくるのを感じる。魔物を討ちとるための呪文だ。とはいえ、戦闘でもないこの時、意図的に理解するつもりはない。

 惑書は行動を起こさせようとしている、と直感で読み取ってはいた。

 けれど、こんな無様な貌の自分に、気力を強いて起こさせようとでも?

「あなたは行使者よ。そんな慢心が致命(いのちとり)だって分かってるの?」

「僕は慢心してるだけじゃない、ただ元気がないだけなんだ」

 行使者。正直、もっとも聞きたくない(ことば)だ。

 なるほど惑書と契約してからというもの、維光は非日常を生きる行使者となり、人間ではなくなってしまった。

 だが日常ではいまだに一人のしがない人間なのである。

 何より、行使者であるという事実から由来する、行使者的な精神状態が時折訪れることへの嫌悪感。

「……違う。あなたは現状に甘んじたい気持ちと、行使者としての義務が果たせない無念の間で葛藤してるのよ」

 最悪だ、と叫びたくなる。

 嫌でもこの呪縛とつきあわなくちゃならないなんて。

「行使者としての……義務……」

 そうだ。僕は行使者だ。魔物を、討たねばならない。そういえば以前、金蛇(かなへび)とかいう魔物に遇ったな。あいつが誰かと契約する前に――

「くそっ」 頭を拳で打つ維光。なぜ、自分の中の行使者に思考を許してしまうのだろう。

 しかし、そうなのだ。もし、行使者として行動を起こさなければ何が起こるか分からない――この強迫観念も、(はげ)しく少年をゆすっている。

 金蛇。一体あの魔物はどこに逝ったのだろう?

「透に訊いてみましょうよ。魔物についての情報を」

 惑書はみずからページを閉じて、維光に進言。

「彼が刺竹から聴いたことは、ぜひ私たちも知らねばならなくてよ」

 あまり期待できない、と素直に思う。透はもうあの時のことを二度と思い出したくないだろうし、問い詰めてもどうせ嫌がるだけ。

「透に、か?」

「……だめでしょうか?」

 さすが透相手といっても、この話題を持ちだすのは正直気が退ける。

「どうせあいつに尋ねたところで――」

 維光のあきらめた声にたちまち、嘲笑めいた口調で、

不可然(ありえない)わ。行使者が行使者であることを否定するなんて。行使者が契約を解除した所で、元の人間には戻れないんだから」

 普通なら驚いてもいいはずだ。不拘之(なのに)、維光はすんなりとそれを受け止めてしまっていた。

「ああ。あいつは俺より人間らしいからな」

 維光はそう言い終わった途端、何か残酷なことを言ってしまった罪深さに陥ったが、現実には何の対応も。

 なんて冷たく、無責任な人間なのだろう。この僕は。

「かりに透がしゃべらないとしても、私たちがこの街にいる以上必ず誰かがやって来るはずですわ。仮にも私は数千年を生きる惑書なんですから」

 やや冗談めかした口調。維光は何とも反応に困った。

「……その時はその時だよ」

 誰かがやって来る。惑書と、自分を滅ぼしに。

 事実だ。僕たちは非日常に生きている身なのだ。この街が争乱(あらそい)の舞台になったって、ちっともおかしくない。

「で、どうするの? 透に訊いてみる?」

 ゲーム機の電源を切り、枕の上に。

「……分かったよ。やればいいんだろ」

「そうでなきゃ、行使者らしいとは申せませんわね」

 惑書には不思議な力がある、と維光は思う。

 先ほどまで生きることにさえだるさを感じていたのに、いざ『透から事情を聴きだす』という仕事ができると、不可解な意気ごみがわいてくる。

 行使者・四条維光に侵食されている証拠だ。自分自身の焦点の震えに途方もない悪寒。

「電話をおかけになりますか?」

「今家に帰ってるかどうか……」

「透様はこの時刻なら」

 端末のアプリとして乗っている電話帳を開き、『夷川透』の欄を押した。

「もしもし。維光だ」

「ああ。透?」

 どこか精爽(ここちよさ)のある声をまとう透。

「うん。ちょうど永歌さんと部活してたんだけど……何か?」

 こんな上機嫌の透を聴くのは久しぶりだ。だからこそ、罪悚(うしろめたさ)もある。

「まわりに……人はいないな?」

「いないね……今日、父さんも母さんも会社の会議に出席してるから」

 透はわりと育ちがいい。どうも父が企業の重役らしいのだが。

「……魔物の話だよ」

 低い声でささやく維光。

「やめてくれ」

 極めて小さく落ち着いた口調だが、それゆえにあの出来事への生々しい感情も理解できた。

 透にとって、その事件はまさに禁忌(タブー)

「言うと意った。でも、僕にだけなら教えてくれるだろ?」

 維光の懇願。けれどそれは親友の(こころ)を何よりえぐりだす。

「僕が家族にどれだけ迷惑をかけたか分かってるのか? この事件は会社の中でもうわさになってるんだ。僕ら二人だけのことじゃないんだよ」

 先ほど自分で言った通りだ。透は、僕よりも人間らしい心をとどめている。行使者の自覚に蚕食(むしば)まれていない

「僕ら二人は行使者だ。同じ秘密を共有してる仲だろ」

「あの時のことは忘れてくれないか。家族から何度も詰問されたんだ。どれだけ心が寒くなったか分からない!」

 透の沈痛な叫びは、内心では怒り狂っていることを示している。

「もうあの時のことを思い出すだけでもぞっとするよ。他でもない君にそんな質問は受けたくない」

 やはり維光は容赦しなかった。あくまでも透を行使者として、この電話をかけていた。

「刺竹から他の魔物について聞いただろ? 頼む、そのことを聴かせてくれ」

「やめろ」 ほとんど棒読みで、透は応える。

「僕でも……いけないか?」

 透は、何も言わなかった。

 数秒後、電話が切れ、「ツーツーツー」という無機質な効果音が片耳へ。

 透は、結局何も助けてはくれなかった。責めるつもりはないが、それでも……残念だ。

「やっぱりな」

 大きくため息をつきつつ、ベッドに横たわる。

 妙に透が教室では明るさを気どっていたのも、理解できるかもしれない。要するに彼は、現実から全力で離れ去っているのだ。無論永歌といちゃつくのも一つの現実であろう。しかしそれは、行使者になったという事実を少しも歪曲(ねじま)げるものではない。一時の逃避(きやすめ)に過ぎない。

「虚しいな。何もかも」

 唯一の理解者に見捨てられるという辛さは、どうしても難克服いものがある。

「行使者は、他人には理解されないものなの」

 冷たく言い放つ惑書。

 維光は危機感を覚え始めていた。永歌や俊船が心配してくれたところで、どうにもならない。必要なのは、行使者の世界における情報なのに。

 現実の世界でやけを起こすと同時に、行使者としても落ちぶれていく。まるで、悪夢だ。

「あなたは、そのままでいいの?」

「いいわけないだろ!」

 維光はベッドから身を起こし、いきりたつ。

 同時に、惑書に八つ当たりする無意味さも十分に理解していて。

「心配なのは、楓のことだ。あいつはまだ僕に疑念(うたがい)をかけたままでいる。これだと先、どうなるか……」

「じゃあ――消しちゃう?」

 と惑書。笑えない冗談だ。

 行使者でもない人間が行使者の事実を知ろうとするやり方は事実不気味だ。だが、楓は一般人に過ぎない。軽率に手を出していい相手ではない。

「分かったよ。次、透に会った時におどせばいいんだろ」

 維光なりの方法で、受け流す。非日常と日常の境界線上で少年はもがいていた。


 都是(すべて)あの書の仕業なのだ、と楓は決めかかっていた。そして、あの書を破壊しないことには何も解決しない、と踏んでいた。

 無論、維光は自分の心の内をさとっているに違いない。万端の準備がこの際なのだ。

 一つの作戦を楓は立てていた。自分が直接あの書を求めて来たら維光は怪しむに決まっている。だから書を盗むのは他の奴に頼まねばならない。

 永歌か御池あたりにやってもらうのが得策だろう。透は維光に一足かんでいるに違いないし、もしかしたら自分の計画を妨げさえするに違いない。

「おはよ、透くん!」

 永歌の様子を視ると、これは適切だろうと察する。

「昨日は(たの)しかったよ、永歌さん。ありがとう」

 透はこのごろやけに陽気な感じがするのだ。どうも、何かを隠したがっているよう。

 普段の透はもっと大人しくて、さびしそうな奴なのに。

「ねえ、御池ちょっといい?」

 永歌が透から離れた時を見計らって、楓は御池の席にかけよる。

「どした、楓?」

 無知蒙昧そうなその表情に、内心ほくそえんだ。

「一つ、依頼(たのみごと)があるんだけど」

「ああ、なんでも聴くよ」

 静かな声、ひそかに耳打ち。

「維光が来たら、あの(ほん)を頼みこんで借りてもらえないかしら?」

 緊張はする。何しろ御池は思慮が浅い奴なのだ。異例の事態が起こったらどうすべきか。

「そういやあいつ、確かにそんな書あったな」

 単純だからこその不確定要素に、若干不安な心。

「うん、でもまずそれを永歌に伝えてほしいのね」

 御池は予想通り、けげんな表情。

「……なんでそんな方法煩雑(まわりくど)いことを?」

「いいから。でもその時、永歌には秘密を守らせておいてね」

 御池は、事実単純だった。楓はきっと物好きな性格なのだ。ああいう不思議なものを見せられたら、知りたくてたまらなくなる。

「……了解したよ。あいつから書を持ってこさせればいいんだな?」

 俺はあまりそういうものの価値(ねうち)も分からないからな。まあことさら、声を大きくして伝えることでもあるまい。御池は、ついに楓の目的(もくろみ)に関心を寄せなかった。

「そう。ちょっと調べてみたいことがあってね」

 と、この会話を破るように維光が入ってきたようだ。

「よう透、昨日はすまなかったな」

 透は首をかしげる。

「さて? 何のことかな?」

 ここまで疑わしい気持ちを持っていると、あの何でもない仕草にも裏が見えてくるものだ。実際、そういう所から真実が暴露した例は(おお)い。

「最近発売されたゲームをやってるんだけど、攻略法が分からなくてさ……」

 楓は静かな表情で、状況を観察している。

 この会話劇が、どうか順調に進みますように。

「あ、御池君?」

 御池からもちかけられる永歌。

 維光は透との会話にうちとけている。今にも化けの皮をはいでやるから。

「ねえ、ちょっといい?」

 永歌が二人の間に割りこんでくる。

「御池くんが、維光くんの書をちょっと見たいんだってさ」

 楓は、透が嫌そうな目をつくるのを見逃さなかった。

 間違いない、あいつも維光と一緒に秘密を隠匿(かく)している。

「主よ、何かあればすぐに馳せ参じます」

 惑書の言葉は、透以外の誰にも聞こえない。

「私と主とは見えない糸でつながれていますから」

 きざでもなんでもなく、単なる事実。

 維光は少し意外な感じもしたが、それでも不審には感じなかった。

 あいつになら別に貸し出しても問題ないだろう。どうせ分からないに決まってるんだから。

 まさかいじくるまねはしないはずだ。あいつは正直者だから、他人のものに勝手に手を加えたりはしないはず。

「……これか?」

 かばんから惑書をとりだし、御池にわたす。

「……わりと小さいな! 俺が初めて見た時はもう少しでかいと思ったんだが」

 ちょうど、御池の赤い両手に収まるほどのサイズ。惑書が自由に姿を変えられる事実は、この際秘密厳守。

「うん、時と場合によってはね」

 楓はそっぽを向いているように見えて、しかし片言隻句も聴き漏らさない。

 あの書を燃やしてやる。そうすればあいつも正気になるはずなのだ。

 何しろ、これまで変なことが起き過ぎた。私の推測が間違っているはずがない。これはみんなの人生に関わる一大事なのだから。

「ああ。じゃあちょっと見物させてもらうよ」


 みんなが出っ張らって、どの机の上にも脱ぎ捨てた制服がちらかっている状態の教室に、体操服の少女が一人で訪れた。

 誰もいないことを確認すると、少女は御池の机から一冊の本を取りだした。黒い革が覆い、金箔模様が走る一冊の本を。

 これに維光は惑わされているのだ、と合点した。灰になるまで燃やさなければならない。誰にも気づかれないように、両手で重たそうに抱きかかえると、少女は廊下を通り、階段を降り、校庭とは反対側の裏道へと。

 薄暗い林に面し、体操の号令が遠くから聞こえる以外は、人っ子一人いない静かな道。誰かが目撃したらとんでもないことになる。

 楓は林に分け入って枯れ葉や草を持ってくると、打ち捨てた書の上。ズボンのポケットからライターを取りだし、無防備な惑書に火をつけたのだった。

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