血の流れ
そーゆーわけで、俺は恩人の期待に応えることができて、実に晴れやかな気分で部屋を辞したのだった。
一緒に外に出てきた老執事にも、肩を並べて歩きながら、心軽やかに口をきくことができる。
泊まっていきませんか、とのお誘いには遠慮を申し上げた。お袋が一人で心配です。遅くなっても、家に帰った方がいい。そう説明した。そしたら!
「では、この白川めが、運転手の役回りをお引き受けいたしましょう」
「おおっ」
三島家総執事長、昔は家令とも呼ばれた身上の大人が、自ら送り届けの運転手をして下さるという。大変な名誉だった。
「お任せ下さい。A級ライセンス所持してます」このお方なら、さもあらん。
「感激です」
俺はもう、舞い上がる自分をどう抑えたものか、地に足がつかない、そんな心持ちだ。
俺は、それほどの仕事をしてのけたのだ――!
改めて、その感動が、その誇らしさが、自分の体を激しく抱擁したのだった。
「それにしても――」
声が軽い。
「最初部屋に入ったとき、優さま、マッパで吃驚仰天しました」
「クックック……」
白川氏はそれはもう楽しげに笑った。
「なにしろ、ご主人様は、王様であらせられますから」
「ホントにそうですね!」
「私めは、お仕えしてからかれこれ40年になりますか……。今もまるでギリシャ彫刻のような、たるみのない見事なお体付きでございますが、お若い頃はより以上に、それはもう、色つやといい張りぐあいといい、同性ながら、惚れ惚れとさせられたものでございます」
「わかる気がします」
白川、ニコリ。
「人は、密かな楽しみ、とも、役得、とも申しますが、少し違う。ウフフ、なかなか言葉に表現できないことなのです。あえていうならば、二人の楽しみ、喜びです。また信頼です。貴方におかれても、誠意をもって、逃げずに、受け止め、最後まで見届けなければならないことなのです」
いきなりわからない、わかるようでわからない話になった。戸惑う俺に、白川執事は優しげな、楽しげな笑顔を見せたのだった。
「それは追々理解いただけるとして……」
穏やかに言葉を続ける。
「“かの者”の件についてです。主人はこれで永遠に縁が切れたと認識されたご様子ですが、貴方はそうであってはなりません。“かの者”の名前くらいは、今、承知して頂きます」
「……はい」
俺は素直なものである。
「“かの者”の名は、“かすみ”。京霞と称します。よろしいですか、大事なことです」
「はい」
「仮の話をします。もし、貴方が、この“かすみ”と結婚することになったら」
「――」
「三島の血を受けつつ、“平”の家名を継ぐ、正統、煙丸九代目が誕生いたします」
……なんだか、話が宇宙ロケットに乗って、今、リフトオフし始めているような感覚がしてきたのだった。
「しっかり認識してください」
「は、は、は、はい……」かろうじて。
「漫画、『おナベさん』、ご存じですか?」悲鳴をあげるところだった。
俺はいま、この怪老人に、振り回されている!? この世にジジイほど恐ろしいものはない――
「――そりゃ知ってますよ! 国民的マンガだ。来年、誕生120周年です」
「では、その真の主人公は誰か、お分かりですか?」
「陽本菜辺子……」
「違います」
「じゃあ――」
後期『おナベさん』だろうか。
「――勝男くん」
「その通りです! そして、あえて言うなら、隠れ主人公が、陽本風太……」
「……」俺は考える。
必死こいて考える。事態は、思わぬ様相に、なってしまっていたものだから――
陽本勝男は、菜辺子さんと風太さんの間にできた長男だ。
そして、菜辺子さんは、陽本しいたけの実子。
風太さんは、入り婿である……。
「……」
俺は、自分の顔が、火のように真っ赤っかになっていくのを自覚していたのだった。
白川執事が、容赦なく言葉を続けた。
「瑛さまのお兄様、お名前を、貴さまと申します」
「――」もう、俺の頭ん中、容量パンパンだよ!
「敵に弑されたのが今から十三年前、英布7年の夏の頃でございました」
「――」
「当時、貴さまは16歳。そして瑛さまは3歳でございました。仲睦まじい御きょうだいで、貴さまは、よく瑛さまをお抱きになり、可愛がっておられたものです」
「――」
白川氏は、こちらを見て、なおかつ、遠くを見る目付きになった。
「よく似ていらっしゃる……」
自分の顔が、火で溶解しそうだった!
爺さん、この爺さん――!
「日本国の人口の、男女比率は1:10以上と申します。いいですか――」
執事の顔が迫る。恐い。
「中吉どの、貴方は、そのお身のうちに、日本一の、ハーレム王に、なれる、可能性を秘めていらっしゃるので御座いますぞ」
「――」
「自覚して頂きたく……」
そして最後に、まるであやすかのように、慈しみあふれる笑みを見せたのであった。