1-17 やらなきゃならない時
「……流れこんでくる」
惑書を両手で開きながら、脚はアスファルトの地面を踏みしめつつ、ぼそりと。
「何です? 息がですか?」
惑書があきれた声で尋ねる。
「技だよ。呪文か。とにかく、何を唱えるべきかが今ものすごい速度で理解されてくる」
維光自身、どこか戦慄としていた。
あの時、透から自分の身を守った時のような技が、惑書のページをつたって行使者の脳裏に伝えられていく。無知から博識への覚醒。やけに生々しい感情。
「あなたもそろそろ分かり始めてきたようね。自分のなすべきこと」
惑書は寸前と遜色ない音色だったが、感心している気持ちが忍んでいるのを見逃さなかった。それこそが、惑書が主に期待していること。
「別に喜んじゃいない」
そのまま惑書に乗せられてしまうのはどこか悔しい気がした。
「まさしく戦うべき運命が来ている、ということで僕の頭が反応してるんだろうな。闘わなきゃならないから、その知識を捻出さなきゃならないってことで」
「その通り。あなたは今、まさに私を使いこなそうとしているのよ」
惑書。数千年間この地球をさまよい続ける魔物。一体、何を考え、たくらんでいるのか、示しもつかない。得体のしれない奴に、維光は面と向かい合っている。
「……透に対してだ」
ゲームではない。これは命をかけた闘争なのだ。惑書の『使用法』を窮めた程度で、一体誰が得をする。
維光だけだ。それどころか、維光以外の人間にとっては害でさえある。
しかし、損得勘定では測れる範囲を越えた位置に維光は立っている。理由も、意味も知らないが、ただ正体のつかめない摂理とやらが、維光にその選択を採れと強いる。
「まだ迷ってるの? もうあいつは目の前よ」
維光の心が嵐で乱れている。大きな音を立てて隠れ、本当に考えていることはどれなのやら。
「というより、僕は透とつながってるようなもんだよ」
維光は一瞬、自分の言葉の意味を理解していなかった。
「はあ?」 惑書の嘲弄。
「だって、透だって同じ選択をしなきゃならないんだろ? その理由もまた同じなんだから」
主は、何をかっこうつけているのだ。敵はただ倒すだけなはず。
その内面にも彼女の皮肉は及ぶ。
人間は本当に面白いことをおもいつく。なぜ自分の欲求を追求するのに、大きな理由を持ちだすのだろう。
この主にしても、結局透をただの通過点と以為しているだけなのに――なぜ、なお私情に虜われる?
両腕を交差させ、透は衝撃を受け止める。片手ににぎった刺竹が叫ぶ。
「次のが来るぞ!」
維光の方から衝撃波が再び到来すると、透は慌てず刺竹を前に突きだした。
すると、一面を押し倒すはずだったその波は、槍の先端へ空しく吸収されていく。
「照らせ暗闇を無数の灯りっ、でなきゃ土こがす炎へと――」
開いた惑書を指で強くおさえ、維光は、初めて他の呪文を唱える。
透の周囲に、小さな火球がぽつぽつと生じ、幕を造りだす。
表情からはすでに気のゆるみは銷え去っていた。
火の音が次第に大きくなっていく中で、透はじっと立ち止まり、自分を中心にして火が聚まっていくのを待つ。
ああ、こいつが奴の権威か。言葉によって事象を現実に書きだす。
ならば、奴の口を塞げばいいんだな?
「……そうはさせるか」 低い、しかし敵愾心のこもった声でさけぶ少年。
透は、刺竹を真上に立てると、手に力をこめた。
両目が見上げる中で、円錐の形が青白い光で燃える。
これこそ、刺竹が持つ権威の中でも特殊性を帯びた力。
この槍は、ただ敵が送りつけるエネルギーを消滅させるだけではない。
「こっちにも手段がある」
維光に声が聞こえているかどうかなどどうでもいい。技名を呼ぶという愚かな利敵行為は誰の関心も牽かない。
槍を強く激しくなぎはらうと、火の幕は一瞬で無数の火花。
間髪も入れず正面に槍、前にいる維光に高く飛びかかる。
維光の口はさらに呪文。
「薄い形で刃となれ。左から右、右から左!!」
霧散した火の粉の残党が剣の形をとり、横から透に斬りかかった。
透はすぐさま身を横にひねり、槍でその斬撃を受け止める。全身を酷使する激しい運動にも不拘、透の反撃には僅少な動揺さえない。
「暇がないなら吹っ飛べその身!」
隙をつかれた攻撃で、暗い奥へ押されていく透。
相手が誰であるかも忘れ、ただ殺すことに全力を注ぐ維光。
維光はすでに行使者であった。惑書は本の姿のまま、彼の活躍ぶりにほくそえんだ。
まさしく、こうなのよ。みんな闘うことを嫌がってくるくせに、実際に闘わなきゃならないとなると平気で殺しあう。
その滑稽さと言ったら――二人の行使者を観て、素直に楽しんでいた。
しかし次の瞬間、透は炎の剣を刺突で滅ぼしていた。
遠くからじかに維光をにらみ、語りかける。
「驚いたよ、維光。君は友達相手に平気で刃を向ける人間なのか?」
温情から来る言葉のはずがない。すでに透も、行使者としての自覚に呑みこまれていた。
「当然だ。だって僕は君を倒さなきゃならないんだから」
「――なぜだ?」 短い質問の間、透は飛び上がってもう一度維光の方向へ。
低い天井に槍がのめりこみ、こぼれ落ちるコンクリートの破片。
冷たい表情のまま、静止して様子をうかがう維光。
そして全てを怠惰に照らし出す、中立の懐中電灯。
「壁で防げよ、見えない空気」
すさまじい速さで押し寄せる透。
突然空中で何かを突きさし、止まってしまう。
「なっ……!?」
「闇の果てまで飛んで行け」
維光はすでに冷やかな声になりきっていた。
その声が終わった直後に、
「させるかっ」
と透は叫び、刺竹に再び力を入れて不可視の壁を打ち砕く。
続いて起こる衝撃波に、身を崩しそうになるが、なんとかこちらからも脚を固く置き、耐えしのぐ。
数歩離れて着地した透に、維光は黙って思索をめぐらす。
あいつは飛び道具のようなものを有してはいない。接近しなければ打撃を与えることはできないのだ。しかし奴の武器は同時に防御の役割も果たすらしい。この書にはとてもそれほどの耐久力はない。
だとすれば、できるだけ離さなければならないのだ。惑書に決してあれを近づけさせてはならない。
でなければ、
「もう一度集まれ火の球よ」
維光の呪文は定式化されたものではない。魔物から与えられた権利の範囲に応じて可能な事象を言葉によって具現化する。
透は槍を両手に構え、さっきと同じ火の粉の群れに正面から立ち向かう。
「縦に並んで刃となれ」
もっとも重要なのが、行使者の口だ。口が利けなければ、その権威を発動する方法がない。
維光はまさに口を大きく開いて、その呪文を高らかに吟い上げた。いつもの言葉を話す口とは別の口で。
「ちょこざいな――」
透がその炎を消そうとして後ろに槍を引き絞ったその時、
「――上にあがって回りこめ!」
透の表情が驚愕にゆがむ。
炎の刃はだしぬけに透の前で飛び上がり、その後ろへと尾を引くように泳いだ。
不意を突かれ、透は走りつつ何度も跳びあがってその追撃を避ける。
「主よ、火を消そうとはしないのか」
刺竹は透だけに聞こえる声で叫ぶ。
「それは分かってる」 維光にその口に動きは悟られない。
刺竹はただの鈍器などではない。この直前にも示したはず。相手が惑書なら、逆に惑わせてやらないのか。
「お前の権威で――この魔を断つ!」
透はぼそりとつぶやいた。そして刺竹で大きく炎の列を打った。
音も立てず、炎は無数の火花となって飛び散り、制御を失う。
「仕方がありません。こちらも策を変えましょう」
本の姿のままの惑書から人間の声。
「炎が効かないなら、寒さでやってやればいい!」
返事の代わりに、維光は呪文でその意向をくみとる。
「凍てつけ!」
すると、人の身長ほどある氷の球体が左右に現れ、透へ一直線に。
透は舌打する。炎はそれ自体としては薄っぺらな実体しか持たないからまだいい、だが氷と来たら!
透は氷の塊に敢然として立ち向かった。自分からこれに駆けていき、拳一つで受け止めるのかと思いきや、
「これくらいのもの、恐れるに足らないッ」
叱り飛ばすばかりの咆哮、一つに刺竹を突きさした。
氷は割れないまま刺竹にはりつき、之を透は槍ごと持ち上げる。常人が言葉を失う怪力。
すなわちもう一つの氷を同じ氷でせき止め、後ろへと姿を隠す行使者。
氷と氷の拮抗が細く、鈍い音を立てて数秒、
「来ます!」
と惑書が叫喚んだ時、その内単体が天井を削りながら虚空を疾走る。
反射的に身を横に投げる維光。移動する前の位置を氷が踏みつけ、自分を八つ裂きにする。
「浮かべ、あいつを貫きに!」
息もつかずに維光は次の呪文。
粉々になったかけらたちが浮遊して、その命令を実行しようと走り出す。
だが透にはもう一つ氷の球。
その後ろに姿を隠し、攻撃から身を守ろうと。
そして氷同士の衝突が再び生じ、欠片の数が数倍へと。
「うまくやってくれた、維光」
冷酷そのものの声。顔。
わずかな前までむつまじく語り合っていた友人同士とは、誰が信じるだろう。
この言葉を聞く維光もまた、荒涼たる面持ちでこの場にのぞんでいる。
「次はこっちからいくぞ!」
しかし維光はなぜか、言葉を口にはせず。
透は氷の破片を刺竹で弾き、維光に向けてたたき飛ばした。
一つ一つを、軽い身の動作でさける行使者。
「どうしたのです、速く次の手を打たねば!」
維光は、自分でも原因のつかめない動揺に襲われていた。
待て……こいつは……僕の……。
「ええい、まだおびえてるのかっ!?」
透は怒りさえ含んだ雄叫びを挙げつつ、氷の破片を投げ続ける。
その内のあるものが壁にぶつかって大きなひびをつくり、あるものが天井に当たって穴を穿けていく。
何の意味があるんだ、この戦争に……。
急激に虚しい気分が高まり、思考速度がのろくなっていく。
「どっちも生存るなんてありえない! 僕だけ生きるか貴様だけ生きるかだっ!!」
透が最後の破片を飛ばしてきた時には、あやうく頭までかすりそうに。
「臆病者!」
惑書か透か、どっちの発した言葉か分からなかった。
ふざけるな。なんで僕がこんな運命に遇わなきゃならないんだ。他に適任がいくらでもいたろうに……。
およそ場違いな恨み節を、一人たぎらせる。
「維光様!」
「維光!」
透は屈辱を感じていた。なぜ、今になって人間じみた情にかられるのだ。
そんな偽善は、せめてこの戦闘が終わってからにしろ。
透は完全に行使者に同化していた。しかし、維光の方はそれが若干揺らぎつつある。
最悪だ。なぜ僕が、こんな目に見なくちゃ。
ああ、こいつを戮さなくちゃ、俺は恥をかくわけだ。その恥をかかないためには……結局……
「冷たい風よ、奴を囲め!」
維光は声を張り上げる。その声がどこから来るのか知らないまま。
透はびくっとなって目を維光からそむける。氷の打撃によってできた穴から、霧のように冷たい空気が吹き荒れた。
「何だとっ――」
空気は次第に固体となり、青白い風を形成る。
炎の幕よりずっと広い範囲で、激しい冷気が透をなぶり始めた。
「寒っ……!?」
うめいた直後、あちこち転がってのたうち回る。しかし、声は聞こえない。
維光は惑書を脇に抱えつつ、その痛々しい様子を傍観。
「やりなさい」
惑書の助言。だが維光は動かない。
「……やりなさい!」
まだ維光は動かない。……というより、得体のしれない何かがその四肢をにぎりしめ、がっちりと抑えているかに見える。
「なぜやらない……今なら刺竹をしとめられるのに!」
黙ったまま。
いや……その腕には震動さえ。
どう考えても、惑書の命令に循った方がよい。理屈でそれは理解する。けれど――いざ、実行するとなると。
できない。恐い。恥の感情が維光の心臓をぐちゃぐちゃにした。もうそれっきり、何もできなかった。
ごく短い迷いののち、ついに口から出た言葉は。
「……散れ」
透を中に猖獗を極める冷気が、一瞬で溶けた。
気づくと、荒々しい透の息づかいがすぐそばで聞こえた。
それから、もう自分の目の前で立ち上がっている。
「何と愚かな……」
しもやけた顔で、透はつぶやいた。こいつは――一体、何様なんだ。
あまりにも残忍なつぶやきだ、と我ながら思う。そうか、これは僕が言ってる言葉じゃないんだな。僕以前の行使者たちが、僕にささやきかけている……。
「維光。覚悟はいいな?」
透の口ぶりに、さきほどまでの敵愾心はかけらも。
歩くという単純な行為に、これほど長い時間を感じることはいまだかつてない。
勝利という行為に対する、何の興奮も透には生じない。あるのはただ現実への苦々しい不満だけ。
透は惑書をもぎ取ると、片足で維光を蹴倒した。その首筋に刺竹。




