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1-19 説得

「負けたんだ……僕は……」

 透は、かすれ気味の声でつぶやく。

 魔物を失ってしまった――もうこれ以上、抵抗する術はない。

「僕に一発(とどめ)をさせ……維光」

 刺竹の姿はもうどこにも。空気になったのか、それともこの世以外のどこかに還って()ったのか。

「主よ、早く」

 脇に中、惑書のせかす声を、維光は無視する。行使者だという意識が生物のように増長し、自分をのみこみそうになっていた。

「透、いい加減起てよ」

 さし迫った状況だ。体の痛みは手以外の所からも発している。そのせいで余計に精神にもがたが来ていた。

 維光は踏まれていない方の手を透に差し伸べる。

「およしなさい。彼はもう――」

 脇を揺らすと、惑書は沈黙した。それでも、やはり不服な心情は伝わってくる。

 一体、敵になぜそのような温情(なさけ)を? 何の役にもたたないのに?

「おたがい辛かったよな。激動の数日だよ、本当に」

 維光は透に、本来の姿を復想(おもいだ)させようとする。

「まるで、人生を数回繰り返したような永さだ。もう二度と……経験したくない」

「おい、維光……」 まだ信じられないという顔でこちらを見つめる透。

「なぜだ? なぜ、動かない?」

「もしお前が本気で行使者やってるなら、俺にかみついてるところだぜ」

 維光は実のところ透にそうしてやりたかった。自分をこの運命に導いているのは透の手に因るのが大きいのだから……。

「でも、お前はきょとんとしてるままだ。要するに、もう断念(あきら)めてるんだよ。行使者としても人間としても」

「違う、僕らは元には復れないんだ!」

 透は気色ばんだ顔でまくし立てた。

「行使者になった以上、普通の人間として君を察ることはできない。君だって行使者なんだから。だから、人間の真似をするのはやめろ!」

 透は何者かを恐れていた。正体は分からない。けれど、あたかも行使者を陰から支配している何かがいる。

 維光は、透の発言を一理あるとした。それもそのはず、行使者が行使者に容赦するのは恥であるという固定観念を無意識的に彼はいだいていた。けれど、親友である以上、あえてそれを破ってでも彼を助けてやりたかった。

 自分以外の誰もが敵、そんな世界に住みたくなかったから。

「行使者になってまだ数週間も経ってないんだぞ。それ以前は人間だった」

「でも今は確実(れっき)とした敵同士だ」

 維光はため息をつく。次第に眠気までもよおしてくる。

「頭が固いな。だから楓や永歌に岡惚れしちゃうわけだ」

 透は不意に息をのむ。この状況、もっとも予想外の返事。

「なっ……」

「僕は疲れたよ。これ以上べらべらしゃべりたくないし、下手をすると眠りこけてしまう。頼むから、ついてきてくれ!」

 伸ばした手がどんどん震えてくる。一秒たりとも立ってはいられない。

 言われる通り、僕は行使者だ。同じ行使者である透を殺さなくちゃならない。けど体力が限界なんだ、早く休息が取りたい――

「いい加減に、頭を下げろ!」

 とめどなく流れ込む欲求が氾濫して、口にまで転がりこんだ。

 透は気おされたのか、次第にかたい顔色を弱めて行った。

 維光の言葉で、行使者的なあの態度はだんだん退いていき、あの日常的な人間としての透が前面に出てくる。そしてその透は、確かにこの時の状況には適切(につかわ)しくない、あまりにも気弱な少年だった。

 維光は一刻も早くうなずいてほしかった。手の傷が悪化したらどうする。

「さ……さ……下げる、下げる……」

 これは命令なんだ。従わなくては。透にも疲労は圧迫(おしよ)せる。 透はそこで頭を慎重に挙げだした。

 維光は自分の同一性が乱れて止まらないことに激しい不快感。

 生まれて以来自分の存在理由(レゾンデートル)に、これほど根源的な疑問と葛藤をかかえたことは。

「違う、そうじゃない……」

 もはや維光の忍耐も限界に。

「性懲りないな、この野郎!」

 維光は感覚が麻痺しかけている透の片手をにぎりしめると、

「惑書、今から家に送ることはできるか?」

 と脇に向かって訊く。

「学校に自転車を置いたままではないのですか?」

「それは後でごまかせばいい。とりあえず、どうにか体力を使わず僕の家に行く方法を教えてくれ」

 何でどいつもこいつも頭の回転が遅いのか。

「一応、空中を移動することができなくもありませんが――手を離さないでくださいよ?」

「そんなこと分かってる。僕が誰か知らないのか?」

「存じ申し上げておりますよ。先代の主四条盛永の子、四条維光」

 惑書が従順な口を叩いた時、困憊(けだるさ)の中にも久々に上機嫌に維光はなった。

「そしてお前は僕の僮僕(しもべ)の惑書だ、憶えておけ」

「維光、どうするつもりだ」

「しょうがないから僕の家に泊まらせてやる。それから自宅で十分頭冷やせよ」

 透は悩ましげな表情を一瞬浮かべたが、あとは次第に気が遠のいていく顔。

「頼むぞ」

 かばんを肩、透を背中にしょって、惑書を胸に。

「強敵をみすみす生かしておくとは、実に愚かな人」

 惑書の愚痴を維光は無視。何かの感情にかられて、行使者の自覚にとらわれたくはない。


「透から電話があったんだけど!」

 楓が維光の肩をたたいて告げる。

 肩から延びる腕の末、白いガーゼで片手をまいている。

「何が?」

「昨日家に戻ってきたんだって! やっぱり、長い間家出してたみたい」

「そりゃまじか!?」

 竹屋町がすぐさま二人の元に。

「いや……よかった。もし本当に所行(ゆくえ)をくらましてたらどうしようかと……」

 お前は自分の言った言葉を忘れたのか、と維光はつめよりたくなる。

 不思議だ。以前の僕だったら無過誤(まちがいなく)なぐりかかっていたろう。しかし、今やそんな気持ちは微塵。

 恕せるというよりは、ただ関心がない。それは僕と透の間に何の事象も起こさない。

 確かに、僕は変わってしまった。そしてそれを、誰にも明かさない。

「ねえ、今すぐ透の家に行こうよ」

 その情報を聞きつけ、永歌が無茶な提案。

「色々訊いておかなきゃ。この数日間、私、生きた心地がしなかったんだから」

「ああ。とにかく、勝手に俺たちの前から銷えたことを猛烈に謝らせてやる」

 身勝手な竹屋町の気炎。

「別にそんな必要はないよ」

 維光は無意識に返答。

 だって、僕はもう知っているのだから。

「維光、あなたって人は――」

 楓は正義感からこれを糾弾しようと。維光と透が隠しごとをしていることは最初から分かっていた。

 今、透が(すがた)を現したことは何らかの事件なのだ。始点(はじまり)か、その一部か、まだ決着はつかないが……。

「維光、お前が言うならこっちも逐わないさ」

 楓の言葉をさえぎる竹屋町。

 楓ほどに維光を疑っていないとはいえ、やはり裏があると見抜いていた。あくまで、こいつに言えない秘密がある、という漠然としたものではあるけども。

「何しろ今日はやけに睡魔が来てるらしいしな」

 維光が透を探して、家におくりとどけたのだろうか。あるいは、透自ら家出を罷めたのか。どちらにしても、維光の様子には一種のなぞがある。

「ああ。眠いんだよ。何せ昨日はかなり疲れたからな」

 透は、もうお前らの知っている透ではなくなってしまった。

 僕も、透も、すでにこの世の存在ではない。その真実は、知らない方が彼らにとってはずっと幸福(しあわせ)なのだ。

「透もかなり疲れてるだろうし、今質問しても答えられないんじゃないかな」

 楓は、その時でさえ維光の詮索をやめてはいない。

 維光と透が裏で秘密を共有している。

 二人は対立関係にあった。もしその対立関係が残っているとすれば、透に私たちを会わせたくないのは当然のことだろう。対立していないとしても、秘密の一環を知られたくないのだ。

 何とかして、透と口をきかねばならない。維光の化けの皮をはがすために。

「失礼します……」

 誰だ? と、一般人の三人は同時に感じた。幽霊の声ではないか、と疑ったほど。

 幽霊でも何でもなかった。夷川透が教室の扉もとに立って、気後れした表情。

「透くん!」 永歌がすぐに透に走ってこれをだきしめた。

「おいおい……」 竹屋町がにやついている。

 御池が肩を組んで二人を見守っている。

 透はただただあっけにとられている。

 維光は、微笑(ほほえみ)を浮かべた。そう――表の世界では、このことだけ知られればいい。

 誰にも、僕と透が経験したことをばらしてはならない。

 いきなり湧きあがる拍手、口笛。何かの式場みたいに教室はなった。

「――ごめん!」

 透は叫んで、永歌を引き離す。

 場をとりまく雰囲気が、緊迫していく。

「いや……こんなこと言っても赦してくれないだろうけど……」

 透はおどおどしていた。

 維光には分かる。それが、行使者という真実に対する忌避と嫌悪から来るものだと。

「とにかく……僕は正気じゃなかった。もしかしたら、今も正気じゃないかもしれない、だけど……」

「ねえ、透くん」

 永歌は不安な口調で打ち明ける。

「今私は透くんに訊きたいことが山ほどあるの。なんであんなことをしでかしたのか、とか、あの間どうやって生きてたのか、とか考えてるときりがない!」

 永歌は今にも泣きそうな顔をしている。激情が裏に隠れている。

「え、永歌さん、僕は大変なことをしでかした……」

 僕に比べると、透はずっと人間的だ、と維光は思う。

 行使者という非日常を、普通持参(もちこ)むことがあまりにも重大だから。

「ひょっとしたら、僕はもう戻ってはいけないかもしれない、許されてはいないんじゃないかってずっと思ってる。それなのに、僕の――」

「ねえ、そんな顔しないで」

 永歌は愚かな人間だ。行使者という裏の世界を何も知らず、無邪気にこの再会を喜んでいる。

「私はただ透くんの顔が見れただけで十分うれしい。だから今は透くんの体を抱かせて」

 永歌が両手を回してくると、赤面して言葉を喪う透。

 再びわけのわからない虚騒(からさわぎ)

「……維光」

 楓と維光だけが、終始冷静。

「なんだよ」

 楓は、感情のなさげな声でたずねる。

「ところで、その傷は?」

 維光は、片手にガーゼを何回か巻いていた。指が動くかどうかわからないくらいに。

 そしてその理由を、何気なく維光はごまかす。

「こけた」

「こけて、そんなに包帯まくわけ?」

 もはや楓にこみ上げた感情は不審どころではない。怒りだった。

 やはり、立ち上がらねばならない。真実を知るために。透と永歌の甘い情景にだまされる筋合はない。

「それはもう、学校で忘れ物したんだからね。気づくのにかなり時間がかかっちゃってさ」

 ……楓が、こっちを探っている。そろそろ維光も、楓の思惑には気づき始めていた。

 何かするつもりなのかと、恐怖は感じる。けれど、それを知った所でどうにかなるものではないと、たかをくくっている部分はある。

 普通の人間である楓が、行使者である自分に対決(たちうち)できるはずがないのだから。

「そう。ならいいけど」

 楓はどこか猜疑心のある顔のまま、自分の席に。

 維光は抱き合う少年少女に、内心戦慄した。行使者・四条維光が、またもや顔を出した。

 精神的にも、非日常が日常を冒しつつある。

 いつまでこうしているつもりなのだ。楓がこの非日常に足を踏み入れない可能性は?

 何より――行使者である以上、いずれ次の挑戦者が出てくるだろう。どこから? 何のために?

 四条維光の住む世界は、完全に荒廃した砂漠のようだった。

 こんなささやかな、楽しげに見える光景さえ、今や戦場の一部だなんて。


「刺竹がやられたか」

「ああ。経験の浅い行使者同士なら互角と意ったが……」

 ぶ厚いジャンパーにヘルメットの男は、口の見えない顔でしゃべる。

 それを聴くのは、黒縁の眼鏡、茶髪で少しやせつつも、小賢しさを宿した笑顔の青年。

 隙さえあれば異性を口説いていそう。けれど、色気とは単によべない闇が、瞳の向こうに広がっている。

「四条維光! あの盛永の子息(せがれ)、父親から行使者の才能を継承(うけつ)いだというのか」

 若者は、感情の高ぶったそぶりを浮かべた。その顔つきにしても、やや芝居がかっている節。

「以前店で奴と遇ったろう? どういう印象だった」

 ヘルメットはその隠れた顔のせいで、余計に何を考えているのかわからない動作だ。

「驚くほど特徴のない人間だ。一言では言い尽くせないものがある」

「ははん、となると凡庸の人間か?」

 若者が鼻で笑う。

 ヘルメットはあいも変わらず、全体として起伏のない口調を続ける。

「誰が行使者であっても構わん。あいつは(しろがね)の正体を知っている数少ない魔物だ。だが、惑書を捕えるのは相当難しいらしい。刺竹が撃破(やられる)となは」

「夷川透はどうなった?」

 刺竹という手札が失われた今、魔物はあと一人しか残されていない。

 何より、行使者の安否が重要なのだ。生きていると逆に困るのだが――

「生きている」

 若者は沈んだ顔を浮かべる。それでは、逆にやっかいだ。

逃避(にげの)びたのか?」

「四条維光と夷川透は旧知の間柄だ。その縁もあって命を助けたそうだ」

 ヘルメットの言葉に、すかさず相手は異議(つっこみ)を入れた。

「旧知の間柄? それは、誰かの口伝(つて)で聞いたのか」

「その程度の情報、わざわざ探偵を傭うまでもない」

 なるほど小川(おがわ)らしいな。何十年も行使者として生きてると、この界隈の情報には自然と精通するらしい。

 確かに俺自身も気が遠くなるくらい行使者をやってるわけだが、この地に根を張ったのはごく最近のことなのだから。

「どっちでもいいさ。とにかく俺たちは四条維光を撃破して惑書を奪えばいい。総全(すべて)はそれからだろ?」

 この男は実に不備(ぬけめ)がない、と小川は(なげ)く。魔物を契約もせず自分の手元に置くというやり口は自分なら想像もしなかった。

 世俗の社会同様、我々行使者の世界も日に日に変化しつつある。

 今度は小川が問う番だった。

「ところで、街にもう一人魔物がしのびこんでいると滑脚(すべあし)が言うのは本当か?」

「ああ。あの魔物が万一行使者を持つことがあれば不利な状況になる。計画の途上で奴もまた始末すべきだろうな」

 小川はけっしてこの男を信用していない。銀に関する真実を知らない間、ただ利害の一致のため協力しているに過ぎない。

 目的を達成すれば、いずれ必ず敵同士になる。それまでは、この仮面夫婦を演じていることとしよう。

「お前はとんだ策士だ、佐井(さい)崇勝(たかかつ)。こっちからは動かずに、惑書を捕縛しようというんだからな。私だけならもっと多くの年月を経たであろうによ」

「ははっ、そりゃどうも」

 四条維光。小川にとって、その名は忌まわしい語感をともなった。

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