1-1 怠惰な日々
何もかもがむなしい――四条維光はつぶやく。
数年前、父親が突如として消えてしまった。母親は、「どうしても話せないことがあったらしいの」と繰り返すばかりで、何一つ本当のことを告げてはくれない。
どうして、父さんは消えたんだ――維光は天を呪う。あんなに強くて、陽気で、人間味にありあまる父さんが、急にいなくなってしまったなんて。
なんでなんだ。
維光は、もう父がいなければこの世にいても仕方がない気がした。どんなに気が弱くなっても、父がいればそれだけで安心できたのだ。父がかける言葉で、一度も維光がなぐさめられないことはなかった。
何しろ維光は、自分の弱さをずっと自覚していたのだから。経験していないことに踏み出す勇気もなければ、おかしいと思うことに異論をとなえるのも難しい。けれど、父はそれをやった。だから、これにならおうとして常に一歩に踏み出す自信を持てたのだ。
けれど今や、それがない。
道理で、この日も堕落した日常。
「起きなさい、維光」
「……分かったよ……」
維光は母親の下からの言葉で、この日も身を起こす。
「もう、元気がないわね。父さんがいた頃はいっつも早起きしてたのに」
維光はベッドから起きると、目をこすりながら階段を下った。
すでに下の方では、テーブルの上、朝ごはんの用意がしてある。
ああ、こんなだらしない僕のために――とやるせなさを覚えながら、しかしどこかで納得できない心。
壁にかけられた時計を視ると、もう残された時間は少なくないらしい。
「やっば、もうこんな時」
「ほんと、最近は気力がないんだから」
と脇に手を推して腰を張る。
パジャマ姿のまま、維光は自分でもこれはつたないと思う速さで食事を済ませる。父さんがいたころだったら、きっとこんな無作法な雰囲気なんてかもさなかったのに。
消化の悪い荷を腹に抱えたまますぐ着替えに移り、自転車を小屋から用意して、かばんをその後ろにひもでくくりつける。いつものことだ。ただ違うのは、父親が見送ってくれないこと。
「まだ、お父さんのことが忘れられないのね」
母は、維光に近づくと細い目でその顔をみつめた。
「だって……まだあれから、五年くらいも経ってない」
どうやってその事実を受け入れろというのだ。取り戻しようのない喪失感をどうやって?
怒りと悲しみのないまぜになった表情でみかえす維光。
「でもね維光、これは仕方がないの。もうあの人は、四条盛永という人はいないの。死んでしまったの」
その瞬間、きっと。
「死んだって? 一体、どんな風に死んだってんだ!」
維光は、そんなこと到底信じたくなかった。死んだなら、もう再会の希望はない。
「死んだのと同じなのよ。どうせ、私たちにとってあの人はこの世の存在じゃないもの。私たちが生きている世界の人じゃないんだから、最初から死んでるのと同じ」
母は、それがごくまっとうな言葉であるかのように告げた。おかしいことを言っている自覚はいささかも。
維光にとっては、まさにそれこそが狂気以外の何物でもなくて。
「は? 最初から死んでるって?」
維光は、もう自転車にまたがっていた。
「だったら、最初から僕なんて生まれなきゃ良かったんだな!!」
「違う、そうじゃないの。そんなこと言ってるんじゃ――」
ああ、嫌だ。虚無感が一気に奥底から湧き上がる。
「うるさいな! 母さんは、どうせ父さんが死んだことを僕に認めさせたいだけなんだろ」
言い終わらない内に、もう自転車を走らせ、遠くに向かいかけていた。
「維光……」
母親は、玄関の前で枯れたようにうなだれていた。
教室では、もうすぐ生徒全員が着席しようとしている。
しまった、と自分の怠惰を恥じる維光。
すぐに、その前に一人の女子生徒が駆け寄る。
「少し、遅いんじゃない? 四条君」
「ごめん、楓」
千本楓は長身で、目つきは鋭く唇もきゅっとしまっている端正な少女だ。その容貌と性格のために教室の面々からは信頼されている。
「ちょっと起きるのをなまけてたら、こんな時間に……」
頭をかく維光に、
「それはいいけど、最近透君の様子がおかしいのよね」
意味ありげな言葉を千本。
「よう、透」
そこの席にいた彼に、反射的にあいさつ。
夷川透は頬杖をついて、無気力そうに虚空をみつめている。
「少し僕と似てるな。同じみたいにへこたれてるじゃないか」
透は、まるで他人との隔絶を強調するように、ひきしまった表情。
「いや、何でもないよ。家でちょっとけんかしただけさ」
「ほらね。何があったのかは教えてくれない」
透は、楓を気にかけてはならないかのようにやや取り乱した感じで反駁。
「だからそれだけなんだよ、楓さん。お願いだからその心をこんなことで費やさないでくれ」
「透は、楓だけにはそうやって敏感なんだな……」
力なく笑う維光。
より一層いらだつ透。
「うるさいな……これは僕の内面の問題なんだよ」
維光は、少しだけ元気を取り戻した気がした。
『気がした』――そう、一時的な錯覚。
やはり先ほどの虚無感は、何一つ癒えていない。それどころか、ますます実体を持ったものとしてのしかかってくる。
こんなことで時間をすごしているべきなのだろうか。けれど、父さんがいなくなった理由なんて、僕ごときじゃ突き止めようもない。どうすることもできないやるせなさ。
席につき、担任を出迎える。
先生の話を何の感慨もなく聞いているうち、一つとりとめもない思いが入りこんでくる。
そういや父さんはいつも大きな本を脇にかかえていたな。どういう表紙だったかは覚えていないけど。なかなか大きい本だった。背に題名は書かれていなかった気がする。とにかく古そうな本だったな……。
中身を見せてほしいと一度頼んだっけ。でも、そこには何も書かれてなんていなかった。どのページも白紙。
「どうして、そんな本なんて持ってるの?」
「どうして、か?」
父は、何やら意味ありげな顔つきを見せながら、その表紙をなでつつ、
「これは他のみんなにとっては役に立たないもんだが、僕にとっては生きるために必要な相棒なのさ」
ゆかしさを感じ、さらにこう訊く。
「……それって何か、書きこむの?」
「書きこむ? いや、道具じゃないんだ。もっと大切なものだよ」
優しい口調で、そう返す。
けれど、父は本に対して深い思い入れがあるような目つきだった。決して、これに関しては誰かに入りこまれたくない――行間で主張していた。
だから結局、維光はその本が一体何だったのか、知ることなく終わった。
父がいなくなると同時に、その本もまた消えてしまったのだ。
もしかしたら、あの本が、父さんの失踪に関わってるかもしれない。
何回か思案。
けど、今さらいぶかった所で、それが何になる。
維光は、透の席を視た。先ほど以上に無気力で、いや、何か闇を秘めてそうな顔つき。
楓は、じっくりと先生の話に聴き入っているあたり、その人となりを感じるが、それでも気に障る所がないわけではないらしい。
疲れるな、と維光は思う。
僕自身でさえ気が浮かない日々だ。それだけじゃない、透も楓も、こんな重苦しい空気に触れてしまっているなんて……。