1-16 運命と言えばかっこわるいけれど
透は、次第に昏くなっていく窓を背景に、あぐらをつきつつ僮僕と向かい合っていた。
「あいつがどう来るか分からないだろう?」
板が敷かれた床はところどころ湿り、くぼんでいる。
内容が分からない段ボール箱、棚、ストーブが乱雑に散らばっている。
「僕だって最初から期待してるわけじゃないさ」
透の頭は逆光で闇に染まっている。しかし、重たい気色でいることは間違いない。
「もう僕は昔の夷川透じゃないんだ。あいつに手加減をかけるつもりは毛頭ない。あいつだって同じはずだ」
事実は、まだ信じられずにいる。この魔物の言葉に連れられ、ついていったら自分でも意味不明な事態に。
頭が少しでも足りていたら、こんなことになっていないはず。しかし、透はもう悔いてはいない。
行使者とは基本意味不明な存在なのだ。理性でその存在意義をとらえてはいけないのだ。人間の知性が逮ぶ範囲を越えたところに、僕は立っている。
「なあ刺竹」 焦りにも似た調子がそこに。
「どうした」
「僕らの闘いに、何の意味がある?」
透は、その期を待ちかねていたのだ。維光がやって来る、まさにその期を。
待ちあぐねるあまりに、無関係風なことを口にしていた。
「……それは、俺たちが決めることじゃない……」
刺竹は、珍しく謎めいた閑情を帯びる声で。
「俺たちを越える何かが、それを決めるんだ」
もれる透の笑い。
「刺竹らしくないな。お前がそんな幽霊めいたものを口にするなんて」
「俺だって確証があるわけじゃない」
刺竹は、遠い目で透を見つめる。
俺は永い間、無数の行使者と行動を共にしてきた。
何度も主を見つけては失う連鎖。――そこに何がある?
しかし行使者の奴隷として、行使者の生死に連係のないことを考えることに何百年も踟蹰を抱き続けてきたのだ。
今でも、いざ考えようとすると恐怖がさし迫る。それはお前の職務を外れている、と誰かが責めるかのように。
しかし、ずっと薄々奥底にあった直感は告げる。
俺たちは闘っているのではなく、闘わさせられているのだ、と。
刺竹はそれを知ってなおも、行使者のために尽くし続けた。なぜなら、自分は所詮行使者の僮僕なのだから。
「どうした刺竹、そんなに黙っていて」
「俺たちは、確実に何かの目的のために戦っているんだ。それが何なのかまだ理解できないが」
「僕たちの戦争には意味があるんだな」
「ああ」
「だがお前は異世界からやって来たくせに、その正体がまだつかめないと」
透は微妙な気分。じゃあ、僕は何のためにここにいるんだ。
維光を倒すことは、その一部分に過ぎないのか。維光を倒した先に、一体何が――?
「主よ、俺は数百年前にこの世に顕れた。だがそれ以前の記憶が何一つない。何一つ思い出せんのだ!」
「そこがいかにも魔物らしいな。人間なら、まずその記憶を奪還そうとするくせに」
刺竹の輪郭が一瞬、ノイズのようにとがり、収まる。
「いや……主よ、これは俺たちの知らない方がいいことだ。俺たちにはそれより優先すべき責務がある」
待てよ、それこそ僕らがもっとも追求しなければ――と頭が言葉をつむぎ終える前に、電流に似た衝撃が透の頭を貫徹く。
一瞬の、静かな出来事であったからこそ、透は違和感も覚えずにその事象を受け入れてしまった。そう、これを疑うことは行使者としての逸脱。今はただ、維光を破るという大きな目的だけに着目すればよい。それ以外のことは撥置け。
「ここか?」
第三者の言葉に、透は打ち震え、刺竹の姿はモザイク状に乱れた。
少年の響きだ。透のよく見知っている、あいつの。
四条維光が、足音を小さく鳴らしながら、玄関を上がっていく。
四条維光が、廊下を曲がって、この部屋に入っていく。
「てめえ――なぜここが分かった!?」
刺竹が声を荒げて維光に怒鳴る。
その言葉を、透は目くばせで止めた。もう戦闘は始まったも同然。
「いや、ずっとここで合ってるかどうか不安があったんだ」
透は目を挙げて侵入者を察る。
学校の制服姿には懐かしささえ覚える。左手にはかばん。そして右手に、魔物。
不気味なことに、魔物からは驚くほど気配がない。消せるということはそれほど高級な魔物、という意味か。
「よく来たな」
言いながら透は、忸怩とした面持ちの刺竹の肩に手を載せた。その直後、棒切れにも似た形となって刺竹は行使者の掌中。
「もう少し手荒い作法かと思ってたんでね。なるほどそこはお前らしいな」
「いや、こっちも奇襲されたらどうしようかと心配だった所だよ」
だろうな。どっちも心を許しあってはいない。
「それより、服は案外汚れてはいないようだが」
「洗濯するだけの金はあったさ」
「歯磨きは?」
「家の中に残ってたよ」
どれだけ僕が家の中でいい生活を送ってきたか、ということだ。独居がここまできついものとは思わなかった。
……こいつも、その機を見計らっているというわけだな。
もう、相手の質問に惑わされるつもりはない。
「いや、お前がどんな汚い格好をしているかと気が気でなくてさ」
維光はあたかも親密な口調でささやきかける。
「そんな心配してたのか」
透はあきれ顔で、つぶやく。
「だからセーターを持ってきたんだ。昔お前んちからもらったものを」
維光は優しげにさえ聞こえる声を出して、かばんを床において服を取りだす。藍色の、やや小さくはあるが大人びた感じの色合い。
刺竹をにぎったまま、透はそれを慎重な動きで着た。もう戦いは始まっている。
「おっ、意外と適合っているじゃないか」
「そうか?」
傍目ではどこかしゃれた会話のようだが、透の心は寒々と。
「お前がもとは着てた服だからな」
維光の感情が全く読み取れない。維光に人間的な緊張感が全く抜けきったわけではあるまい。
しかし、行使者になろうとする運動が肌身で感じられる。
「……で、後は分かってるだろ」
透は維光の顔をできるだけ直視せずに告げる。
「じゃあ、目的地に行こうか。お前が連れてってくれるんだよな?」
維光は、敵意をほとんど見せないまま、この一幕に終止符を打ちたいらしい。
「もちろん」
透もやはり、まだ決着のための準備を仕上げてはいなかった。
維光は驚いた。体では一切感情を見せてはいない。
しかるに、心が迷うのをなぜ止められようか。
以前、学校で遭遇した時には、だいぶ荒れた服装、髪型だった気がする。そこから、透が家に帰っていないという確証は得られた。
けれど、今ここにいる透はいたって快調気味。
この隠れ家での生活が快適だったというわけではあるまい。恐らく、透は行使者の力を悪用したのだろう。金と道具を冦掠るために。
「今すぐとどめをさしなさい。盛永様は決して敵に容赦なさいませんでしたから」
実は、透に対してやけに平穏な態度だったのには理由がある。ここを訪れる前から、惑書は何度も残忍な言葉で主の心筋を寒からしめた。はっきり、ぶちぎれてもおかしくはなかったのだ。しかし、透がどう出てくるか予測がつかない以上、惑書の助言を切り捨てるわけにはいかなくて。
透と議している時にも、この下僕は無言のうちにとげとげしい雰囲気。だからこそか、予想していたより重圧は鮮なかった。惑書に神経を集中させたおかげで、透への重荷はさほど感じずにすむ。
とはいえ、ここまで来ると。
「学校で、僕のことはどう思われてる?」
人気のない道路の上、維光は面食らった。今それを問題にするのか。
空はすでに光を失った雲が覆い、地平線近くに日の光が弱々しく照りつけるばかり。
「竹屋町が言ってたぞ。『透はもう回ってこない』って」
突如吹き出す透。維光は必死に押し寄せる緊張をのけようと。
「ぷぷっ……ま、そう思われても仕方ないさ」
それだけ、透は本気というわけだ。もう逃げ場がないと悟っている。
「楓さんや永歌さんは?」
これには、つい維光の顔も破れそうになる。
「永歌はちゃんと心配してたよ。お前を捜そうとする魂胆らしい」
「申し訳ないな。罪だ」
こと永歌に至っては、騎士が貴婦人に抱くような慕情を。
「でも、僕はもう元の場には復れないんだ。こんな身になってしまった以上は」
「僕だってこんな身になりたくなかったよ!」
隠していた激情をいきなり暴露。
「誰もなりたくないはずだ。こんな、人間なのか人間じゃないのかよくわからない奴にな」
透はすでに行使者的な表情。
「けど、なってしまった以上はその使命を尽くさなきゃならない」
維光は、こらえきれずに大きな声になっていく。
「どういう使命だよ」
二人はそこでふと立ち止まる。沈黙と停滞が暗闇の中に生じる。
「他の魔物を討ちとって、行使者として生きていくことだ」
「それが何を意味するか知ってんだよな」
大して返事を期待していなかった。その必要すら。
透は感情を薀奥に秘めた顔で、維光を凝視。
「すまない、話が重くなり過ぎた」
「……話題を変えなかった僕も悪い」
維光は、可能なら透とだけ穏便にことを搬びたかった。
もしかしたら、言葉で説得できるかもしれない。言葉だけで透を屈服させられるかもしれないのに。
どれだけ身勝手なことか。自分は行使者をやめようともしないのに。
まさしく、自分が行使者をやめるなど維光には考えられないことだった。つまり、行使者の職務を忠実に実行する心づもり。
維光は薄々その矛盾に気づいていたが、もう良識じみた考え方に囚われたいとはしなかった。
行使者としての僕と、人間としての僕が混在してるみたいだ――表現しようのない不快感。どちら側についても、維光の心から維光らしさは損なわれる。
だが、そもそも僕らしいとは何か。
「この道は昔、塾に通ってた時にとおった道だな」
「懐かしいね」
「ま、もうその塾はないんだけど」
透はたとえ口調が静かなものであろうと、決して気をゆるめてはいない。
きっと今にも維光を刺したい気分だとしてもおかしくないだろう。
「デパートの中にあったのか? それって」
「ああ。いつ頃デパート自体がなくなったのか知らないけど」
この会話の内、二人ともたがいを試しあっている。
「そうだ、僕が君と初めて会ったのがいつか憶えてる?」
「小学校の時だったっけ?」
部外者から見れば、敵意などあるわけない、と錯覚しかねないものだ。
「うん。確か、給食の時に同じ分担だったっけ」
「その時に意気投合して、色々と会話が弾んだよな」
維光は笑顔でさえある。
「ああ……」 事実、懐かしさは心の中に存在していたのだ。
同時に、敵意が割りこむ形で屹立している。矛盾だ。両立できるはずがないのに。
「さて、ついたぞ」
二人は左右へはるかに伸び、数階ほどある建物の前についた。ぼんやりした視界、壁にひびがいくつも走っているのがなんとなく。
すでに夜の一歩手前だ。中は相当暗いに違いない。
「確か、上の階だったよな?」
不安げに尋ねる維光。
「ああ。どうだろう、マッチは持ってるけど」
透も似た感じに。
「大丈夫、これに儲備えて懐中電灯を持って来たのさ」
「それはよかった」
透は刺竹に命じて槍を具現化すると、頑丈に閉まった自動ドアを叩き割る。
コンクリートから大理石へと、踏む音は響きを高く。
想像どおり、中は真闇。もし維光の照明がなければまさしく五里霧中であったろう。
「予想外だな。僕たち二人がこんな目に遭うなんて」
すでに停止したエスカレーターを陟りつつ、波風のない声をひもとく。
「まぎれもなく僕たちの責任さ」
もはや動くことのない階段以外には、完全な空虚が二人をつつみこむ。足音と言葉以外、全くの静寂。
「とは言っても、魔物が地球に生れてなきゃこんな事態になってない」
「それもそう……」
みるみるうちに、自分の顔が固くなっていくのを感じる維光。
行使者としての維光に、心が侵食されつつある。
「やれやれ、昔行ったことのあるはずの場所なのに、まるで違うみたいだ……」
「そりゃこんな状況じゃな……」
維光の声は依然として屈託がない。
何回、同じ調子のまま駆けあがっただろうか。
「ここだ」 透は急に高い声で叫ぶ。
維光はすぐ懐中電灯の明度を上げ、床に置いた。
まさしく、何もない場所だ。灰色の床、灰色の壁に囲まれた世界。いくつか柱が並んでいる以外には何の障壁ない。
度を越した殺風景。空間の果てを確かめようとしても、光の限界のため、夜が支配している。
まさに、戦うためには理想的の場。
そして、透は刺竹の尖端を維光の首筋に。
「維光、命令だ。いますぐ惑書との契約を解除しろ」
「言ってやりなさい」 惑書がついに口を開く。
「無理だ。君の魔物との契約を解除させることならできるかもしれないが」
もうその時点で、透が発する雰囲気は一転していた。顔も唇も、いささかも動いてはいないが、二人の会話はすでに一線を越えた。
「……そうか」
透の感情を説明するのにもはや片言隻句も必要ない。
「やはりこうなるよな」
維光の瞳を見すえ、静かに後ずさる。
維光の心の中でも、最後までつなぎとめていた何かが離れつつ。
「言え。次の返事は?」
透が厳しい声になる。
そこに甘さを感じ取ったのは果たして錯覚か。
答える代わりにすぐ、行使者は声を大にして唱える。
「後ろへじかに飛んで行け! 光の外へ、闇の中へと!」




