第八話 「天才料理人シロ 暴帝ティレアと会う」
僕は人族の料理人を初めて見る。一体どんな料理を作るのだろうか?
王都に向かう馬車の中で、ギルさんから詳しい事情を聞いていた。木枠の窓から差し込む西日が揺れるたびに、向かいに座るギルさんの顔が明暗を繰り返す。その話は僕の想像を遥かに超えるものだった。
もともと邪神軍の食事はティレアが自ら作っていたらしい。最初にその話を聞いたとき、僕は耳を疑った。組織のトップが料理を作るなんて、普通は考えられない。たいていそういうのは最下級の兵士の役目だからだ。
ベジタ村でも、族長が料理を作ることなど絶対にありえなかった。戦士たちは戦うことが仕事で、料理は僕のような最下級の者がやることだった。でもティレアは違った。
「ティレア様のご趣味が料理なのだ」とギルさんは説明してくれた。
人族の風習はよくわからないが、そういうこともあるのかもしれない。
部下たちはいつもティレアから食事を振る舞われて恐縮していたそうだ。「最高指導者のお手を煩わせて申し訳ない」と。何度も自分たちで作ると申し出たが、ティレアがそれを許さなかった。
「素人が料理を作れば食材を無駄にして勿体ない」そんなティレアの言葉だったという。
しかし、組織が大きくなるにつれて、一人で全員分の食事を作るのは物理的に不可能になった。各師団にそれぞれ数百人の兵士がいる。さすがのティレアでも限界があった。
そこで幹部たちは考えた。それならプロの料理人を連れてくればよいと。
各師団の隊長たちがそれぞれ優秀な料理人を探してくることになった。一番優秀な料理人を連れてきた者には、邪神軍で最も名誉ある【邪神栄誉賞】が授けられるらしい。各隊長の競争は熾烈を極めた。
そういえば、オルティッシオが出発前に凄まじい剣幕で僕に迫ってきたことを思い出す。
「いいか! 絶対に勝て! 死んでも勝つんだ! もし負けたら……」
その後の言葉は聞くに堪えないものだったが、要するに負けたら生きて帰れないということだった。よほどその賞が欲しいのだろう。
他の幹部たちも同じらしい。各師団の実力者たちが褒章目当てに有能な料理人を血眼になって探しているとか。
王都の有名料理店の料理長、宮廷で腕を振るっていた一流シェフ……そうした凄腕の料理人たちが今、この地下帝国に集められているのだ。
この人たちがその伝説的な料理人なのか……。
厨房に足を踏み入れた瞬間、熱気と香辛料の匂いが僕を包み込んだ。
天井から吊り下げられた魔法照明が、磨き上げられた調理台を白く照らしている。壁一面に並ぶ銅鍋が、その光を受けて鈍く輝いていた。
そこには七、八人の料理人が集まっており、全員がプロの風格を漂わせていた。白いコック帽とエプロンに身を包み、手には研ぎ澄まされた包丁を持っている。
彼らの立ち振る舞いからは、長年の経験と自信が滲み出ていた。村の料理とは次元の違う、本格的な料理の世界がここにはあるのだ。
緊張で手のひらに汗をかきながら、僕はペコリとお辞儀した。
「あ、あの、よろしくお願いします。ベジタ村出身、狼族族長のシロと申します」
ミソッカスの僕が族長と名乗りを上げて挨拶をした。もしガウがこの場面を見たら、目を剥いて殴り殺していただろう。でも今の僕には、この肩書きしかない。
「おい、なんで獣人がいるんだ?」
「えっ!? あ、あの……」
人族の料理人たちは【族長】という言葉にまったく興味を示さなかった。獣人だったら、まずはどの程度の強さか値踏みするように威圧してくるのに、彼らの関心はそこにはないようだった。
はは、ギルさんの言う通りだ。ここでは【族長】なんて何の意味もない。獣人の風習とは全く違うのだ。
「お前、料理できるのか?」
動揺して二の句が継げないでいると、一人の料理人が鋭い視線で僕を見据えて質問してきた。四十代前半くらいの男性で、整った顎髭を蓄えている。その目つきは威圧的で、長年厨房で部下を指導してきた料理長のような風格があった。
「おい、聞いているのか?」
「ご、ごめんなさい。はい、できます」
「ふぅん、じゃあランクは?」
「ランク? え、えっと、それはどういう意味ですか?」
僕の質問に、その男性は呆れたような顔をした。
「おいおい、まじかよ。お前、国指定の料理免許持ってないのか!」
国指定の料理免許? そんなものがあるなんて、初めて聞いた。
「あ、でも、村ではずっと料理をしてきました」
「話にならねぇ。ここにはな、国指定の料理免許Aランク以上が集まってるんだ。中には最高位のSランク保持者もいる。ランク外の素人はお呼びじゃないんだよ」
その言葉を聞いて、周りの料理人たちがざわめき始めた。彼らは僕を見る目を明らかに変えた。尊敬や警戒ではなく、軽蔑と困惑の視線だ。
「で、でも、僕、料理が得意です」
「得意ねぇ〜。どこかの料理店で修業した経験はあるのか? 王都の名店で働いたことは?」
「ありません。でも、村の食事は全部僕が作ってました」
「はぁ〜、その程度かよ。じゃあ料理の【炒】【燻】【焼】【蒸】のサイクルくらい知ってるよな? 基本中の基本だぞ」
「サイクルですか……それにどんな意味があるのですか?」
僕の質問に、料理人たちは一斉にため息をついた。
「だめだ。ここに一人だけレベルの低い奴が紛れ込んでるぞ」
「え、えっ!? でも、サイクルって意味がわからない」
「おい、俺たちはプロ中のプロの料理人だ。王侯貴族の舌を満足させてきた一流シェフばかりなんだぞ。素人は隅っこで大人しくしてろ!」
傲慢な態度と威圧的な物言いに、僕は萎縮してしまった。村でも散々馬鹿にされてきたが、ここでも同じことが繰り返されるのか。
殴られでもしたらたまらない。僕は大人しく厨房の隅っこに移動した。
背中を壁に預けると、冷たい石の感触が薄い衣を通して伝わってくる。ここからだと、調理台に並ぶ料理人たちの背中が五、六歩先に見える。
それにしても、【炒】【燻】【焼】【蒸】のサイクル? あの人は何を言っているのだろう?
食材は無限に種類がある。同じ野菜でも産地、季節、大小、新鮮度、保存状態によって全く違う。さらに気温、湿度、調理する時間帯まで考慮したら……調理に決まったサイクルなんてありえない。
その日その時、その食材に最適な調理法を選ぶのが料理人の技術ではないのか?
決められた手順に従うだけなら、それは料理ではなく作業だ。
やっぱり人族の風習はわからない。それとも、僕の理解が間違っているのだろうか?
部屋の端で体育座りをしてしばらくすると、人族の料理人たちが本格的に料理を始めた。
とにかく学ぼう。
本物のプロの料理人はどんな料理を作るのか?
僕は固唾を呑んで、彼らの一挙手一投足を観察した。
最初の印象は、彼らが緊張しているということだった。手の動きがぎこちなく、額には汗が浮かんでいる。
「大丈夫だよな? 失敗したらどうなるんだ?」
「わからん。でも邪心軍だぞ。優しい処分で済むはずがない」
「聞いた話だと、前に失敗した奴は……」
そこから先は聞こえないように小声になったが、内容は推測できた。
三十分ほど観察していると、僕はだんだん居ても立ってもいられなくなってきた。足の痺れも忘れるほど、目の前の光景が信じられなかった。
これは……なんということだ!
芋の切り方は雑で細胞を潰しているし、野草類は大きさもバラバラのまま鍋に放り込まれている。どれもこれも、食材を殺す調理ばかりだ。
食材が悲鳴を上げている。
特にひどかったのは魚の扱いだった。
一人の料理人が高級魚を三枚におろしているのだが、包丁の角度が浅すぎる。刃が骨に沿っていない。身を半分も無駄にしている。骨に大量の身が付いたまま捨てられ、皮も雑に剥がされて使える部分まで削り取られていた。
あの骨についた身だけで、何人分のスープが取れると思っているのか。
なんという不手際、なんという無駄遣いだ。
A級食材が次々と台無しになっていく。見ているだけで胸が痛くなった。
「なぁ、下手な料理を作ったら絶対罰を与えられるよな?」
「多分な。あの恐ろしい連中のことだ。解雇なんて甘い処置はしないだろう。鞭打ち、いや、下手したら殺されるんじゃないか?」
「ひょえええ! まじかよ、恐ろしい」
料理を作りながら、人族の料理人たちが怯えている。手が震えて、包丁を落としそうになっている者もいた。
……この人たちは、本当に料理人なのか?
最初に抱いていた緊張と尊敬の念は、もはやかけらもない。代わりにあるのは怒りと深い失望だ。
これまで僕は、どんなに殴られても、どんなに侮辱されても、生きるためにヘラヘラと笑って我慢してきた。弱いから、情けないから、仕方がないんだって自分に言い聞かせてきた。
でも、こと料理に関しては違ったらしい。
はは、僕にもこんな激しい感情があったんだ。
下手くそ! 何を今更怯えているんだ!
下手な料理を作ったら殺されるのは当たり前だ。この人たちは、今まで命をかけずに料理を作っていたのか?
どうりで、こんなに不味くて粗雑な料理しか作れないんだ。
僕は生まれてからずっと、命をかけて料理を作っている。一食作るたびに魂を込め、一切手を抜いたことがない。なぜなら、手を抜けば死ぬからだ。
おばあちゃん……。
おばあちゃんは僕なんかよりも遥かに優れた料理人だった。どんな粗末な食材でも、魔法をかけたように美味しい料理に変えてしまう。腐りかけた野菜も、硬くなった肉も、おばあちゃんの手にかかれば美味しい料理になった。
特に飢饉の時のおばあちゃんの料理は神業だった。およそ食べるものではない雑草や木の皮、時には毒を抜いた毒キノコまで使って、栄養価が高く美味しい料理を作った。村の人たちがおばあちゃんの料理で命をつなぐことができたのは、何度もあった。
最高で偉大な料理人だったおばあちゃん……。
でも、どんなに優れた料理人にも、終わりはやってくる。
年を重ねるごとに、おばあちゃんの五感は少しずつ鈍くなっていった。耳が遠くなり、目も見えにくくなり――そして最後に、料理人にとって最も大切な味覚を失った。
それでもおばあちゃんは料理を作り続けた。味がわからなくても、長年の経験と身体に染みついた勘で美味しい料理を作ることができた。積み重ねてきた数十年の技量は、五感の衰えすら凌駕していた。
おばあちゃんは十二分に優れた料理人だったのだ。
なのに……。
僕が、僕がもっと一人前だったらよかった。おばあちゃんの代わりを完璧に務められたら、あんなことにはならなかった。
おばあちゃんの味覚が完全になくなったその年の冬、ベジタ村周辺で百年に一度という大飢饉が発生した。冷害と干ばつが同時に起こり、作物は全滅。これまでに類を見ないほどの食糧難に陥った。
腐った食物、カビの生えた穀物、およそ食べられないような代用食、それすらもこと欠く状況だった。近隣の村々はすべて困窮し、食糧の奪い合いが始まった。強い村が弱い村を襲い、僅かな食料を奪っていく。
ベジタ村の戦士たちも腹を空かせ、いつも以上に機嫌が悪かった。普段なら見逃してくれるような小さなミスでも、容赦なく殴られた。当時の族長ですら空腹で、判断力が鈍っていた。
そんな極限状況で毎日食事を出せただけでも奇跡だった。他の村では餓死者が続出していたのに、ベジタ村では一人も餓死者を出さなかった。それは偉大な料理人だったおばあちゃんだからこそ成し得た偉業だった。
でも、味覚が完全に麻痺していたおばあちゃんは、その運命の日、塩加減を間違えて料理を作ってしまった。
ほんの少し、本当にほんの少しの違いだった。僕でさえ気づかないほどの、微かな塩辛さ。でも、空腹と疲労で神経が尖っていた戦士たちには、それが許せなかった。
「なんだこの不味い飯は! 食えるかこんなもの!」
一人の戦士がおばあちゃんの作った料理を床に叩きつけた。
陶器の椀が砕け散る音。飛び散る汁。土の床に染み込んでいく、おばあちゃんが心を込めて作った料理。
貴重な食料が無駄になったが、戦士の怒りは収まらなかった。
「年寄りの作る飯はこれだから駄目なんだ!」
そして、おばあちゃんは……殺された。
うぅ、うぅ、くそ、くそぉお!!
思い出すたびに涙が出てくる。あの時の光景が、おばあちゃんの最期の表情が、今でも僕の心に焼き付いている。
倒れたおばあちゃんの身体。床に広がる血。それでも僕の方を向いて、最期まで笑おうとしていた皺だらけの顔。
――シロちゃん、泣かないで。
声にならない唇の動きが、今でも夢に出てくる。
Aランクの料理人? 有名料理店の料理長? 宮廷料理人?
どっちが素人だ! ふざけるな!
こいつら、料理について何もわかっていない。命をかけて料理を作ったことがない。食材の気持ちを考えたことがない。
偉大な料理人だったおばあちゃんが理不尽に殺されて、なんでこんな下手くそたちが名誉を得て威張っているんだ。
ずるいよ、ずるい。涙が頬を伝って落ちる。悔しい、悔しい。
あぁ、わかった。この怒りの正体がわかった。
最高の料理人は、おばあちゃんだ。この世界でたった一人、本当の料理人だったのはおばあちゃんだけだ。こいつらに【最高】を名乗る資格はない。
僕が本当の、究極の料理を見せてやる。おばあちゃんの魂を込めて、この世で一番美味しい料理を作ってやる!
「おい、あの獣人、生意気にもこっちを睨んでやがるぞ」
はっ!?
僕の感情の高ぶりに気づいた料理人の一人が、警戒するような声を上げた。僕は慌てて目を逸らし、表情を取り繕った。
「ほっとけ。すねてるんだろ。それより調理だ。手は抜けないぞ」
もう一人の料理人が宥めるように言った。
その言葉に我に返った。……僕はなんてことを!
落ち着け、落ち着くんだ。こんなのはただの八つ当たりだ。この人たちのせいではない。あの時、おばあちゃんの代わりを務められなかった未熟な僕のせいなのだ。
ここは苛烈なジャシン軍の拠点だ。感情を表に出しては絶対にだめだ。僕は生きなければならない。おばあちゃんの分まで生きて、おばあちゃんの料理を受け継いでいかなければならない。
深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
すぅ〜はぁ、すぅ〜はぁ……うん、大丈夫。危なかった。
以前、ガウに大怪我を負わされた時と同じ過ちをしでかすところだった。あの時もおばあちゃんを侮辱され、感情のまま怒りをあらわにした。結果、殺されそうになったのである。
うん、もう他人のことはどうでもいいや。あんなに不味い料理を作ったら絶対にティレアに殺されると思う。だが、知ったことではない。
僕は僕の仕事をしよう。
ただ一つ問題があった。厨房には近づくなと言われているので、立派な調理器具は使えない。手持ちの古い包丁と小さな鍋しかない。
食材も問題だった。冷蔵庫という魔法の箱に入っているA級食材があるのだが、僕が近づいたらあの人たちが怒るだろう。殴られるのは嫌だ。
う〜ん、どうしよう……あっ!? そうだ!
ゴミ箱の中に彼らが捨てた食材があるじゃないか!
プロを名乗る料理人たちは、ナスのヘタ、肉の脂身、魚のアラ、野菜の皮など、「使えない部分」をどんどん捨てていた。見ていて心が痛んだ。もったいない、あまりにももったいない。
本来、食材というものは余すところなく使えるのだ。それもA級食材ともなれば、捨てるところなんて皆無である。
僕は村で、F級と言われる産業廃棄物ですら料理に昇華してきた。腐りかけた野菜、硬くなった肉、傷んだ魚……どんな食材でも、適切に処理すれば美味しい料理になる。
ゴミ箱に移動する。
大理石の調理台が光を受けて輝く、そのすぐ脇のゴミ箱。プロの料理人たちが一級品の器具を並べて腕を振るう、その足元に捨てられた食材。
僕はその残飯を拾おうとしている。
惨めだ。
村にいた頃と何も変わらない。結局、僕はいつだって誰かが捨てたものを拾う側の人間なのだ。
でも――。
誰も見ていないのを確認してから、そっと蓋を開けた。
瞬間、鼻腔を突く複雑な香り。まだ新鮮な野菜の青臭さと、魚の潮の香りが混じり合っている。
惨めさが消えた。代わりに、料理人としての目が開く。
ゴミ箱の中で、食材たちが僕を待っていた。まだ生命力に満ち溢れている。
すごい。さすがA級食材だ。
魚のアラは、切り口がまだ透明感を保っている。肉の脂身は、白く艶やかに光っていた。野菜の皮も、瑞々しさを失っていない。
これだけのみずみずしさがあれば、十分に美味しい料理ができる。
魚のアラからは上質な出汁が取れるし、肉の脂身は旨味の宝庫だ。野菜の皮にも栄養と風味がたっぷり詰まっている。
包丁を取り出す。
刃は錆びついているが、砥石で何度も研いできた。切れ味だけは一級品だ。
小さな鍋を厨房の隅にある火にかける。炎が青く揺らめき、鍋底を舐め始めた。
まず、ブラックナスのヘタの汚れを洗い流し、軸を適度な大きさに切る。独特の苦味があるが、適切に処理すれば深いコクに変わる食材だ。次にキャベツの外葉を細かく刻み、山椒の実と組み合わせる。山菜の代用だが、これで十分に複雑な味わいを生み出せる。
鍋に水を張り、強火で沸騰させる。
沸騰してから正確に三分後、気泡が小さくなったその瞬間を見計らって、ブラックナスのヘタと山椒、刻んだキャベツを交互に投入する。
この投入のタイミングが極めて重要だ。早すぎれば苦味が強くなりすぎ、遅すぎれば旨味が十分に抽出されない。
湯が徐々に赤茶色に変化していく。琥珀色から深い茶褐色へ。その美しい色の変化を見守りながら、絶対にかき混ぜてはいけない。自然対流に任せて、静かに待つ。
そして次に、最も重要なアライの肉の処理に取りかかる。
ゴミ箱から魚のアラを取り出す。
骨と頭、そしてヒレの付け根に残された身。普通の料理人なら見向きもしない部位だが、ここにこそ最上の旨味が眠っている。
丁寧に下処理をする。骨についた身の部分を、包丁の背でこそげ取るように細かく切り分けていく。一片たりとも無駄にしない。
塩水に浸ける。本来なら岩塩を使いたいところだが、手持ちの塩で代用する。
三十分後、魚の身を取り出し、沸騰したお湯で茹でこぼす。
湯に入れた瞬間、身が白く変色し、灰色の泡が浮き上がってきた。これは毒抜きと臭み取りを兼ねた重要な工程だ。茹で上がったら冷水で締める。身がきゅっと引き締まり、余分な脂が落ちる。
この作業を三回繰り返すことで、魚特有の生臭さを完全に除去できる。
そして最も重要な火加減の調整に入る。
最初は強火で一気に温度を上げる。鍋の中で湯が激しく沸き立ち、魚の身が踊り始めた。
アクが出始めたら中火に落とす。
茶色い泡が水面に浮かんでくる。おたまでそっとすくい取る。一度、二度、三度。出てきたアクを丁寧に取り除く作業は、料理の味を決定づける重要な工程だ。
おばあちゃんはいつも言っていた。
――アク取りを怠る料理人に、美味しい料理は作れないよ。
アクが出なくなったら、今度は弱火でじっくりと煮込む。
時計を見てはいけない。肉の色と香りの変化で判断するのだ。
炎を絞り、鍋の中をじっと見つめる。
最初は白っぽかった魚の身が、徐々に飴色へと変わっていく。透明だった煮汁が、黄金色の輝きを帯び始める。
鼻を近づける。
最初は魚の香りだけだった。それが次第に、野菜の甘みと混じり合い、やがて一つの調和した香りへと変化していく。
約一時間後、魚の身が美しい飴色に変化し、スープ全体から深い香りが立ち上ってきた。
今だ。
ここで、この料理の最も重要な隠し味を加える。
木の実シカェアを、下地として使っているのだ。
シカェアは村の裏山で採れる希少な木の実だ。出発前に、いくつかポケットに忍ばせておいた。おばあちゃんとの思い出が詰まった、大切な食材。
魚のアラを煮込み始めた時点で、シカェアは別の小皿に取り分けた出汁に漬けておいた。一時間かけてじっくりと、シカェア特有の甘みと酸味、そして独特の香りを出汁に移す。そして、そのシカェアをすり潰してツユに混ぜ込むことで、味に深みと複雑さを与えるのだ。
シカェアの皮から抽出した甘みのあるエキスを、スープに数滴垂らす。
琥珀色の雫が、黄金のスープに溶け込んでいく。
すると、スープ全体の味が一気に調和し、深い旨味へと昇華される。
最後に味付けをする。塩、そして隠し味として、ゴミ箱で見つけた肉の脂身を炒めて作った油を数滴垂らす。
本来なら、村で採れるアビノキノコを乾燥させて粉にしたものを加えたいところだが、ここでは手に入らない。代わりに、魚の骨を粉末状にすり潰したものを隠し味として使う。
完成。
【アライのスープ】
見た目は地味だ。高価な器に盛られた他の料理人たちの華やかな品と比べれば、みすぼらしいとさえ言えるかもしれない。
でも、この一杯には僕とおばあちゃんの技術のすべてが込められている。
捨てられた食材から生み出した、究極の一品。木の実の甘みと酸味が魚の旨味と絶妙に調和し、口に含んだ瞬間に幾層もの味わいが広がる。
これが、おばあちゃん直伝の秘伝の技法なのだ。
おばあちゃん、見ていてね。
僕は、あなたの料理を受け継いでいるから。
村にいた時よりもずいぶん楽だった。食材の質が良すぎるのだ。
村の貧相な食材では、この十倍の工程を踏まえないとスープの出汁すら作れない。腐りかけた食材の毒を抜き、硬い部分を柔らかくし、臭みを消し……それだけでも大変な作業だった。
でもここのA級食材は、基本的な品質が桁違いに高い。素材そのものが持つ旨味と栄養を、ほんの少しの手間で最大限に引き出すことができる。
見渡すと、彼らもポツポツと料理を完成させているようだった。
お互いの健闘を称え合っている。
「これだけの食材を調理できて光栄だった」
「邪神軍で成り上がってみせる」
「最高の料理が作れた、きっとお褒めにあずかるだろう」
のんきなことを言っていた。
確かに調理器具も食材も超一級品だった。ただ、それを扱う作り手が三流であれば、結果は目も当てられないものになる。
僕の目には、どれも見るに堪えない料理ばかりに映った。せっかくの素晴らしい素材が、その真価を発揮できずに終わっている。
彼らのレベルは、僕が思っていたよりもずっと低かった。
ただし、かろうじて料理と言えるレベルのものを作った人が二人だけいた。
一人は髭の長いおじいさん。名前は確か……。
「モチキチさん、あなたのおかげで最高の料理を作れました!」
「そうだろ、そうだろ。罰を恐れてどうする! これだけの食材を扱える機会はめったにない。料理人の誉れだろうが。楽しめ、楽しめ。存分に楽しんで料理を作ればいいんだ」
「「はいっ!」」
そう、モチキチだ。
罰を恐れて萎縮していた料理人たちが、この人のリーダーシップで気力を取り戻していた。年老いているが、その目には確かな自信と経験の光が宿っている。
「どうだ。俺の最高傑作【フラワーロード】の完成だ」
モチキチが誇らしげに差し出したのは、美しく盛り付けられた炒飯だった。
彩り豊かな野菜が花びらのように散りばめられ、中央には卵黄が太陽のように輝いている。確かに見た目は美しい。
「すげぇええ! なんて美しい炒飯だ」
「そうだろ。炎を制する者は料理を制する。料理の基本は炒飯で決まるんだ。覚えておけ」
「はい、さすがS級料理人、味王モチキチさんだ。完璧な炒飯でした」
「当然だ。下手な料理を作れば、ニールゼン閣下に申し訳が立たねぇ」
「そうか。モチキチさんはあの上級大将であられるニールゼン様の推薦でこちらに来られたのですね」
「おぉよ。俺は、あの人のどこまでもストイックな性根に惚れ込んだのさ。俺の腕は、あの人のためにある」
「なるほど。俺たちも推薦してくださったミュッヘン様のために負けてられねぇ。モチキチさん、勝負です」
「お前たち、その意気だ」
モチキチを中心に料理人たちが盛り上がっている。確かに彼の作った炒飯は、他の料理人たちの作品とは一線を画していた。
でも……完璧な炒飯? それは違う。
炎を制しきれていない。
僕の目には見える。すべての具材にベストな火が通っていない。米の芯の部分に微妙なムラがあり、野菜の食感も統一されていない。
ニンジンは火が通りすぎて柔らかくなり、本来の歯ごたえを失っている。逆にネギは生焼けで、辛味が残っている。
僕の基準では、及第点がいいところだ。
モチキチはまだまだ食材に助けられている感が否めない。技術はあるが、食材との真の対話ができていない。大金を払ってまで食べようとは僕は思えない。
ただ、他と比べればモチキチの炒飯は、確かに「料理」と呼べるレベルにはある。他があまりにもひどすぎるからだが。
そしてもう一人、まだマシな料理を作っていたのは、赤毛の髪が長い少女だった。
確か名前は……。
「おい、ボケっとしてていいのかよ」
「あ、僕?」
「そうだよ。お前だ。確かシロって言ったっけ?」
「はい、シロです。え、えっと、あなたは――」
「アタイはジャンだ」
そう、ジャンだ。
モチキチたちの一派に加わらず、黙々と一人で料理をしていた少女。口調は乱暴だが、その目には真摯な職人気質が宿っている。
「それでジャンさん、僕に何かご用ですか?」
「ご用って、お前……状況わかってるのか? 厨房の端っこでごそごそ何かやってたみたいだけどよ。ちゃんと厨房に来て真面目に料理しないと、本当に罰を受けるぞ」
ジャンの表情には、本気の心配が浮かんでいた。
「で、でも、僕は獣人で、厨房に近づくなって――」
「そんなの気にするな。アタイだって元は奴隷だ。ここで気にするのは料理の腕だけだろうが。出自なんて関係ない」
赤毛の少女ジャンは、そう言い放った。
彼女の過去について詳しくは聞けなかったが、その言葉からは苦労してきた人生が垣間見えた。きっと僕と同じように、理不尽な扱いを受けてきたのだろう。
口は乱暴だけれど、これって僕を心配してくれているんだよね。嬉しい。村ではこんな優しさに触れることはめったになかったから。
「優しいですね。僕なんかのためにありがとうございます」
「ば、ばっか。そんなんじゃねぇよ。アタイは、ここで一番の料理人だって示さないといけねぇんだ。不戦敗する奴がいたら困るだろう」
ジャンは顔を赤らめながらそんなことを言う。きっと素直じゃない性格なのだろう。でも、その優しさは本物だと感じられた。
「ジャンさん、でも大丈夫です。料理は完成してます」
「完成って――お前、ろくに食材集めてなかっただろうが」
「いいんです。それよりジャンさんの料理を見せてもらえませんか?」
「いいぜ。参考にしてもいいが、レシピは秘密だぞ。料理人にとってソースは命だからな」
ジャンに促されて、彼女の調理台まで歩く。他の料理人たちの間をすり抜けると、焼けた油の匂いがひときわ濃くなった。
ジャンが作った料理は【ガラガラ鳥のソテー】だった。
最上級のガラガラ鳥の胸肉を使った豪華な一品。見た目は確かに美しく、香りも悪くない。
皮目は黄金色に焼き上げられ、付け合わせの野菜が彩りを添えている。ソースは艶やかに光り、一見すると完璧な仕上がりに見える。
でも……。
蒸し方はいいのだが、皮の焼き加減が甘い。
中途半端な火の通し方で、皮の旨味を十分に引き出せていない。皮と肉の間にある脂が、完全に溶け出していない。あと三十秒、強火で焼いていれば、パリッとした食感と香ばしさが生まれたはずだ。
詰めた香辛料も配分が辛めに偏りすぎている。そのうえ、シャマの葉っぱの香りが強すぎて、全体のバランスが悪い。
これでは、せっかくの高級食材の持ち味が台無しだ。ソースの繊細な味も、強すぎる香辛料とハーブに負けてしまっている。
このままでは、ジャンも罰を受けるかもしれない。最悪の場合、殺される可能性もある。
人族の料理人が死んでも関係ないと思っていた。でも、優しくしてくれたジャンは別だ。この子だけは助けたい。
「ジャンさん、ガラガラ鳥の上に載ってるシャマの葉っぱをすぐに取り除いて」
「なんだって? アタイの料理に文句でもつけようってのか?」
ジャンの目が険しくなった。料理人にとって、自分の作品を否定されることほど屈辱的なことはない。
「いいから早く! このままだと――」
「何わけわからないことを言ってやがる。邪魔をするならただじゃおかないよ」
ジャンは包丁を握り締めて、僕を睨みつけた。
あぁ、だめだ。どんどん香りが損なわれていく。
シャマの葉っぱの香りが、肉に染み込み始めている。時間がない。
僕が代わりに一から作ってあげたい。でも、それはルール違反だ。せめて助言をして、応急処置をするしかない。
「じゃあ、アンチョビとオリーブを足して、もう一度蒸し直した方がいい」
「アンチョビとオリーブだと? そんな刺激の強いものを足したらソースの味が壊れる。アタイの料理にこれ以上ケチをつけるなら――」
「お願いです。聞いてください。それは普通に蒸すから壊れるんです。圧を加えて肉汁を逃がせば、問題ありません。香りの本質をよく考えて」
「肉汁を逃す? 香りの本質なら考えて――」
ジャンの表情が変わった。最初は怒りと困惑だったが、だんだん理解の光が宿ってきた。
「いや、そうか。圧を加えれば確かに……香りの保存にその手があったか」
ジャンは僕の助言を理解してくれた。料理人としての直感が働いたのだろう。
ソテーをフライパンに戻し、蒸し直しを始める。油が弾ける音と白い蒸気が立ち上り、ジャンの赤毛が湯気に揺れた。
すぐ横に立って手元を覗き込みながら、僕はジャンの料理に逐次指示を出していく。
「そうそう、それから胸肉に圧を加えながら、【燻】と【焼】を三対一の比率で行い、アンチョビを振りかけてください」
「さ、さらっと言いやがるな。さっきからかなり高度な技法を要求してるぞ」
「……高度ですか?」
「あぁ、モチキチのじいさんかアタイぐらいの腕がないと絶対に無理だ」
ジャンはそう言うけれど……僕が言っているのは、ごく基本的な手法だ。
本当は、もっともっとシビアに温度管理をして、火加減を調整して、香辛料の配合を微調整しないといけないのに。村では、こんなの当たり前の技術だった。
あぁ、もう僕が直接作ってあげたい。でも、それはできない。
火を落とすタイミングが三秒遅い。でも「三秒」を言葉でどう伝えればいい? 香辛料もひとつまみ減らしたいが、僕の「ひとつまみ」とジャンさんの「ひとつまみ」では量が違う。
おばあちゃんは、こういう時どうしていただろう。僕の手を取って、一緒に包丁を握ってくれた。言葉ではなく、手のひらの温度で教えてくれた。
歯がゆい思いを抱えながら、言葉だけで指導を続けた。
そして……。
【ガラガラ鳥のソテー改】が完成した。
「完璧だ!」
ジャンは嬉しそうに完璧だと叫んだが、僕に言わせれば……失敗だ。
アンチョビの香りがまだ少し強い。配分の調整が甘かったようだ。圧の加減も完璧ではなく、肉汁の逃がし方にムラがある。
人に指示して作った料理とはいえ、こんなに自信を持てない料理を出すのは初めてだ。
あぁ、人に教えるのって本当に難しいんだな。おばあちゃんがどれだけ教え方が丁寧で上手だったかがわかる。僕なんか、おばあちゃんの足元にも及ばない。
最初からやり直しをする時間はもうない。
「シロ、助かったぜ。お前やるな。アタイの自信作がここまでのものに仕上がるなんて思わなかった」
「え、えっと、僕は別に……お役に立てなかった気がします」
「おいおい、謙虚すぎるのは嫌味だぞ。とにかくお前には借りができた。借りは絶対に返す」
「あ、はい……ありがとうございます」
「ふふ、完璧な料理だ。このソテーは、アタイの新しい自信作になる。これならドリュアス様もお喜びになるに違いない」
ドリュアス!?
ジャンは【大将】のドリュアスに連れてこられたのか。オルティッシオが「クソ参謀」と呼んでいた人物だ。
オルティッシオはドリュアスが連れてきた料理人には絶対に勝てと言っていたが……これって敵に塩を送ったことになるのかな?
まぁ、これくらいいいよね。僕の【アライのスープ】なら、誰にも負けないし。
作ったアライのスープを木製のトレーに乗せる。
「おい、シロ! お前、それ!」
「はい、なんでしょう?」
「なんでしょうって――お前、そのスープ、アライだろ? それ失敗してるじゃないか!」
「いえ、失敗してません」
「シロ、ここはけっこうシャレにならない場所なんだ。失敗作を提出しようものなら何をされるかわからないぞ」
ジャンの表情は本気で心配していた。
「ジャンさん、お気遣いありがとうございます。でも、本当にこれでいいんです」
「いや、アライを煮るのはご法度だろ。アライは煮ると出汁が身に吸収されてしまって、旨味が台無しになる。お前ほどの腕で、それがわからないはずが……」
ジャンは困惑した表情を浮かべた。
「いや、そうか。お前、厨房が使えなかったもんな。手持ちの鍋で煮るしかできなかったんだな。よし、アタイのところを使え。提出が遅れるが、失敗作を提出するよりマシだ」
「ジャンさん、いいんです」
「お、おい、待て。本当にいいのかよ!」
ジャンは焦って忠告してくれるが、大丈夫だ。
【アライのスープ】の完成形は、あれなのだ。煮ることで魚の旨味を最大限に引き出し、野菜の甘みと調和させる。一般的な調理法とは真逆だが、おばあちゃんが辿り着いた究極の技法なのだ。
「料理の提出はこちらへ」
厨房の奥にある搬出口から、兵士が一品ずつ受け取って運んでいく。僕も列に並び、トレーを差し出した。兵士は僕の顔を一瞥し、スープを受け取ると無言で通路の奥へ消えていった。
それから長い時間が過ぎた。
僕たちが提出した料理を、ティレアが食べているのだ。
地下帝国の奥にある特別な部屋で、一人ずつ料理を味見している。その間、僕たち料理人は厨房で待機していた。
厨房の空気は重かった。
かまどの火は落とされ、先ほどまでの熱気は消え去っている。代わりに、冷たい緊張感だけが漂っていた。
誰も口を開かない。
料理人たちは壁際に思い思いに座り込んでいた。モチキチは腕を組んだまま目を閉じ、ジャンは僕から少し離れた場所で膝を抱えている。
時折、誰かが唾を飲み込む音だけが響く。
僕の料理なら大丈夫。他の料理と比べるまでもない出来である。
不味いと言って殺されるとしたら、あの下手くそたちだろう。ティレアがシビアな審査をするなら、モチキチも危険かもしれない。
ジャンのソテーは微妙だ。
多少応急処置をしたので、モチキチ以上の料理にはなったと思う。だが、果たしてあのレベルでティレアに満足してもらえるだろうか?
優しいジャンが殺されるのは忍びない。もっと上手い教え方ができていたら……。
後悔の念が胸を締め付ける。
そんな重苦しい気持ちで体育座りしていると、突然、通路の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
ダン、ダン、ダン。
石造りの床を蹴る、力強い足音。一歩ごとに近づいてくる。
その音に、厨房の空気が凍りついた。
「ティレア様、お待ちください!」
オルティッシオの声も一緒に聞こえる。あの傲岸不遜なオルティッシオが、必死に追いすがっている。
もしかして、ここにティレアが来るのか!?
使者ではなく、直接文句を言いに来たのだ。きっと料理が不味すぎて、怒り心頭に発しているのだろう。
厨房にいた全員に緊張が走る。
料理人たちの顔は青ざめ、手が震えている。中には腰を抜かしそうになっている者もいた。モチキチでさえ、表情を引き締めて黙り込んでいる。
足音がどんどん近づいてくる。
そして――。
どんっ!
ドアが勢いよく開かれた。
蝶番が悲鳴を上げ、扉が壁に激突する音が厨房中に響き渡る。
その衝撃で、吊り下げられていた鍋がカランカランと揺れた。
ティレアが現れた。
金髪の美しい女性だった。
うわぁ、きれい……。
体育座りのまま見上げた僕の視線の先に、扉を背にしたティレアが立っていた。美しく長いサラサラの髪が、勢いよく開かれた扉から流れ込んだ風に揺れている。ぱっちりとした二重瞼、抜群に整った目鼻立ち。まるで女神のような美貌だ。
意外も意外だった。ティレアって、こんなにも美しい人だったんだ。
オルティッシオが心から仕える君主なのだから、もっと恐ろしい鬼のような顔を想像していた。巨大で威圧的で、近づくだけで戦慄するような存在だと思っていた。
想像と全然違う……可愛らしくて、上品で、まるで王族の姫君のようだ。
ただ、その美しい顔は今……明らかに興奮している?
少なくとも、ものすごく高揚しているのがわかる。
ふんふんと鼻息を荒げて、その美しい瞳も血走っているようだ。頬は紅潮し、全身からただならぬ気迫が発せられている。
その手には、一つの椀が握られていた。
あぁ、やっぱり不味い料理に怒っているのだろう。
おばあちゃんの時と同じだ。権力者が料理人に怒りをぶつける時の、あの恐ろしい光景と同じだ。
これから血を見ることになる。
これから起こるであろう惨劇を想像し、僕は下を向いた。血を見るのは慣れない。どんなに慣れようとしても、やっぱり怖い。
下唇を噛み、覚悟を決める。
大丈夫、僕じゃない。少なくともここにいる料理人全員を足しても及ばない、他を圧倒的に凌駕したスープを作った。
あとはジャンが作った料理でないことを祈るしかない。
「このアライのスープを作ったのは、誰よぉお!!」
アライのスープ!?
ティレアの声に驚いて顔を上げる。血走った瞳が厨房を舐め回すように見渡している。
うそぉおお!!
僕が作った料理だぁあああ! なんでぇええ?
力と破壊の権化ティレアが手に持っていたもの、それは間違いなく僕が作った【アライのスープ】だった。




