奇跡
やがて、鯨リムジンは、とある路上で、静かに、停車したのだった。
ポーン……というメロディ音が鳴り、スピーカーから白川執事の声がした。
『中吉どの、到着です。恐れ入りますがこれより先は、車の進退に不具合が生じます』
「了解です……と伝えてくれ」
俺は名残惜しげに体を伸ばした。ところが――
瑛が手元の通話スイッチを押し続けつつ、こう、声に出したのだ。
「白川!」
『ははっ』
「辺りに警察はいるか?」
『存在しません』
「ガードはいるか?」
『ヒマを申しつけておりますがゆえ、存在しません』
「一般市民は?」
『はあて……。いるかも知れぬし、いないのかも知れません。人口がありませんから。かと言って、通行者は今後は必ずやって来るでしょうし、しかしながら、すぐに現れるものでも、ないのかも知れませぬ……』
いったい全体、なにが目の前でやりとりされているのだろうか?
戸惑う俺をよそに、しばし考え込む瑛は、やがて決意の表情を浮かべたのだった。
「白川!」
『ははっ』
「エンジン停止。そして白川はそのまま待機!」
『承知いたしました』
そして瑛は、通話ボタンから、指を離した。
自らドアを開け、外に出ていく。いぶかしげに感じながらも、俺も同じドアからあとに続いた。
外は、素晴らしい宇宙だった。
黒々と澄み切った大気に、壮麗に天の川銀河が立ち上がり、煌めいている。
そして、神々しいまでの、白銀の満月。初夏の季節らしく、そこだけわずかに薄く雲がかかり、逆にその月光の静謐さを強調しているかのようであった。
アスファルトの路面には、その月影による、俺たち二人の影が伸びている。
一瞬、すべてを忘れてしまえるほどの、静かなれども圧倒的な、聖なる天地であった。
「煙丸……」
俺の前に立ち、背中を見せていた瑛が、俺の号を呼んだ。ゆっくりと、振り返る。
「父の礼がしたい。付け加えることに、今朝の車内で、この僕を、身を挺して庇ってくれた事に対しても、お礼をさせてもらいたい」
見つめる白い顔に、少しずつ、朱が広がっていく。
「君の、夢を、一つだけ……いいかい、一つだけ、叶えよう」
「――」
ほほが、はっきりと、赤らんでいた。
「いいかい、本当に、一つだけだぞ――」
「――」
状況、ここに至って、このボンクラな俺サマにも、何が発生しつつあるのかわかってきたのだった。
それは、一般に、“奇跡”と呼ばれるものだった。
俺の頭の中は、ある期待で、もはや導火線に火が付いたかの、パニック寸前の、暴走一歩手前の、ギリギリの、血流どっくんどっくんの、緊急事態が大発生しつつあった――
瑛はついに公言した。
「好きな一本を教えて差し上げる。“番号”か、あるいは“銘”を選びたまえ。その“毛”を、一吉どのの正規ナンバーの“毛”を――」
瑛は決意の色を表して、言い放ったのだった。
「この僕の体から、直に、抜かせて、差し上げる――!」