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第十二話 「天才料理人シロ 出世する(前編)」

 石造りの壁に囲まれた部屋で、僕は重いまぶたを持ち上げた。窓から差し込む朝日が、絹の布団に温かな光の帯を描いている。ベッドから起き上がると、足裏に触れる絨毯の感触が、まだ夢の中にいるような錯覚を与えた。


 洗面台に向かい、桶に貯めてある冷たい水を顔にかけて、その刺激で完全に目が覚めた。鏡に映る自分の顔は、以前より少し血色が良くなっている。規則正しい食事と布団での安眠のおかげだろう。


 顔を洗いながら、ここ数日の出来事を振り返る。


 ふう……本当に怒涛の日々だった。


 邪神軍での料理審査。あの時の緊張は今思い出しても手に汗が滲む。ティレアの突然の乱入。そして何より、モチキチ騒動。


人族は恐ろしい。特にモチキチという男は。


 彼の狂気じみた崇拝の眼差しを思い出し、背筋がぞっとする。侮蔑や軽蔑の視線には慣れ切っていた。幼い頃から浴び続けてきた冷たい視線。「役立たず」「弱虫」「料理しかできないミソッカス」——そんな言葉と共に向けられる蔑みの目。


 だが、あんなに持ち上げられたことは生まれて初めてだった。土下座をして神呼ばわりするなど、悪夢としか思えない。


 周囲から刺すように向けられる視線の質が、いつもと全く違っていた。侮蔑ではなく、畏怖。軽蔑ではなく、困惑。そして一部の者からは、明らかな嫉妬。生きた心地がしなかった。


 ……まあ、それでも拳で殴られ、足で蹴られ、石を投げつけられるよりははるかにましだ。体に残る古い傷痕が、記憶と共にうずく。


 弟子入り騒動はともかく、料理審査で提出したアライのスープは、あのティレアのお眼鏡に叶ったようだ。

 審査会は僕の優勝となった。


 オルティッシオは今月の邪神栄誉賞を受賞したらしい。彼の喜びようといったら、まるで子どものようだった。普段の恐ろしい姿からは想像もできない無邪気さで、何度も僕の肩を叩いていた。


 そして僕は、その功績を称えられ【軍曹】から【曹長】に昇進した。


「家畜よ。これは、ものすごく栄誉なことだぞ」


 オルティッシオがそう言った時の誇らしげな表情が忘れられない。家畜という言葉はおいておく。


 僕は机の引き出しから、オルティッシオに渡された階級表を取り出す。羊皮紙に丁寧な文字で書かれたそれは、ジャシン軍の複雑な組織構造を物語っていた。


 ジャシン軍の階級を説明すると、以下の構成となっている。


【元帥】カミーラ・ボ・マルフェランド——絶対的存在。その名前を口にするだけで、兵士たちは背筋を正す。


【大将】ニールゼン・ボ・クラシカル(上級)、ドリュアス・ボ・マルフェランド、ミレス・ヴィンセント(下級)——軍団を統括する実質的な最高司令官たち。


【中将】ミュッヘン・ボ・エレト(上級)、ムラム・ボ・フィッシャー、ベルナンデス・ボ・マクド、オルティッシオ・ボ・バッハ(下級)——各師団の長。オルティッシオもこの階級にいる。


【少将】ギルバート・ボ・バッハ(上級)(第二師団副長)、第二師団以外の副団長——師団の副長格。ギルさんは料理部門の統括も兼任している。


【准将】魔王軍元カミーラ隊の平隊員——かつての魔王軍時代からの古参兵たち。


 〜超えられない壁〜


 ここまでが実質的に別世界だとギルさんが教えてくれた。上の階級の者たちは、まさに雲の上の存在なのだ。次に、


【大佐】アルハス・エディム(吸血新選組局長)、カーチェイス・ドゥドゥア・ラングエール(下級)——特殊部隊の指揮官クラス。


【中佐】ダルフ・ガデリオ(上級)(吸血新選組副長)、キャス・フリーゲン、アルハス・マラーノ——実戦部隊の中核。


【少佐】吸血新選組の平隊員——エリート戦闘員たち。


【准佐】吸血新選組の見習い隊員——将来を嘱望される若手。


【大尉】ジェジェ・ジェ・アマチャール(吸血御陵衛士隊隊長)——特殊任務部隊の長。


【中尉】キッカ・キ・メルカート(吸血御陵衛士隊副長)——その副長。


【少尉】御陵衛士の平隊員、見習い隊員——王都周辺の警備を担う者たち。


【准尉】国王、地方長、豪長——形式的な名誉階級。実権は持たない。


〜努力すれば超えられる壁〜


 キュウケツ組には二種の部隊がある。吸血新選組と邪神軍吸血御陵衛士隊である。王都に数百人はいるらしい。それぞれが特殊な能力を持つエリート集団だと聞いている。


 吸血とか言ってたっけ? どういうことだろ?


 とにかく、これらすべての名前と顔を覚えなければならない。全員覚えきれるだろうか?


 ここが僕の第二の居場所になる。名前を間違えれば、一歩間違えば死だ。この軍隊では、序列を間違えることは最大の侮辱とみなされる。必死で覚えなければならない。


 僕は改めて、オルティッシオから渡された軍政表を見る。


 あれ、オルティッシオ上級中将!?


 よく見ると、下級に黒いインクで取り消し線が入れられて、その上に「上級」と彼自身の文字で上書きされている。明らかに彼の筆跡だ。


 さらに詳しく見ると、他にも勝手な修正がいくつもある。ミュッヘンは上級中将から下級中将に格下げされ、ドリュアスなんて大将から大佐まで大幅降格になっている。


 エディムに至っては、大佐から一等兵!? もうめちゃくちゃだ。


 どうやら自分の好き嫌いで勝手に書き換えているらしい。オルティッシオの子どもっぽい一面が垣間見える。


 正しい職制をギルさんに聞いておいてよかった……僕は苦笑いを浮かべながら、正確な情報で訂正しておく。


 手元のペンでていねいに修正を加えながら、下士官の部分に目を移す。


 ここまでが士官である。次が下士官だ。


【曹長】シロ(僕)——料理部門の責任者。まさか自分がこんな地位に就くとは。


【軍曹】モチキチ、ジャン——直属の部下たち。モチキチはあの狂信者だが、料理の腕はまだ他よりましだ。


【伍長】A級のその他料理人たち——技術は未熟だが、やる気は十分。


【一等兵】家畜ども(族長)——この呼び方は良くないが、食糧生産の責任者。


【二等兵】家畜ども——農作業担当。


【三等兵】家畜ども——最下位の農作業担当。


 この辺りは戦闘職ではない料理人や農民の階級となっている。一等兵から三等兵は食糧生産部隊だ。彼らはひたすら畑を耕し、家畜を世話し、軍の胃袋を支えている。地味だが、軍隊にとって不可欠な存在と思う。


 それにしても、いまいち実感が湧かない。つい数日前まで、僕は最下層で生きていたのだ。


 ジャシン軍のトレーニングルーム、食堂、軍団員の寝床など各種施設が使えるのは士官からだ。それより下の階級の者たちは、決められた区域から出ることすら許されない。


 実際、僕の部屋もすごかった。


 部屋に入った瞬間の衝撃は忘れられない。バスルームには大理石の浴槽があり、書斎には革装丁の書物が整然と並んでいる。服の生地も木綿ではなく絹だ。光沢のある美しい織物で仕立てられた軍服は、肌触りが全く違う。こんな上質な服を着たこともない。


 ここに連れてこられた時、僕は雨露をしのげる部屋で寝られたら幸いと思っていた。藁束の上でも、屋根があるだけで天国だと考えていたのだ。


 それが、こんな待遇を受けるなんて夢にも思わなかった。


 個室が与えられ、ふかふかの羽毛布団があって、堅牢な樫の木の机も革張りの椅子もある。壁には見たこともない絵——おそらく宮廷画家の手による風景画や肖像画——が飾ってあった。


 しかし驚くべきことに、こんなすごい部屋でもジャシン軍全体では下の部屋らしい。士官以上になると、さらに豪華な設備が待っているという。


 ギルさんの話によれば、上級士官の部屋には豪華な家具——竜骨で作られた机、エルフ職人が手がけた椅子、古代魔導書を収納する特別な書棚——が設置され、石造りの暖炉では魔法の炎が一年中燃え続け、アーチ型の天井には魔力で動く星座の装飾があり、魔法で温度調整された空調により、常に完璧な環境が保たれているという。


 想像するだけでめまいがしそうだ。


 さらに上の階級になると、部屋の中央には深紅の絨毯が敷かれ、その先にある執務机は百年前に倒した伝説の魔獣「ルク=グラース」の顎骨を用いて彫刻されているらしい。天井のシャンデリアは純度の高い魔力水晶で作られ、柔らかな光を放ち続ける。部屋の隅では幻影通信の装置が淡く脈打ち、遠方の部隊との連絡を可能にしている。


 壁には邪神軍の紋章——双頭の竜と交差した剣——が金で描かれ、かつ、その旗に刻まれた戦歴を見るだけで、歴史の重みが伝わってくる。何も語らぬが、彼らの輝かしい過去と重い責任が、この部屋に染み付いているのだ。


 他にも、魔獣の頭骨や古戦場で拾った戦利品、退魔の剣や古代の魔法杖、失われた文明の遺物などが整然と陳列された一角もあるという。それぞれが博物館に収蔵されてもおかしくないような貴重品ばかりだ。


 そして何より驚いたのは、給料をもらったことだった。


 給与窓口で、事務担当の女性士官から明細書と一緒に革袋を手渡された時の感動は言葉にできない。机の上に並べられた金貨の輝き。それを一枚ずつ丁寧に革袋へと滑り込ませる時の、手の震え。


「チャリン……チャリン……」


 金属同士がぶつかる澄んだ音が響くたび、袋の底が徐々に膨らみ、ずっしりとした重みが増していく。袋は上質な黒革製で、ジャシン軍の紋章——翼を広げた黒鷲——が金糸で刺繍され、封印が型押しされていた。革紐をきゅっと締め、それをベルトの横に吊るす。歩くたびにじゃらりと鳴る音が、新しい身分を実感させてくれる。


 中身を確認すると、銀貨がぎっしりと詰まっている。数枚ではあるが、金貨もあった。金貨の重量感、その美しい輝き。見ているだけで現実感が薄れていく。


 貨幣を所有したことがない僕でも、これが大金だということはわかる。


 以前、雑用で人族の町まで買い物に行ったことがあった。その時に大体の相場を覚えた。塩や胡椒といった基本的な調味料を購入するために、市場を歩き回ったのだ。確か銅貨一枚で、一食分——黒パンと白豆のスープ——を購入できる。庶民の標準的な食事だ。


 貨幣制度は、銅貨百枚で銀貨一枚、銀貨百枚で金貨一枚という構成になっている。


 銀貨十枚で一日分の兵士の食料をまかなえる。だが、金貨一枚あれば下町の家が一軒買える。そんな金貨が、僕の袋には三枚も入っているのだ。


 僕がもらった貨幣は、金貨三枚、銀貨三十二枚ほど。下士官(軍曹)の平均月給が銀貨二十枚で、これは一般兵士の倍以上である。


 しかし僕がもらったのは、それをはるかに上回る額だった。これは月給じゃない、年給に近い金額だ。年給でも多すぎるくらいだが……。


「来月も同額をお支払いします」


 事務官がそう告げた時、僕は耳を疑った。


 えー……本当にいいのだろうか?


 曹長の職責について、ギルさんが詳しく説明してくれた。曹長は、ジャシン軍の台所組織全体を指揮・指導するのが主な役目だ。メニューの決定から食材の調達、調理法の指導、衛生管理まで、軍の食事に関わるすべてを統括する。


 もともと曹長のポストは空位で、上層部は料理大会で優勝した者をその地位に就けるつもりだったらしい。そして優勝した僕が、その重要な席を預かる身となったのだ。


 正直なところ、心から助かったと思っている。戦闘に出るより性に合っている。僕には剣も弓も扱えない。魔法の素養もない。だが、料理なら誰にも負けない自信がある。


 確かに責任は重く、緊張もするが、「敵兵士の首を取ってこい」と言われるより百倍マシだ。血みどろの戦場で命をやり取りするよりも、温かい厨房で美味しい料理を作る方が、僕の本分に適している。


 とりあえず職場へ行かないと。遅刻なんてもってのほかだ。新任の曹長が初日から遅刻したなどという噂が立てば、それこそ部下たちからの信頼を失ってしまう。


 身支度を整え、廊下を歩いて厨房に向かう。石造りの廊下に足音が響く。壁に掛けられた松明の炎が、僕の影を長く伸ばしている。


 厨房に着き、重い木製のドアを開けて中に入る。


 厨房は朝からにぎやかだった。大きな竈では既に火が起こされ、巨大な鍋からは湯気が立ち上っている。野菜を刻む音、肉を焼く音、皿を洗う音、そして料理人たちの活気ある声が混じり合って、生き生きとした雰囲気を作り出している。


 僕が入るなり、料理人たちが一斉に振り返り、様々な質問を矢継ぎ早に投げかけてくる。


「曹長殿、この塩の量はこれで良いのでしょうか?」

「肉の焼き加減が分からないのです!」

「野菜の切り方は、これで合っていますか?」

「スープの味付けは、どうすれば……」


 基本中の基本ができていない。料理の「り」の字も理解していない者ばかりだ。


 てんでだめだ。僕が三歳の頃のほうが、まだ包丁の持ち方を知っていた。


 食材の選択から間違っている。肉の部位の特性を理解せず、野菜の旬を知らず、調味料の分量も適当だ。見ているだけで頭が痛くなってくる。


 一から十まで、いや、それ以前の段階から教える必要がある。正直、あまりの技術不足に呆れてしまうほどだ。


 だが……まあ、熱意だけは認めてもいいかな。皆、本当に熱心に僕の話を聞いてくれる。目を輝かせて、一言も聞き逃すまいとする姿勢は評価できる。料理への愛情は感じられるのだ。


 問題は、モチキチだ。


「皆の者、静まれ!神の声だ。とくと聞け!」


 彼が僕の指導を「神の教え」呼ばわりする度に、僕は身の置き所がなくなる。他の料理人たちも困惑している様子で、その場の空気が気まずくなってしまう。


 それでも、一日かけて基本的な技術を教え込んだ。包丁の正しい持ち方、食材の見極め方、火加減の調整、調味料の適切な使用法。単純なようで奥の深い技術ばかりだ。


 夕方になる頃には、さすがに疲れ切っていた。


 ふう……やっと一日が終わった。


 肩の凝りをほぐすように、トントンと自分の肩を叩く。厨房の扉を開けて外に出ると、廊下の空気がひんやりとして心地よい。


 疲れたが、悪い気はしない。達成感のようなものすら感じている。


 これまでの人生では、いつも料理しかできない僕を馬鹿にする人たちばかりだった。「役立たず」「弱虫」「戦いもできないミソッカス」——そんな言葉を浴びせられ続けてきた。


 だが、ここでは違う。僕の料理の技術は認められ、必要とされ、尊敬さえされている。この感覚は初めてのことで、まだ慣れない。


 ここでの生活も悪くないかもしれない。


 少し足取りも軽やか、気分も上々で自分の部屋に戻ろうと廊下を歩いていた時のことだった。


 えっ!?


 僕は立ち止まり、目を疑った。


 どうして? なぜ?


 廊下の向こうから、ここにいるはずのない人物が歩いてくる。


 ガウ——僕の故郷で、いつも僕を見下しいじめてきた男。

 なぜ彼がここに?


「これはこれは、そこにおられるは今を時めく族長様ではございませんか!」


 ガウが大仰に両手を広げて、演技がかった口調で声をかけてきた。その笑顔は作り物めいていて、目の奥には何か別の感情が潜んでいる。


「それとも今は曹長様とお呼びしたほうがよろしいですかな?」


 彼の視線は、明らかに獲物を狙う猛獣のそれだった。値踏みするような、何かを企んでいるような、そんな危険な光を湛えている。


 僕の心臓が嫌な予感と共に早鐘を打ち始めた。


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― 新着の感想 ―
ミレスなにか出世しすぎw大臣てここまで高位だったのねとか ギルバート、オルと兄弟だったのとか。やたらかばうなと思ってたけど
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