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1-14 準備と決意

「あなたは行使者。人間じゃない」

 行使者は人間だ。だが行使者である以前に僕は人間なのだ。

 僕は人間だ。けど人間は行使者じゃない。

 維光は、透に不思議と怒りを覚えはしなかった。一時的な理不尽に心を(うば)われはしたものの、気が落ち着いてくると逆に羨望の感情さえわいてくる。

 行使者という点では、透の方が僕より上だ。けど……それは……。

 維光は、自分の父の過去を懐い出さずにはいられない。父も行使者だったのだ。そして、僕が行使者になることを知らないまま、僕から去っていった。

 一体父さん、どこにほっつきまわってんだ……。母さんも、どうやらその行方を知らないみたいだし……。

 惑書も、教えてくれなさそうな様子。いくら僮僕だからといって、答えろと強いるのははばかられる。

「かつては人間だった」

「かつては、ですよ? もうあなたはそんなことで迷っている暇は莫いのです」

「そ……そうだけど……」

 惑書の冷たい声にはやはり慄然とするしか。けれど、彼女にしてみれば、ただ忠実に維光に奉仕しているにすぎないのだ……。

「父さんも、最初はあんな感じだったのか?」

「あの人は、自分が生きるために行使者になったようなものですから」

 維光は、後ろの荷台にかばんをくくりつけ、前のかごに惑書を載せつつ、道をただただ進んでいく。

 横を往来する車の一つとして、その光景に注目することなく過ぎ越し、過ぎ去るばかり。

「どういう状況だったんだ……あの人は」

 惑書は急に我に返った声で突きかえす。

「そもそも、維光さまは父上について何をご存知だったのですか?」

「あ、ああ、それは……」

 維光はすっと口を閉じる。

 惑書が父についてはるかに多くを知っていると思うと、恥ずかしい気分。

「あんまり父さんのことは訊いたことがなかったな……。父さん自身もあまり自分のことを語りたがらなかったし……」

「世の親子と言うのは、案外そういうことが衆いのかもしれませんわね」

 惑書はにこやかな笑顔が浮かぶようで、ますます維光の心筋は寒くなる。

「母さんは父さんを何者だと思ってたんだ?」

「何、ただの普通の人として接していましたわ。結局母上の元から離れるその時まで、何も洩らすことはありませんでした」

「そうか……」

 維光にしても、父のそういう面を何一つ知ることがなかった。理解していたと胸を張ることなど到底できない。

 もう少し身近な例で維光は訊いてみた。

「父さんの名前って本名なのか?」

「いや、我々の世界において名前というものはただの記号。さして大切なものではありませんよ」

「……ひょっとして、僕が知ってる父さんの名前は、まさか偽物?」

 面倒くさい口調で惑書

「そんな細かいこといちいち憶えていられませんわよ。もしかしたら一度や二度使ったかもしれないけど」

 無論ながら維光以外の人間に惑書の声は聞こえていない。維光自身もほとんどぼそぼそとした声でしゃべっていた。他の人が観ていたら、さぞかし維光が奇怪な人間にみえたことだろう。


 維光は玄関を越えた時、一気に暗澹たる気持ちになった。

 透との戦いに備えなければならない。あと一つしなければならないことがあったはずだが……ど忘れしてしまった。あまりにも透との再会が重すぎたせいで。

 維光は色々と過想起(おもいだしす)ぎたがために、「ただいま」のあいさつさえ忘れていた。おかげで、母の表情と来たらむっと。

「あら、いつの間にそんな大雑把な性格になっていたの?」 腰に両腕をすえて、その前に立つ。

「あ……ごめん」

 何か言えよ、と自分を責める。

「そういう様子からして嫌な気分にでもなったの? 今日はどういう日だった?」

 新しい魔物に出会った。永歌に自分の秘密を打ち明けられなかった。透に決闘をいどまれた。想い返せば意外と濃い事件(できごと)が多い。

 だが、母にそのことを伝えて可いのものかどうか。いくら母が行使者の世界を知っているとしても。

 事実その世界に押しこまれた維光にすれば、母の理解力などあまりに頼りない……。

「どうだろう。他の誰かにとっては特別な日だったのかもね」

 机に上にかばんを置く。惑書の形でかなりかさばっている。『サイズ』を小さくすることも不可能ではないだろうが、限度があるのだろう。

「僕も色々なことがあった……けど、何年もすればそれも忘れ去るのかな?」

 惑書がすぐさまなじる。

「そんなはずはない。あなたはもう何も忘れられない」

「二度も言う必要はないよ……」 そのしつこさに相当疲れていたのか、つい反応が口に出てしまう。

 母はこれを逃さない。

「多分それが父さんの望んでいるあなたなんだわ」

 反射的に顔は母の方に。

「えっ?」

「だって、盛永さんは自分みたいな人間になってほしくなかったってあなたに言い遺したのよ。あの時の記憶さえ忘れてほしかったんじゃなかったのかな」

 母の言不足(したたらず)な表現は、維光の警戒を誘う。

「な、何の記憶だよ」

 まさか、父の記憶すべてと言うわけではあるまい。

「だから――父さんが異世界の人間だってこと。それをもう憶えていてほしくないの」

 もしあの時の自分だったら、そうだったかもしれない。

 惑書に真実を告げられたあの時の自分。

 違う。もう真実を知ってしまった時から、もう自分はあっちに逝ってしまった。

 (もど)ることなどできようはずがない。ずっと重要な理由があるのに。

「いや、だめだよ。だって僕は……」

「そう――言ってやりなさい。僕はもうこの世界の住人ではないと!」

 惑書の声は響くほど大きく、そして不思議なくらい、七海には聞こえない。

「どうしたの? 私に言えないことでもあるの?」

 母は笑顔だ。痛いくらい、維光にはそれが辛かった。母さんも母さんなりに寄り添おうとしているんだな……。

 決断は困難。

 言うのは簡単だった。こんな時に限って、一秒の経つのがあまりに恋しくなるのだけど。

「……僕は父さんと同じ身になってしまっただけじゃない」

 維光は、母の瞳を直視することに全力を注ぐ。

 その強さに、母もまたおびえた顔面(かおつき)になっていた。

「行使者というのは……他の行使者を『狩る』運命にあるんだ。たとえ自分に命の危機が訪れたとしても……」

 維光は母を観ていたが、実際にはもっと得体のしれない『宿命』を目にしていた。

「ど、どういうこと?」

 維光は『宿命』に対するような目で、そのまま語り続ける。

「今、僕は戦いに行かなくてはならない。そしてその相手はあいにく友達なんだ」

 ひきつった顔で、七海は維光をにらむ。

「友達と、何をするの? 傷つけあうの!?」

 無理もない。いきなり、縁起でもない事柄(はなし)をしゃべってしまった。

 維光の口ぶりは、最初の覇気を失って行く。どうせ、かっこつけたところで恥ずかしいだけだ。普通の人に、分かるわけもないのに。

「もちろん好きで闘うんじゃない。運命から命じられた義務なんだ。たとえどんなに嫌でも、あいつは絶対僕を狙いに来る」

「そ、それを避けることは?」

 別に行使者の過酷な使命を知らないわけではない。けれど、自分の息子がこれを課されていると告げられると、さすがに冷静ではいられなかった。

「できないから僕の方も受けて立つんだ。でなければ僕の命がない……」

 維光は胸糞悪い気分で、羞恥心にひたった。母だからこんな風にべらべらと語れるのだろう。もし別の人間であればとんだ虚勢と嘲われたに違いない。いや、現にかばんの中にいるのだが。

「あなたは、なぜそうやって澄ました顔なのよ!?」

 七海は維光につめよる。

「自分が何を言ってるか分かる!? お父さんがそんなこと許すと意う!? あなたにはそんな権利はない!」

 本当は維光の方が母に怒りたかった。なんて身勝手なんだ。

 行使者についての知識はあっても、理解が不足している。現実に、行使者に向かい合う時に必要な理解が。

 だからといって、母に過誤(あやまち)を帰すこともどれだけ酷か、痛いほど身に染みる。母はたった一度しか、行使者の生きた姿を目にしたことはなかったのだから……。

「私はそんなことさせない! あなたが友達と争うなんて、そんな――」

「僕だってしたくないよ!」

 同様にいきりたつ維光。

「誰がこんな残酷な試練に甘んじるってんだ! 僕だって誰かを責めてやりたい! 誰を責めるべきか分からないけど!」

 それでも生きていかねばならない、自分という存在が本当に呪わしい。

 深くうなだれ、なんとかこうべを挙げようとして。

「でもやらなきゃ僕がやられるだけだ……。僕にだってプライドはある。何もかも失いたくない。もう父さんの時の悲嘆(かなしみ)は、繰り返したくないんだ」

 母はいまだに顔に怒りを含んでいる。決して、維光のいいわけをのむことはない。

「なんで? ……なんでこの子が?」

 空しく自問する叫び。

「まだ僕には、猶予がある」

 救いをもたらすかのように、維光は言った。

「猶予? もう時間はないのよ?」

 無念に満ちたなげきが、家中に鋭く響く。

「時間は……確かにないね」

 維光にしては、笑ったつもりだった。笑えたかどうかも確信がないが。

 だがもう、とるべき表情など、直後には問題の埒外に。

「今日か明日。いや……今日ばかりは普通に過ごさせてほしい。僕は惑書と一緒にある場所で闘わなくちゃならない。そいつは、僕の惑書を奪うつもりでいる。僕としてはそんなことを許すわけにはいかない」

 維光は自分の体をおもちゃみたいにもてあそぶ気分で、次から次へと言葉をつむぎだす。

「だから僕は立ち向かうんだ。……こんな親不孝な僕でごめん……父さんの訓戒(いいつけ)にも従えないし、母さんの叱りで心を改めることもできない」

 しかし、七海は自嘲する声で、

「いや……どうせ、私の運が悪いのよ」

 維光はまごついた。

「運が……悪い?」

「あんな男の正体も知らないで、この子を作っちゃった……。この子が父親と同じ運命になるのも知らないで……」

 母さんは、自分なりにこの状況を受け止めようとしているには間違いない。けれど、維光にとっては母の心などたいして問題ではなかった。僕だって悩みでいっぱいだ……。

 なんで今更になって真実を伝えたのだろう。そして、こんな軽い気持ちで真実を打ち明けてしまったのか。()ても()ってもいられない気持ちに満ちて、維光は二階へと駆け出した。


 七海はこんなことに関心など持ちたくなかった。行使者のことなど、何も分からない。怖い。

 あの日から、維光はもう自分の子ではない気がした。息子の無知によって保たれていた関係はもはや絶え、あるのはもう他人と他人だけ。七海は無気力になっていた。

 どうせ私がいても、木偶人形(あしでまとい)になるだけなのだ。もう自分にできることと言えば、維光の心があの人と同じになるのを、はばむ程度でしかない……。

 維光に対する愛情が銷えたわけではない。今でも、息子のことが心配でならない。

 盛永が維光に秘めた事実を、匿していくことが愛情であるはずだった。しかし、維光が真実を知り、父の後を継いでしまった以上、もはや何を将ってあの子を愛していけばいいのか。

 維光までも自分の元を去ってしまうのか――と想うと、断腸の痛みが襲いかかりそう。

「こんな晩くに、申し訳ありません」

 テーブルに頭を任せていたために、声しか分からなかった。

 けれど、正体不明の人間が現れたことに恐怖を感じ、慎重に頭を挙げ、その方向へと焦点を合わそうとする。

 一人の少女が、片膝を立て、うやうやしい様子で床にひざまずく。

 髪の毛は夜よりも黒く、背中にそって流れるように生えている。とりどりに金色の模様をほどこした、紫色のゆったりとした衣装。足元を覆い隠す袴。

 七海は立ち上がって、前兆(まえぶれ)もなく闖入してきたこの少女から逃げ出そうとした。まるで悪夢を観ているような気分。どうしてこんな目に逢い続けるの。もう私を巻きこまないで。

 しかし、だ――その直後、妙な既視感。初めて会った気がしない。維光と談していた時から同じ気配があったのだ。つまり、この子は。

「あなたが、惑書?」

「おっしゃる通り、維光様に仕える惑書と申します」

 惑書の人間としての姿を、この時七海はようやく見たのだった。

「盛永があなたと結んでたのね」

「はい。かつてはそうでした」

 惑書の回答には少し踟蹰(ためらい)もない。

「現在は維光様を権威ある方として戴いております。それ以外のことは何も存じません」

 七海の頭を様々な感情がかけめぐる。それは怒りでもあり、懐かしさでもあり、悲しみでもあり、悔しさでもあった。ここ十年、彼女はこの人ならざるものに惑わされたままなのだ。

「維光に、何をするつもりなの?」

「それは維光さまがお決めになることです」

 惑書にとっては、自分の意思など無いも同然だった。彼女はただ主の命令に順うだけなのだから。

「なぜ? あなたが維光をたぶらかしたんでしょ!?」

 誤認(まちがい)だと、理性では知っている。しかし、この不条理を眼前(めのまえ)にすると、感情が暴発してくるのは避けられない。

「いいえ。維光様が全てを選んだのですから」

「何なの、それ? あなたは何も悪くないというの?」

 惑書にとって、七海の言葉など馬耳東風。たとえ行使者の縁類であろうと、それは何一つ特別な意味を持ちはしない。

「それは維光様に問訊(おきき)ください。私はただ、維光様を信じて身をゆだねる他ありませんから」

 あの方は私を選んだ。私もあの方を選んだ。心が一致したのだ。

 いや、こう言うと語弊があろう。行使者になる人間は、もっとも行使者になりたくない人間。あの方はその条件にぴったりあてはまったに過ぎない。

「この、人でなし!」

 気色ばんだ七海は、物静かな惑書にとうとう激高する。

「よくも維光をあんな目に逢わせて! もし危険にさらしたら、ただじゃおかないわよ!!」

 この子の話なんてどうでもいい。私は、維光に盛永みたいになってほしくはない。

 そうすれば本当に、私は死んでしまうかもしれないから。

「もし、維光様がそれを望むなら、私はいつでもあの方の元を去ることにいたしますわ」

 惑書は顔色一つ変えなかった。

 あくまでも毅然とした表情のままで、人情に流される風など微塵も。

「ですが、維光様が今の状態にとどまる限り、私にはいかなる自由も許されないのです」


 維光はベッドの上で茫然自失。

 なんでこんな孤独に甘んじなければならないのだろう。どいつもこいつも僕のことを誤解しやがって。

 誰が現状を受け入れるってんだ……。ただ肩代わりできる相手がいないから、自分一人で対処するしかないってのに……。

 維光は、いよいよ胃に穴が開きそうな感触を覚えた。母からじきじきに制止の言葉をかけられると重圧が半端ではない。

 もう寝よう、と決意する。一日の大半を葛藤で占めるほど僕は暇じゃないんだから。

「主よ!」

 扉が開いて、惑書の登場。

「うわっ」

 不意に飛び上がる維光。今まで惑書が扉をあける情景など、見たことがなかったから。

「一体どうなさったのです? 急にびっくりして」

「いや、その……母さんは?」

 惑書はその話題になると、たちまちあきれ顔。

「だめね……あれでは。とても聴く耳持ってない」

 あざけたがっている感が濃厚な口調。いくら行使者以外の人間に共感しないとはいえ、実の母が相手では内心不惑(おだやか)ではなかった。

「……そっか。まあそういうのが親心だよな」

(ちか)すぎるが故にかえって分かり合えないということも珍しくありませんからね」

 全く心苦しい。顔をゆがめる元気さえ今の行使者にはない。

「……で、どうするの? 今日はもう寝ちゃう?」

 惑書が、ひさびさに親近(したしげ)な口調で。

 その時の僮僕の顔の明るさに、まぶしさを覚え臉をそむけたくなる。

 ああ……こいつにはそういう(ほだし)がないもんな。全く気楽なもんだ。

「明日の用意も済ませたしね」

 この時、維光は自分の準備に何の不安も持っていなかった。

「ところで、何かを忘れてはおりませんか?」

「……何を?」

 しばらく、二人の間に沈黙が差す。

「ほら、明日にでも提出しなければならないものですよ」

「それって……確か……」

 ぶわっと維光の顔が驚きを帯びる。

「数学の宿題っていってるでしょ!?」

 惑書が胸元に飛びこんできたからだ。それも、両手で首筋をしめあげながら。

 維光は息をつまらせたまま、何の動作(みうごき)もとれない。

「ああ、もう……これだからあなたって人は!」

「あがが……やる……からっ……。」

 やっとの声で返事をしぼりだした途端、床へと落ちて次の激痛。神経に近いところを打った。

 それどころか、みぞおちを思いきり踏んづけてくる。

「全く、そんな物覚えの劣悪(わる)さとくると、この後が心配だわ……」

 まじまじと顔を凝視する惑書に、

「ありがとう」

 維光はあらぬことを口に。

「は? 今、あんた……何を……!?」

 惑書は別に顔を赤らめたわけではなかった。代わりに、赤色の光が蛇みたいな姿でその体をつつむように走り回った。

「君みたいにかわいい女の子にそんなことされると、逆にうれしくなっちゃうじゃないか」

 人間という生物の性だ。魔物が想像もしない反応に出るのだから。恐らくあと千年経っても理解できまい。

 盛永様はこんな痴態、決して見せなかったものだが。

 惑書は忸怩たる心情で維光を助け起こし、

「そんなことはいいから、さっさと今日完成させてしまいなさいな」

「はいはい」

 ああ、こいつの妙に人間らしい所を見るとつい心がなごんでしまう。

 維光は、魔物という存在に親近感を覚えずにはいられない。

 この宿題を終わらせるために、行使者は一夜を費やした。そして問題を解いている間にまどろんでしまったのである。

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