第一話 「天才料理人シロ 登場」
「これで今日の分は終わり」
ぐつぐつと音を立てながら煮込んだ野菜シチューを、重い大鍋から木製のお玉ですくい上げる。湯気が立ち上り、ほのかに香る野草の匂いが鼻をくすぐった。一皿、また一皿と、欠けた陶器の皿に丁寧に盛り付けていく。最後の一滴まで無駄にしないよう、鍋の縁についたシチューもきれいに拭い取った。
戦士たち二十三人分の食事の準備が完了した。
額に流れる汗を手の甲で拭い、肩の力を抜いてほっと息をつく。薄暗い調理場に、かまどの火だけがぱちぱちと音を立てている。
今日は、いい日だ。
小突かれることも罵倒されることも五回しかなかった。朝一番にガウに蹴り飛ばされ、昼過ぎにギウに頭を叩かれ、夕方には通りすがりの戦士に「のろま」と罵倒された程度。いつもなら十回は超えるのに。
「……はは」
自分でも情けなくなるような、乾いた笑いが口から漏れる。
右のこめかみ辺りが今でもじんじんと痛む。叩かれてできたコブを指先でそっと触りながら、苦々しく自嘲する。五回で「いい日」だなんて、どれだけ惨めな毎日を送っているのだろう。
僕は、ベジタ村の獣人シロ。今年で十六歳になる。
皆からは弱虫シロと呼ばれている。身長は一メートル五十センチほどしかなく、村の十二歳の子供たちと変わらない。チビで非力で泣き虫、料理しか取り柄がないろくでなしだからだ。
狼の血を引いているはずなのに、耳も尻尾も他の獣人たちより一回り小さく、毛色も灰色がかって薄い。まるで血が薄まったような、中途半端な存在だった。
ベジタ村は、狼族の集落の一つ。人口は約百人ほどと数こそ少ないが、狼族は恐れられた戦闘民族だ。鋭い爪と牙、そして人族を遥かに上回る身体能力で、数多の集落を攻め滅ぼした血塗られた歴史を持つ。
近隣の村々では、「狼が来る」という言葉が子供を泣き止ませる脅し文句として使われているほどだった。
特に、第七代族長ザイヤ様の時代には、全ての獣人族を武力で従え獣人王と讃えられた。巨大な体躯に漆黒の毛皮、そして敵を見据える血のように赤い瞳。当時、巨大な軍事力を背景に世界を席巻していた人族の王ですら、ザイヤ様の名を聞けば震え上がり、逆らうことなど考えもしなかったという。
そんな狼族の掟は、強者こそ正義。
力の強い者が上に立つ。
例を挙げれば、キロロ村のヤルアシ様、ヤリアワ郷のサイウィクゥウ様だ。いずれも出自は低かったが、自らの豪腕で狼族の集落の長になられた。
もちろんベジタ村にも数多の強者がいる。
ゴブリンの集落を一人で壊滅させたヤム様、巨大オークを一撃で仕留めたギガント様など、枚挙にいとまがない。
彼らは、強い狼族の中でも別格だ。精鋭狼部隊の中核を担っている。そして、そんな精鋭狼部隊を率いているのが、現族長のベジタブル様だ。
伝説と言われたザイヤ様に最も近いと言われる男。
ベジタブル様が黒といえば、白いものも黒だ。ベジタブル様が通れば、皆が恐れ畏怖する。
皆が皆、戦闘民族の名に相応しい戦士たちだ。
だけど……。
調理用のナイフを握る手に、じっと力を込める。
僕は嫌いだ!
奴らは確かに強い。でも、その力を振りかざして弱い者を踏みにじることしか知らない。粗暴で傲慢で、力こそが全てだと信じて疑わない連中だ。力の弱い者をいじめることに何の疑問も抱かない。それどころか、それが当然の権利だとすら思っている。
特に、ガウとギウ!
あの双子の兄弟は、弱者いじめを嬉々として、まるで娯楽のように楽しんでいる。二人とも村でも上位の実力者だが、その力を使って何をしているかといえば、抵抗できない相手をなぶることばかりだ。
僕だけならいい。僕は、弱虫で役立たずだから、文句を言う筋合いもない。でも奴らは、力の弱くなった老人や、まだ力が発展途上の子供まで標的にする。そんな奴らを見ていると、胸の奥で何かが煮えくり返る。
優しかったトキオおじいさん。村の子供たちに昔話を聞かせてくれた、温かい笑顔の人だった。足腰が弱くなって狩りに出られなくなった途端、ガウたちの標的になった。最後は村の入り口で倒れているのを発見された。
力はなかったけれど、勉強熱心で親孝行だったマダ君。まだ十三歳の少年で、いつも母親の手伝いをしていた心優しい子だった。戦士としての才能がないというだけで、訓練という名目で半殺しにされた。今も寝たきりで、母親が看病している。
そして、大好きだった僕のおばあちゃん……。
僕を「シロちゃん」と呼んで、いつも優しく微笑んでくれた。料理を教えてくれたのも、生きる希望をくれたのも、おばあちゃんだった。でも、もうその温かい手に触れることも、しわくちゃな顔を見ることも、二度とできない。
く、くそっ!
怒りと悔しさで手が震える。怒りのあまり持っていたおたまを地面に叩きつけそうになって、慌てて両手でしっかりと握り直した。
「はぁ、はぁ、はぁ」
荒々しく肩を上下させながら、乱れた呼吸を必死に整える。
落ち着け。冷静になるんだ。
感情的になったところで、弱者は殺されるだけである。怒りを表に出せば、それは死を意味する。この村では、弱い者が強い者に刃向かうことは、自殺行為以外の何物でもないのだから。
ガウとギウは、直径一メートルを超える大岩を片手で軽々と持ち上げられる化け物じみた強者だ。
ガウは体重百キロを超える巨体で、その腕は僕の胴体ほど太い。ギウの脚力は地面にひび割れを作るほどで、その素早い動きで獲物を追い詰める。
だから、どんなに人格が腐っていても、どんなに嫌な性格でも、村中の誰もが一目置いている。強さこそが全ての世界では、人格など二の次なのだ。
ガウたちがどんなに理不尽なことをしても、相手が弱者なら誰も咎めない。それどころか、「弱い方が悪い」で片付けられる。そこに道理も正義も通用しない。あるのは、ただ力の論理だけだ。
弱者こそ悪。
弱者は、強者の前では下を向いて歩かなければならない。目を合わせることも許されず、声を荒げることも許されず、ただひたすら耐えるしかない。それがこの村の、そしてこの世界の掟なのだ。
これは仕方がない。理不尽だけれど、仕方がないことだ。現実を受け入れるしかないんだから!
いつものように、心の奥底で渦巻く怒りや憎しみに蓋をする。そうしなければ、この村では生きていけない。感情を表に出した瞬間、僕の命は終わる。
世の中は理不尽で溢れている。強い者が弱い者を踏みにじり、それが当然とされる世界。でも、生きているだけでも幸いだと思わなければならない。
少なくとも、まだ息をしている。まだ心臓が動いている。それだけで感謝すべきなのかもしれない。
僕は弱い。どうしようもないほど、救いようもないほど弱い。
腕力は、村の女の子以下だ。力試しをすれば、十二歳の少女にも負ける始末。下手をすれば、鍛えた人族の商人や職人よりも劣るかもしれない。狼族としてこの世に生を受けながら、その血の恩恵を何一つ受けていない。
そんな出来損ないの男が、戦闘民族の村でどう扱われるかは、想像するまでもない。
殴られ小突かれるのは日常茶飯事。
道を歩けば石を投げつけられ、何もしていなくても因縁をつけられる。食事の時間になれば皆の前で屈辱的な真似をさせられ、それでも笑顔で「ありがとうございます」と言わなければならない。
一度ガウの機嫌を損ねて、肋骨を三本折る大怪我をしたこともあった。治るまでの二ヶ月間、僕は這いずりながら料理を作り続けた。それでも誰一人として同情してくれる者はいなかった。それどころか「弱い奴が調子に乗るからだ」と言われる始末だった。
そんな最下層の扱いを受けている僕は、村の奥の奥、人里離れた僻地にある捨て地で、まるで野良犬のように細々と暮らしている。
屋根は雨漏りし、壁には隙間風が吹き抜ける。冬には凍え、夏には蒸し暑さに苦しむ。それでも、ここが僕に与えられた唯一の居場所だった。
ちなみに村の中央には族長の豪壮な屋敷があり、その周辺には【幹部戦士】たちの立派な家が建ち並ぶ。そして、さらにその周辺には【強戦士】たちが住み、昼夜を問わず狩りや他部族の襲撃に備えて訓練に励んでいる。彼らの家からは、いつも威勢のいい笑い声や武器を打ち合う音が聞こえてくる。
族長の近くに住むほど序列が上で、権力も富も名誉も手に入る。それがこの村のヒエラルキーだった。
また、戦いに出なくても村の武器や農具を作る鍛冶師は重宝される。彼らの技術は村の存続に関わるため、戦士たちからも一目置かれている。鍛冶師の家には、いつも上質な食材や酒が届けられ、豊かな暮らしを送っている。
村の女の子より弱い僕は、当然、狩りや襲撃メンバーからは最初から除外される。戦場に出れば、足手まといどころか敵に塩を送るようなものだ。まして鍛冶なんて、繊細な技術と強い腕力が必要な仕事ができるはずがない。ハンマーを振り上げることすらままならない僕には、まるで縁のない世界だった。
結局のところ、僕の扱いは村の小さな子供たちと何ら変わらない。いや、子供たちにはまだ将来への期待がある分、僕の方が劣っている。成長の見込みもない、十六歳にもなってこの体たらく。村にとって僕は、ただ食料を消費するだけの、完全なお荷物でしかない。
そんなお荷物は、普通なら村から追放されるか、最悪の場合は処分されてしまう。実際、過去にも何人かの「役立たず」が、ある日突然姿を消していた。だが、そんな僕にも、たった一つだけ取り柄があった。それがあるからこそ、今日まで生きながらえてこられた。
それが、料理。
僕は、どんな食材でも美味しく料理できる。新鮮な肉や野菜はもちろん、腐りかけた物、巷で絶対に食べられないと言われる腐臭のする物だろうと、僕の手にかかれば見違えるような料理に変わる。毒草と食用の草を見分ける目も持っているし、食材の下処理から調味まで、全てを一人でこなせる。
どんなに不作の年でも、僕は山や川で食材をかき集めて、村の全員が満足できる食事を作り上げてきた。飢饉の時にも、誰一人として餓死させたことはない。それが、僕の唯一の、そして絶対的な価値だった。
料理の腕だけで生かされている。それ以外に、僕には何の存在価値もない。
毎日毎日、腹を空かせた屈強な戦士たちのために料理を作らなければならない。彼らの食欲は人族の三倍はあり、しかも味にうるさい。少しでも気に入らなければ、容赦なく暴力が飛んでくる。村の戦士たちの機嫌を損ねた瞬間、そこで僕の命は終わってしまう。
毎朝目が覚めるたびに思う。今日も無事に一日を終えることができるだろうか、と。食材は足りるだろうか、味付けは気に入ってもらえるだろうか、何か粗相をして殺されることはないだろうか、と。
もし料理できなくなれば……もし手を怪我したり、病気になって動けなくなったりすれば……。
考えただけで背筋が凍る。
おばあちゃん……。
急に胸が苦しくなって、うっ、うっ、と嗚咽が漏れる。
いつの間にか涙が頬を伝って流れていた。温かい雫が、ぽたぽたと床に落ちて小さな水たまりを作る。シャツの胸の部分にも、じわじわと染みが広がっていく。
おばあちゃんは、僕が料理を覚える前から優しかった。「シロちゃんは、きっと素晴らしいことができるようになる」と、いつも温かい目で見てくれていた。でも、その予言は半分しか当たらなかった。確かに料理はできるようになったけれど、それ以外は何もできない、情けない孫のままだった。
いけない。こんなに涙でぐしゃぐしゃな顔をしていたら、ガウたちに因縁をつけられてしまう。
せっかく今日は、嫌がらせの少ない日だったのに……。
ごしごしとシャツの袖で涙を拭う。
いつもの顔を作る。ヘラヘラと笑みを張り付け、敵意のないことをアピールだ。
おばあちゃん、今日も頑張るから。
約束は守るよ。
僕は、死ねない。




